夕食後、松坂は雪蘭と面と向かい、姿勢を正すとこう切り出した。
「雪蘭、大事な話がある。俺の仕事についてだ。俺は補給部に所属していることになっているが……」
「……正体は満州国の内情を探る諜報員、そう、おっしゃいたいのでしょ?」
松坂は驚いた。
「……知っていたのか」
「そして私は単なる皇帝重臣の娘ではありません」
「……満州国を関東軍から独立させるための諜報員、そう言いたいのだろ?」
雪蘭は笑みをこぼす。
「やっぱり、あなたもご存知でしたか」
「だって俺は……」
「だって私は……」
諜報員だから、とは言わなかった。
「おまえの夫だから」
「あなたの妻だから」
二人は笑い合った。
なんのことはない、互いの正体はとっくに相手の知るところとなっていたのだった。
こうして、歪んでいた二人の関係は、少しずつ夫婦らしい関係へと変わりつつあった。
しかし、松坂も雪蘭も、互いにまだ明かしていない秘密を抱えたままであった。
* * *
朝靄が立ち込める中、松坂は普段より早く起床した。
国境に近い町へと足を向ける。
この任務は、関東軍にも満州国にも知られてはならない。
約束の場所で、松坂は待ち人と対面した。
松坂はその男に、関東軍の軍備状況について詳細に報告した。
「精強百万関東軍と呼ばれたのは、もはや昔話です。在留日本人を根こそぎ動員して、ようやく数だけ七十八万人を保ってはいますが、装備も貧弱、士気も低い。将校への賄賂が横行し、私腹を肥やす者ばかりです。精強なる兵員はすべて南方へと送られました。今の関東軍に、戦う力はありません」
松坂は満州に駐屯する関東軍の詳細な部隊配置図を、目の前の男に手渡す。そこには、各部隊が所有する大砲、弾薬、糧食といった、補給部隊でこそ把握できる機密情報も記されていた。
坊主頭の男はそれらの機密情報を受け取ると、薄ら笑いを浮かべた。
その態度に松坂は苛立ちを覚えたが、仕事の一部だと割り切るしかなかった。
帰り道、かつて立ち寄った洋品店に足を運んだ。
店内は静かであり、前に訪れたときと変わらぬ佇まいを見せていた。
「あの……すみません、この外套、先月、この女性が買っていきませんでしたか?」
松坂は懐から雪蘭の写真を取り出し、店員に見せた。
どうしても確かめたい。そう思ったのだ。
「はい。確かにこの女性が外套をお求めになりましたけど……なにか?」
「いえ。なんでもありません」
松坂は店を後にした。
雪蘭もこの国境の町を訪れていたのだ。その意味するところとは──
* * *
それから数日後、雪蘭もまた未明に家を出た。
国境に近い町へと足を向ける。
この任務は、満州国にも関東軍にも知られてはならない。
約束の場所で、雪蘭は待ち人と対面した。
その男に、満州国の皇宮である緝熙楼の警備体制と間取り図について報告した。
「眠れる獅子と呼ばれた清は、ついに目を覚ますことのない獅子となりました。清の復興は絶望的です。皇后は重度の阿片中毒患者となりました。もはや、正気を維持できておりません。おそらくは、お命も長くはないかと。皇帝が住まう緝熙楼の防空壕は、築山の下にあります。堅牢であり、おそらくは空襲での破壊は不可能かと」
雪蘭は、緝熙楼の詳細な間取り図を相手に渡した。
緊急時に皇帝が脱出するための地下トンネルの出入口も記されている。
長い髪をかき上げながら不気味な笑みを浮かべるその男に雪蘭は嫌悪感を抱いたが、これも仕事の一部だと自分に言い聞かせた。
帰り道、かつて立ち寄った洋品店に足を運んだ。
店内の空気は、時間の経過を感じさせなかった。
「あの……すみません、この髪飾り、先月、この男性が買っていきませんでしたか?」
雪蘭は松坂の写真を店員に見せる。その手は微かに震えていた。
「はい。確かにこの男性が髪飾りをお求めになりましたけど……なにか?」
「いえ。なんでもありません」
雪蘭は店を後にした。
松坂もこの辺境の町を訪れていたのだ。その意味するところとは――
* * *
窓から差し込む夕日が、屋敷の中を照らしていた。
その光と影が、時間の流れを告げるように、静かに移動していく。
雪蘭は額の汗を拭い、満州での主食であるコウリャンを炊いた土鍋を食卓へと運んだ。
「いただきます」
松坂は手を合わせ、そして食べ始める。
コウリャン、それは日本人には馴染みの薄い、赤褐色の穀物。
コウリャンは、寒冷地である満州の命綱でもあった。
乾燥に強く、痩せた土地でも育つ、生きるための糧。
松坂は黙々と食べている。
赤褐色のコウリャンの蒸し飯は、土の匂いがする。
米よりも粒が大きく、噛むとざらついた食感がある。
関東軍として満州に派遣された当初は戸惑った味ではあったが、幾年も経つうちにコウリャンは松坂の日常となった。
雪蘭は聞いた。
「あなた、内地のご飯、覚えてる?」
「米の飯か。軍では今でもよく食べている。陸軍では伝統的に白い米を食べるんだ。米を食べたくて入隊するやつもいるくらいだからな」
「……やっぱり、内地のご飯の方が、美味しゅうございましょう?」
松坂は、しまったと思った。
雪蘭が作る満州のコウリャンを否定するつもりはなかった。
「白い飯はおいしいさ。でも、今はここが俺の居場所だ。雪蘭が炊くコウリャンは最高に美味い」
その言葉に、雪蘭は思わず笑みをこぼす。
「まぁ、お世辞なんてよろしいのよ」
「お世辞じゃないさ。雪蘭、いつもありがとう」
その言葉に、雪のように白い雪蘭の頬は、紅く染まった。
窓の外では夕暮れの風がコウリャン畑を揺らし、無数の穂が波のように揺れていた。
松坂は食事を進める。
コウリャンの味が口の中に広がっていく。
同時に、雪蘭と共に異国の土地で生きているという実感も、松坂の心の中に広がっていくのであった。
松坂は静かに食事を終えると、覚悟を決めて雪蘭に向き合った。
「雪蘭、話がある」
「はい」
彼女の表情には、既に悟りのようなものが見えた。
これから松坂が語るであろうことを、彼女は知っているかのようだった。
「俺達が結婚したのは……いわば政略結婚だった。それはお前も承知していたことと思う」
雪蘭は黙って聞いている。彼女の静けさは、時に雄弁よりも多くを語った。
「俺もお前も……上からの命令があった……」
「はい。その通りでございます」
雪蘭は凛とした姿勢を崩さなかった。彼女の中の何かが、今、解き放たれようとしている。
「……俺は、こんなことを言っては帝国軍人として情けない話ではあるが……心が痛い」
「その思い、私も同じく抱いておりました」
二人は互いを騙しあう結婚生活を続けてきたとはいえ、その偽りの根底にいつしか真実の感情が芽生えていたこともまた、事実であった。
「白い結婚……」
松坂はそうつぶやいた。
窓から差し込む夕日が、部屋を赤く染めている。
「Mariage blanc、そう言いたいのですね」
才知溢れる雪蘭は、その言葉の意味を正確に理解していた。
「確かに、白い結婚だったかもしれません。しかし、私達の暮らしは、結婚生活の色を変えたように思います。この満州の大地に広がるコウリャン畑。今は青々としていますが、秋になると赤くその色を変えます。私達の生活も、コウリャンのように成長し、秋には赤いものになると思っております」
「俺もそう思う。コウリャンが秋に情熱的な赤い色を見せるように、我々の関係もこれからもっと深いものになっていくと思っている」
「はい」
「だが、我々は『秋』を迎えることができるのか」
「…………」
「やはりそうか。雪蘭も分かっているんだな」
「…………はい」
「コウリャンの畑が赤く染まる頃、我々はおそらく、この地に居ることはできまい」
「……私も、そうなると予感しております」
静寂が二人の間に広がっていく。その沈黙は、かえって雄弁であるようにも二人には感じられた。
この秘密を共有することの意味を、二人は深く理解していたからである。
この地に留まれなくなる──そんな覚悟が、二人の心を一つにした。
「あの坊主頭に我々がもたらしている情報、それが結果として表れる時がもうじきやってくる」
「……坊主頭?」
以心伝心のつもりであったが、ここにきて急に齟齬が生まれる。
「あの人のことでございましょう? 男性には似つかわしくない長い髪、眼鏡をかけていて……」
「いや、あいつは坊主頭だ。眼鏡もかけていない」
「……明日、会うことになっています……一緒に来ていただけませんか? そこで確かめましょう」
「雪蘭、それはもう、そいつとの関係を切る、ということで間違いないな」
「……はい。やはり、私は祖国を裏切ることはできません」
「俺も同じだ」
* * *
翌朝、雪蘭はその任務を《《終わらせる》》ために家を出た。
松坂は時間をずらして家を出る。二人で行動しているところを、関東軍にも満州国官僚にも見られるわけにはいかない。
青々と茂るコウリャンの畑を横目に見ながら、二人はそれぞれ別の道を辿って国境近くの町を目指していく。
道すがら、夏の風がコウリャンの穂を揺らしていた。
雪蘭は約束の場所に到着。
そこには、長い髪の男が不気味な笑みを浮かべて待っていた。
今回の待ち合わせ場所は、いつもとは違って宿屋であった。
「いつもは俺が情報をもらってばかりだが、今回は俺様からお前に、ここだけの話を教えてやる」
「そうですか。で、それは何でしょう」
「我がソビエト連邦軍は、八月に日本に宣戦布告し、この満州を制圧する」
「何を言っているのですか? 私を誰だと思っておいでで。私は満州国諜報員、日ソ中立条約を知らないとでも?」
男は、雪蘭の言葉を笑い飛ばした。
「随分と呑気な諜報員だな。こんな娘が諜報員をやっているとは、満州国の行く末も目に見えている」
「大国たるソビエト連邦が、日本との約束を破るというのですか?」
「お嬢さん、国際情勢を甘く見てはいけないよ。ヤルタ密談の詳細は、満州国ごときの諜報員には預かり知らぬこと、ということか」
「日ソ中立条約は、来年4月までは有効のはずです」
「お嬢さん、人を信じちゃいけない。それが国ならなおさらだ。ソ連は日露戦争で味わった雪辱を果たす。何もおかしいことではない。ポーツマス条約で日本に取られたサハリンの南半分、あと、千島樺太交換条約でくれやった千島列島、それらはすべて、ソビエト連邦がいただくことになっている。これは連合国からのお墨付きだ。おっと、お前の国、満州国はその連合国から国として承認すらされていなかったな」
「つまり、あなたの国ソビエト連邦は、日本との約束を破ってでも領土を手に入れる。そういう国というわけですね」
「お嬢さん、いい言葉を教えてあげよう。勝てば官軍。戦争というものは勝った方が正義だ。よく覚えておけ」
「なんと卑劣な」
「ほう。二重スパイをしているお前がそれを言うのか。金に目がくらんで、満州国の機密を売っていた裏切り者のお前が」
雪蘭は黙ってしまう。男の言葉は残酷なまでに真実だったからだ。
雪蘭の人生は、ある意味、雪蘭のものではなかった。
生まれたときから何をするにも親の指示があった。どの学校に行くか、どんな友人を持つか、何を食べ、何を着るか。そのすべてを親が決めた。
意見など求められることはなく、従うことが当たり前。彼女はそれを疑問に思うことなく生きてきた。
むしろ、考えることを放棄することで心の平穏を保っていたのかもしれない。
だが、雪蘭は成長するにつれ、心の奥底に燻る疑問がだんだんと膨らんでいった。
「自分らしく生きているのであろうか」
雪蘭はかつて、親に逆らったこともあった。しかし、彼女の意志はその都度、押し潰された。
自由に生きるには力が必要。そう悟った彼女は、自分らしく生きるために大金を手に入れる決意をした。
金さえあれば、親の支配から逃れられる。
金さえあれば、自由を手に入れられる。
だが、まともな方法で手に入れるとなると、あまりにも時間がかかり過ぎる。
雪蘭は決断した。国家の機密を敵国に売る「二重スパイ」として生きることを。
満州の利権を狙っているのは、日本だけではなかった。
中国大陸の植民地支配を狙う大国の一つ、ソビエト連邦。
雪蘭はソ連に満州国の情報を売って金を稼ぐことにした。
最初は罪悪感があった。だが、取引を重ねる度に、それは薄れていった。
情報を流せば金が入る。
金が入れば彼女は自由に近づく。
こうして、雪蘭は祖国を愛しながらも祖国を売るという、二律背反な生き方を選んでいたのだった。
だが、そんな生き方に雪蘭は決別することにしたのだった。
ソ連の諜報員であるその大男は、ニヤニヤと笑いながら雪蘭にこう言った。
「お前が付けている、その髪飾り。随分と豪華だな。俺が渡した金で買ったんだろ?」
「違います! これは、夫から頂いたものです!」
「あぁ、あの松坂とかいう男か。あんなクズ野郎と結婚させられて、お前も重ねて不幸だな」
「松坂を侮辱するのは許しません!」
「ほう。白い結婚だと思っていたが、なんだかんだで情は湧くものなのか。だが、あんなクズ男のどこがいい? お前はあいつの正体を知っているのか」
「それがどうしたと言うのですか」
「そうか、知っているのか。なら、話は早い。二重スパイ同士で結婚していたとは、なんとも珍妙な話だ。我々の仲間で話のタネに使わせてもらうよ」
「話のタネ? あなた、生きてここを出られるとでも?」
雪蘭は懐から拳銃を取り出そうとするも、男に蹴飛ばされてしまう。
「お嬢さん、甘いんだよ。俺を誰だと思っている?」
拳銃を落とされた雪蘭は、動揺を隠しながらも強気をなんとか維持していた。
「誰だと思っているか、ですって? アンタはクソ諜報員、クズネツォフ、私の夫の前ではスミルノフと名乗っているんでしょ。あんたの本当の名前なんてどうでもいいわ」
「おやおや、威勢がいいのは褒めてやるが、お前の拳銃はほら、あそこだ」
クズネツォフは、部屋の隅を顎で指し示す。拳銃を拾いに行こうとする雪蘭をベッドに組み伏せて、男は言った。
「お嬢さん、俺がソ連の機密をお前に話している理由、まだ分からないのか」
「穢らわしいその手を離しなさい!」
「満州には我々ソ連軍の戦車部隊が侵攻する。関東軍にはソ連軍と戦う力などない。お前の旦那は関東軍の将校様だったな。お前の旦那は、お前を守ることは出来ない」
「松坂の悪口は許しません!」
「雪蘭、お前ほどの器量よしが、なぜあんなクソ日本人と関わっている? 何も守れないあんな男のどこがいい?」
「何度言ったら分かるのですか。松坂の悪口は許しません! 私は松坂を愛しています!」
「なぁ、雪蘭。俺はお前のことが好きなんだ。だからこそ、こんな情報を提供してやっているんだ。お前の祖国、満州はソ連によって終焉を迎える。お前は捕虜になる運命。だったら今、俺の女にならないか。俺の女になれば、捕虜になることもない。どうだ? 悪くない話だろ?」
「お断りします!」
雪蘭は男の下で抵抗を続ける。
「無礼者! こんな狼藉を働いて、私の夫が黙っているとでも?」
「松坂に何が出来る」
その瞬間、部屋の戸が開いた。
「こんなことが出来るんだよ」
そこには、拳銃を構えた松坂の姿があった。
松坂に飛びかかろうとするクズネツォフの顔面に銃口を向け、松坂は容赦なく引き金を引く。
弾丸はクズネツォフの頭を貫いた。
「おやおや、雪蘭の前ではおめかしをしていたというわけか」
松坂は、倒れたクズネツォフから、かつらと眼鏡を剥ぎ取った。
「别碰我的妻(俺の妻に触るな)、おっと、ロシア語の方がよかったかな。Не трогай мою жену!」
松坂の言葉を聞き終わる前に、クズネツォフは息絶えていた。
「あなた、遅いわよ!」
「すまない」
雪蘭は松坂に抱きついた。彼らの間に流れる感情は、もはや偽りではなかった。
「俺はお前を一生守り抜く」
「嬉しい! ありがとう!」
しかし、愛を語り合う余裕などなかった。宿屋の主が銃声を聞きつけて駆けつけてきた。松坂はクズネツォフの懐から金を奪うと、それをすべて宿屋の主に渡した。
「見なかったことにしてくれ」
大きな樽を調達してもらい、それを荷車に載せてクズネツォフの死体を移動させた。
しかし、いずれはこの事実もソ連軍に伝わることだろう。
二人は満州を脱出する計画を立て始めた。
窓の外には、何事もなかったかのように青々としたコウリャンの海が広がっていた。
まもなく、それらは赤く染まるだろう。
* * *
夕暮れの光が差し込んでいる雪蘭の父の書斎。
その部屋に、雪蘭の声が響き渡る。
「ソ連軍が、もうじき満州に侵攻してきます。どうか、ご対策を」
父は窓の向こうの夕焼けを眺めながら、ため息をついた。
「国の防衛は関東軍に任せておる。こういう時のための関東軍だ」
そう言いながらも、父の声には諦めが混じっていた。
長年にわたる日本による支配への恨みと服従の屈辱を、父は言葉の端々に滲ませていた。
「関東軍の力では、ソ連軍とは太刀打ちできません」
「……そんなことは分かっておる。だが、今の我々に、いったい何が出来ると言うんだ」
父は老いた顔を両手で覆い、言葉を続けた。
「皇帝陛下には伝えておく。雪蘭、お前は疎開の用意をしろ」
一度は滅びた清朝が、再び歴史の闇へと消えていく。
雪蘭は父を見つめる。
歴史の重みに潰されそうになる父の背中は小さく見えた。
「お父様、しっかりなさってください」
「雪蘭、生きろ」
その言葉は父の本心であった。
「国が滅びれば、お前はもはや諜報員でも何でもない。ただの、一女性となる。それでも生きていくんだ」
父は窓辺に立ち、夕闇が街を飲み込んでいくのを見つめながら言った。
「松坂、あいつはいい男だ。よき伴侶として、力を合わせて共に生きていけ」
「……はい。お父様」
窓の外の夕焼けは、にわかに沸き起こった黒い雲に飲み込まれていった。
同じ夕暮れの中、松坂の姿は諜報部の司令室にあった。
「ソ連軍がもうじき満州に侵攻してきます。どうか、ご対策を」
松坂の声には切迫感があった。しかし、そこには別の感情も混ざっていた。罪悪感だ。
「あぁ、そういう情報はちらほらと入ってきている」
窓の外から差し込む光の中に無数の塵が舞っている。
上官の声に切迫感はなかった。
「ソ連はドイツとの戦いを終え、戦力を極東に移動させております」
「分かっておる」
「では、内地からの援軍を要請してください!」
「……今の日本に、そんな余力があると思うのか」
松坂は黙り込む。
その沈黙こそが、すべてを物語っていた。
大日本帝国に戦う力などほとんど残っていないことは、誰の目にも明らかだった。
室内に入り込んだ夕闇の中で、松坂の心には暗い悔恨が渦巻いていた。
金欲しさに日本とソ連との二重スパイを続けてきたその天罰が、今、まさに下されようとしている。
自分は、祖国の敗北に手を貸してしまっていたのだ。
上官の遠ざかる足音を聞きながら、松坂は窓に映る自分の顔を見つめた。
俺の裏切りで国が滅ぶ……
本部からの帰り道、松坂は急に降り出した雨に打たれた。
冷たい滴が、黄砂にまみれた地面に叩きつけられている。
松坂は自分の人生を振り返る。
幼い頃からとりわけ語学の才に恵まれていた。
母は言ったものだ。
「天から授かった才能を大切にしなさい」
だが、貧しい家に生まれた松坂にとって、大学進学など夢のまた夢。
そんな彼が選んだのは、帝国陸軍の将校としての道だった。
自分の語学の才能を活かすことができる。そう信じた。
しかし、松坂の胸には常に一つの思いがあった。
金さえあれば──
金さえあれば、自由に生きることができる。
軍に所属しなくても、好きな学問に打ち込める。
そんな渇望が彼を突き動かし、手段を選ばなくなっていった。
敵国たるソビエト連邦の諜報員と接触する機会を得た松坂は、二重スパイとなる道を選んだのだった。
関東軍の軍事機密をソ連に売り渡し、その対価として莫大な金を手に入れる。
それは祖国の破滅を招く、いわば裏切り行為そのものであった。
ソ連軍の満州侵攻が迫っている。
「これが、俺の望んだ自由だったのか……」
相変わらず、雨は降り続いている。
松坂の心もまた、雨の中にあった。
「雪蘭、大事な話がある。俺の仕事についてだ。俺は補給部に所属していることになっているが……」
「……正体は満州国の内情を探る諜報員、そう、おっしゃいたいのでしょ?」
松坂は驚いた。
「……知っていたのか」
「そして私は単なる皇帝重臣の娘ではありません」
「……満州国を関東軍から独立させるための諜報員、そう言いたいのだろ?」
雪蘭は笑みをこぼす。
「やっぱり、あなたもご存知でしたか」
「だって俺は……」
「だって私は……」
諜報員だから、とは言わなかった。
「おまえの夫だから」
「あなたの妻だから」
二人は笑い合った。
なんのことはない、互いの正体はとっくに相手の知るところとなっていたのだった。
こうして、歪んでいた二人の関係は、少しずつ夫婦らしい関係へと変わりつつあった。
しかし、松坂も雪蘭も、互いにまだ明かしていない秘密を抱えたままであった。
* * *
朝靄が立ち込める中、松坂は普段より早く起床した。
国境に近い町へと足を向ける。
この任務は、関東軍にも満州国にも知られてはならない。
約束の場所で、松坂は待ち人と対面した。
松坂はその男に、関東軍の軍備状況について詳細に報告した。
「精強百万関東軍と呼ばれたのは、もはや昔話です。在留日本人を根こそぎ動員して、ようやく数だけ七十八万人を保ってはいますが、装備も貧弱、士気も低い。将校への賄賂が横行し、私腹を肥やす者ばかりです。精強なる兵員はすべて南方へと送られました。今の関東軍に、戦う力はありません」
松坂は満州に駐屯する関東軍の詳細な部隊配置図を、目の前の男に手渡す。そこには、各部隊が所有する大砲、弾薬、糧食といった、補給部隊でこそ把握できる機密情報も記されていた。
坊主頭の男はそれらの機密情報を受け取ると、薄ら笑いを浮かべた。
その態度に松坂は苛立ちを覚えたが、仕事の一部だと割り切るしかなかった。
帰り道、かつて立ち寄った洋品店に足を運んだ。
店内は静かであり、前に訪れたときと変わらぬ佇まいを見せていた。
「あの……すみません、この外套、先月、この女性が買っていきませんでしたか?」
松坂は懐から雪蘭の写真を取り出し、店員に見せた。
どうしても確かめたい。そう思ったのだ。
「はい。確かにこの女性が外套をお求めになりましたけど……なにか?」
「いえ。なんでもありません」
松坂は店を後にした。
雪蘭もこの国境の町を訪れていたのだ。その意味するところとは──
* * *
それから数日後、雪蘭もまた未明に家を出た。
国境に近い町へと足を向ける。
この任務は、満州国にも関東軍にも知られてはならない。
約束の場所で、雪蘭は待ち人と対面した。
その男に、満州国の皇宮である緝熙楼の警備体制と間取り図について報告した。
「眠れる獅子と呼ばれた清は、ついに目を覚ますことのない獅子となりました。清の復興は絶望的です。皇后は重度の阿片中毒患者となりました。もはや、正気を維持できておりません。おそらくは、お命も長くはないかと。皇帝が住まう緝熙楼の防空壕は、築山の下にあります。堅牢であり、おそらくは空襲での破壊は不可能かと」
雪蘭は、緝熙楼の詳細な間取り図を相手に渡した。
緊急時に皇帝が脱出するための地下トンネルの出入口も記されている。
長い髪をかき上げながら不気味な笑みを浮かべるその男に雪蘭は嫌悪感を抱いたが、これも仕事の一部だと自分に言い聞かせた。
帰り道、かつて立ち寄った洋品店に足を運んだ。
店内の空気は、時間の経過を感じさせなかった。
「あの……すみません、この髪飾り、先月、この男性が買っていきませんでしたか?」
雪蘭は松坂の写真を店員に見せる。その手は微かに震えていた。
「はい。確かにこの男性が髪飾りをお求めになりましたけど……なにか?」
「いえ。なんでもありません」
雪蘭は店を後にした。
松坂もこの辺境の町を訪れていたのだ。その意味するところとは――
* * *
窓から差し込む夕日が、屋敷の中を照らしていた。
その光と影が、時間の流れを告げるように、静かに移動していく。
雪蘭は額の汗を拭い、満州での主食であるコウリャンを炊いた土鍋を食卓へと運んだ。
「いただきます」
松坂は手を合わせ、そして食べ始める。
コウリャン、それは日本人には馴染みの薄い、赤褐色の穀物。
コウリャンは、寒冷地である満州の命綱でもあった。
乾燥に強く、痩せた土地でも育つ、生きるための糧。
松坂は黙々と食べている。
赤褐色のコウリャンの蒸し飯は、土の匂いがする。
米よりも粒が大きく、噛むとざらついた食感がある。
関東軍として満州に派遣された当初は戸惑った味ではあったが、幾年も経つうちにコウリャンは松坂の日常となった。
雪蘭は聞いた。
「あなた、内地のご飯、覚えてる?」
「米の飯か。軍では今でもよく食べている。陸軍では伝統的に白い米を食べるんだ。米を食べたくて入隊するやつもいるくらいだからな」
「……やっぱり、内地のご飯の方が、美味しゅうございましょう?」
松坂は、しまったと思った。
雪蘭が作る満州のコウリャンを否定するつもりはなかった。
「白い飯はおいしいさ。でも、今はここが俺の居場所だ。雪蘭が炊くコウリャンは最高に美味い」
その言葉に、雪蘭は思わず笑みをこぼす。
「まぁ、お世辞なんてよろしいのよ」
「お世辞じゃないさ。雪蘭、いつもありがとう」
その言葉に、雪のように白い雪蘭の頬は、紅く染まった。
窓の外では夕暮れの風がコウリャン畑を揺らし、無数の穂が波のように揺れていた。
松坂は食事を進める。
コウリャンの味が口の中に広がっていく。
同時に、雪蘭と共に異国の土地で生きているという実感も、松坂の心の中に広がっていくのであった。
松坂は静かに食事を終えると、覚悟を決めて雪蘭に向き合った。
「雪蘭、話がある」
「はい」
彼女の表情には、既に悟りのようなものが見えた。
これから松坂が語るであろうことを、彼女は知っているかのようだった。
「俺達が結婚したのは……いわば政略結婚だった。それはお前も承知していたことと思う」
雪蘭は黙って聞いている。彼女の静けさは、時に雄弁よりも多くを語った。
「俺もお前も……上からの命令があった……」
「はい。その通りでございます」
雪蘭は凛とした姿勢を崩さなかった。彼女の中の何かが、今、解き放たれようとしている。
「……俺は、こんなことを言っては帝国軍人として情けない話ではあるが……心が痛い」
「その思い、私も同じく抱いておりました」
二人は互いを騙しあう結婚生活を続けてきたとはいえ、その偽りの根底にいつしか真実の感情が芽生えていたこともまた、事実であった。
「白い結婚……」
松坂はそうつぶやいた。
窓から差し込む夕日が、部屋を赤く染めている。
「Mariage blanc、そう言いたいのですね」
才知溢れる雪蘭は、その言葉の意味を正確に理解していた。
「確かに、白い結婚だったかもしれません。しかし、私達の暮らしは、結婚生活の色を変えたように思います。この満州の大地に広がるコウリャン畑。今は青々としていますが、秋になると赤くその色を変えます。私達の生活も、コウリャンのように成長し、秋には赤いものになると思っております」
「俺もそう思う。コウリャンが秋に情熱的な赤い色を見せるように、我々の関係もこれからもっと深いものになっていくと思っている」
「はい」
「だが、我々は『秋』を迎えることができるのか」
「…………」
「やはりそうか。雪蘭も分かっているんだな」
「…………はい」
「コウリャンの畑が赤く染まる頃、我々はおそらく、この地に居ることはできまい」
「……私も、そうなると予感しております」
静寂が二人の間に広がっていく。その沈黙は、かえって雄弁であるようにも二人には感じられた。
この秘密を共有することの意味を、二人は深く理解していたからである。
この地に留まれなくなる──そんな覚悟が、二人の心を一つにした。
「あの坊主頭に我々がもたらしている情報、それが結果として表れる時がもうじきやってくる」
「……坊主頭?」
以心伝心のつもりであったが、ここにきて急に齟齬が生まれる。
「あの人のことでございましょう? 男性には似つかわしくない長い髪、眼鏡をかけていて……」
「いや、あいつは坊主頭だ。眼鏡もかけていない」
「……明日、会うことになっています……一緒に来ていただけませんか? そこで確かめましょう」
「雪蘭、それはもう、そいつとの関係を切る、ということで間違いないな」
「……はい。やはり、私は祖国を裏切ることはできません」
「俺も同じだ」
* * *
翌朝、雪蘭はその任務を《《終わらせる》》ために家を出た。
松坂は時間をずらして家を出る。二人で行動しているところを、関東軍にも満州国官僚にも見られるわけにはいかない。
青々と茂るコウリャンの畑を横目に見ながら、二人はそれぞれ別の道を辿って国境近くの町を目指していく。
道すがら、夏の風がコウリャンの穂を揺らしていた。
雪蘭は約束の場所に到着。
そこには、長い髪の男が不気味な笑みを浮かべて待っていた。
今回の待ち合わせ場所は、いつもとは違って宿屋であった。
「いつもは俺が情報をもらってばかりだが、今回は俺様からお前に、ここだけの話を教えてやる」
「そうですか。で、それは何でしょう」
「我がソビエト連邦軍は、八月に日本に宣戦布告し、この満州を制圧する」
「何を言っているのですか? 私を誰だと思っておいでで。私は満州国諜報員、日ソ中立条約を知らないとでも?」
男は、雪蘭の言葉を笑い飛ばした。
「随分と呑気な諜報員だな。こんな娘が諜報員をやっているとは、満州国の行く末も目に見えている」
「大国たるソビエト連邦が、日本との約束を破るというのですか?」
「お嬢さん、国際情勢を甘く見てはいけないよ。ヤルタ密談の詳細は、満州国ごときの諜報員には預かり知らぬこと、ということか」
「日ソ中立条約は、来年4月までは有効のはずです」
「お嬢さん、人を信じちゃいけない。それが国ならなおさらだ。ソ連は日露戦争で味わった雪辱を果たす。何もおかしいことではない。ポーツマス条約で日本に取られたサハリンの南半分、あと、千島樺太交換条約でくれやった千島列島、それらはすべて、ソビエト連邦がいただくことになっている。これは連合国からのお墨付きだ。おっと、お前の国、満州国はその連合国から国として承認すらされていなかったな」
「つまり、あなたの国ソビエト連邦は、日本との約束を破ってでも領土を手に入れる。そういう国というわけですね」
「お嬢さん、いい言葉を教えてあげよう。勝てば官軍。戦争というものは勝った方が正義だ。よく覚えておけ」
「なんと卑劣な」
「ほう。二重スパイをしているお前がそれを言うのか。金に目がくらんで、満州国の機密を売っていた裏切り者のお前が」
雪蘭は黙ってしまう。男の言葉は残酷なまでに真実だったからだ。
雪蘭の人生は、ある意味、雪蘭のものではなかった。
生まれたときから何をするにも親の指示があった。どの学校に行くか、どんな友人を持つか、何を食べ、何を着るか。そのすべてを親が決めた。
意見など求められることはなく、従うことが当たり前。彼女はそれを疑問に思うことなく生きてきた。
むしろ、考えることを放棄することで心の平穏を保っていたのかもしれない。
だが、雪蘭は成長するにつれ、心の奥底に燻る疑問がだんだんと膨らんでいった。
「自分らしく生きているのであろうか」
雪蘭はかつて、親に逆らったこともあった。しかし、彼女の意志はその都度、押し潰された。
自由に生きるには力が必要。そう悟った彼女は、自分らしく生きるために大金を手に入れる決意をした。
金さえあれば、親の支配から逃れられる。
金さえあれば、自由を手に入れられる。
だが、まともな方法で手に入れるとなると、あまりにも時間がかかり過ぎる。
雪蘭は決断した。国家の機密を敵国に売る「二重スパイ」として生きることを。
満州の利権を狙っているのは、日本だけではなかった。
中国大陸の植民地支配を狙う大国の一つ、ソビエト連邦。
雪蘭はソ連に満州国の情報を売って金を稼ぐことにした。
最初は罪悪感があった。だが、取引を重ねる度に、それは薄れていった。
情報を流せば金が入る。
金が入れば彼女は自由に近づく。
こうして、雪蘭は祖国を愛しながらも祖国を売るという、二律背反な生き方を選んでいたのだった。
だが、そんな生き方に雪蘭は決別することにしたのだった。
ソ連の諜報員であるその大男は、ニヤニヤと笑いながら雪蘭にこう言った。
「お前が付けている、その髪飾り。随分と豪華だな。俺が渡した金で買ったんだろ?」
「違います! これは、夫から頂いたものです!」
「あぁ、あの松坂とかいう男か。あんなクズ野郎と結婚させられて、お前も重ねて不幸だな」
「松坂を侮辱するのは許しません!」
「ほう。白い結婚だと思っていたが、なんだかんだで情は湧くものなのか。だが、あんなクズ男のどこがいい? お前はあいつの正体を知っているのか」
「それがどうしたと言うのですか」
「そうか、知っているのか。なら、話は早い。二重スパイ同士で結婚していたとは、なんとも珍妙な話だ。我々の仲間で話のタネに使わせてもらうよ」
「話のタネ? あなた、生きてここを出られるとでも?」
雪蘭は懐から拳銃を取り出そうとするも、男に蹴飛ばされてしまう。
「お嬢さん、甘いんだよ。俺を誰だと思っている?」
拳銃を落とされた雪蘭は、動揺を隠しながらも強気をなんとか維持していた。
「誰だと思っているか、ですって? アンタはクソ諜報員、クズネツォフ、私の夫の前ではスミルノフと名乗っているんでしょ。あんたの本当の名前なんてどうでもいいわ」
「おやおや、威勢がいいのは褒めてやるが、お前の拳銃はほら、あそこだ」
クズネツォフは、部屋の隅を顎で指し示す。拳銃を拾いに行こうとする雪蘭をベッドに組み伏せて、男は言った。
「お嬢さん、俺がソ連の機密をお前に話している理由、まだ分からないのか」
「穢らわしいその手を離しなさい!」
「満州には我々ソ連軍の戦車部隊が侵攻する。関東軍にはソ連軍と戦う力などない。お前の旦那は関東軍の将校様だったな。お前の旦那は、お前を守ることは出来ない」
「松坂の悪口は許しません!」
「雪蘭、お前ほどの器量よしが、なぜあんなクソ日本人と関わっている? 何も守れないあんな男のどこがいい?」
「何度言ったら分かるのですか。松坂の悪口は許しません! 私は松坂を愛しています!」
「なぁ、雪蘭。俺はお前のことが好きなんだ。だからこそ、こんな情報を提供してやっているんだ。お前の祖国、満州はソ連によって終焉を迎える。お前は捕虜になる運命。だったら今、俺の女にならないか。俺の女になれば、捕虜になることもない。どうだ? 悪くない話だろ?」
「お断りします!」
雪蘭は男の下で抵抗を続ける。
「無礼者! こんな狼藉を働いて、私の夫が黙っているとでも?」
「松坂に何が出来る」
その瞬間、部屋の戸が開いた。
「こんなことが出来るんだよ」
そこには、拳銃を構えた松坂の姿があった。
松坂に飛びかかろうとするクズネツォフの顔面に銃口を向け、松坂は容赦なく引き金を引く。
弾丸はクズネツォフの頭を貫いた。
「おやおや、雪蘭の前ではおめかしをしていたというわけか」
松坂は、倒れたクズネツォフから、かつらと眼鏡を剥ぎ取った。
「别碰我的妻(俺の妻に触るな)、おっと、ロシア語の方がよかったかな。Не трогай мою жену!」
松坂の言葉を聞き終わる前に、クズネツォフは息絶えていた。
「あなた、遅いわよ!」
「すまない」
雪蘭は松坂に抱きついた。彼らの間に流れる感情は、もはや偽りではなかった。
「俺はお前を一生守り抜く」
「嬉しい! ありがとう!」
しかし、愛を語り合う余裕などなかった。宿屋の主が銃声を聞きつけて駆けつけてきた。松坂はクズネツォフの懐から金を奪うと、それをすべて宿屋の主に渡した。
「見なかったことにしてくれ」
大きな樽を調達してもらい、それを荷車に載せてクズネツォフの死体を移動させた。
しかし、いずれはこの事実もソ連軍に伝わることだろう。
二人は満州を脱出する計画を立て始めた。
窓の外には、何事もなかったかのように青々としたコウリャンの海が広がっていた。
まもなく、それらは赤く染まるだろう。
* * *
夕暮れの光が差し込んでいる雪蘭の父の書斎。
その部屋に、雪蘭の声が響き渡る。
「ソ連軍が、もうじき満州に侵攻してきます。どうか、ご対策を」
父は窓の向こうの夕焼けを眺めながら、ため息をついた。
「国の防衛は関東軍に任せておる。こういう時のための関東軍だ」
そう言いながらも、父の声には諦めが混じっていた。
長年にわたる日本による支配への恨みと服従の屈辱を、父は言葉の端々に滲ませていた。
「関東軍の力では、ソ連軍とは太刀打ちできません」
「……そんなことは分かっておる。だが、今の我々に、いったい何が出来ると言うんだ」
父は老いた顔を両手で覆い、言葉を続けた。
「皇帝陛下には伝えておく。雪蘭、お前は疎開の用意をしろ」
一度は滅びた清朝が、再び歴史の闇へと消えていく。
雪蘭は父を見つめる。
歴史の重みに潰されそうになる父の背中は小さく見えた。
「お父様、しっかりなさってください」
「雪蘭、生きろ」
その言葉は父の本心であった。
「国が滅びれば、お前はもはや諜報員でも何でもない。ただの、一女性となる。それでも生きていくんだ」
父は窓辺に立ち、夕闇が街を飲み込んでいくのを見つめながら言った。
「松坂、あいつはいい男だ。よき伴侶として、力を合わせて共に生きていけ」
「……はい。お父様」
窓の外の夕焼けは、にわかに沸き起こった黒い雲に飲み込まれていった。
同じ夕暮れの中、松坂の姿は諜報部の司令室にあった。
「ソ連軍がもうじき満州に侵攻してきます。どうか、ご対策を」
松坂の声には切迫感があった。しかし、そこには別の感情も混ざっていた。罪悪感だ。
「あぁ、そういう情報はちらほらと入ってきている」
窓の外から差し込む光の中に無数の塵が舞っている。
上官の声に切迫感はなかった。
「ソ連はドイツとの戦いを終え、戦力を極東に移動させております」
「分かっておる」
「では、内地からの援軍を要請してください!」
「……今の日本に、そんな余力があると思うのか」
松坂は黙り込む。
その沈黙こそが、すべてを物語っていた。
大日本帝国に戦う力などほとんど残っていないことは、誰の目にも明らかだった。
室内に入り込んだ夕闇の中で、松坂の心には暗い悔恨が渦巻いていた。
金欲しさに日本とソ連との二重スパイを続けてきたその天罰が、今、まさに下されようとしている。
自分は、祖国の敗北に手を貸してしまっていたのだ。
上官の遠ざかる足音を聞きながら、松坂は窓に映る自分の顔を見つめた。
俺の裏切りで国が滅ぶ……
本部からの帰り道、松坂は急に降り出した雨に打たれた。
冷たい滴が、黄砂にまみれた地面に叩きつけられている。
松坂は自分の人生を振り返る。
幼い頃からとりわけ語学の才に恵まれていた。
母は言ったものだ。
「天から授かった才能を大切にしなさい」
だが、貧しい家に生まれた松坂にとって、大学進学など夢のまた夢。
そんな彼が選んだのは、帝国陸軍の将校としての道だった。
自分の語学の才能を活かすことができる。そう信じた。
しかし、松坂の胸には常に一つの思いがあった。
金さえあれば──
金さえあれば、自由に生きることができる。
軍に所属しなくても、好きな学問に打ち込める。
そんな渇望が彼を突き動かし、手段を選ばなくなっていった。
敵国たるソビエト連邦の諜報員と接触する機会を得た松坂は、二重スパイとなる道を選んだのだった。
関東軍の軍事機密をソ連に売り渡し、その対価として莫大な金を手に入れる。
それは祖国の破滅を招く、いわば裏切り行為そのものであった。
ソ連軍の満州侵攻が迫っている。
「これが、俺の望んだ自由だったのか……」
相変わらず、雨は降り続いている。
松坂の心もまた、雨の中にあった。



