赤いコウリャンと白い結婚

 一九四五年一月。中国東北部に位置する満州国の首都、新京。
 今日の結婚式の主役である新郎、松坂(まつさか)少尉は、緊張の面持ちで祝言の席に臨んでいた。
 彼の横に座るもう一人の主役たる新婦、()雪蘭(せつらん)の肌は、その名の通り、雪のように白く透き通っていた。
 二人が互いの顔を初めて見たのは、式の前日、昨日のことだった。

「はじめまして」

「よろしくお願いします」

 雪蘭(せつらん)の声には微かな震えが混じっていた。
 二人の間に横たわるのは言葉だけではなく、国家という名の巨大な意志である。
 関東軍は満州国官僚との接点が欲しかった。
 満州国は関東軍将校との接点が欲しかった。
 二人は関東軍と満州国との親密な関係を作るための、いわば「政略結婚」であった。
 結婚は任務の延長線上にあるといっても過言ではなく、いわゆる「白い結婚」であった。
 マリアージュブラン──愛のない形式的な結婚──白い結婚
 上からの命令で結ばれた二人は、お互いに対し、これからの人生を共に歩む相手という実感をもてずにいた。

 披露宴は、もはや政治的な会合と化していた。
 式場には満州国の官僚たちと関東軍の将校が集っている。
 祝福の言葉は政治的な駆け引きの中に溶け込み、杯を交わす音は不穏な時代の足音そのものを表していた。
 主役であるはずの二人の存在は、その場の装飾品に過ぎなかった。

* * *

 松坂と雪蘭、二人の生活が始まった。
 夫婦として言葉を交わそうとするも、何を話せばよいのか分からない。

「……あなた、お仕事は補給部なのですよね。だから、前線には出ないのですよね」

 雪蘭の声が、その沈黙を破った。

「ああ、そうだ。だから、死んで迷惑をかけるようなことはない。安心してくれ」

 松坂はそう答えたが、彼の言葉には言い表せない空虚さがあった。
 彼は、表向き補給部に所属する将校だが、その正体は特務機関の一員であった。このことは、関東軍内部でさえ秘匿されていた。

 彼の任務は満州国官僚たちの動向を探ること。そのために、満州国皇帝溥儀(ふぎ)に仕える重臣の娘、李雪蘭と結婚させられたのだ。
 雪蘭の顔を見るたびに松坂は葛藤を感じていた。
 彼女は雪のように白く、蘭のように可憐だった。
 そんな彼女を政治的道具として利用することに、松坂は心の奥底で抵抗を感じていた。
 しかし、彼は軍人である。命令には従うのみ。これは仕事だと割り切るしかなかった。

* * *

 雪蘭は、自らの人生を親の意志に委ねる人生を歩んできていた。
 幼い頃から、彼女の存在意義は民族と祖国のためにあった。
 それは、今回の結婚でも例外ではなかった。
 彼女の任務は、夫となる関東軍将校から情報を引き出すこと。
 満州国は表向き日本の庇護下にありながら、密かに自立への道を模索していたのだ。
 雪蘭は美貌に加え、冴えた頭脳を持ち合わせている。
 幼い頃から日本語を学び、流暢に使いこなしていた彼女は、まさに理想的な諜報員であった。

「関東軍の将校様と結婚でき、とても名誉なことだと思います」

「うむ。だが、俺は補給部だ。これが花形の参謀であれば、お前にとっても、もっと名誉であったことだろう」

「いえいえ、そんなことはございません。松坂様と結婚できて、私は幸せです」

 雪蘭が語る「幸せ」の真意を、松坂は察することができなかった。
 二人は形だけの会話を交わし続けた。
 互いに隠し事を抱えた二人の関係は、歪な鏡に映し出される像のようであった。
 単に親睦のための政略結婚というだけでなく、それぞれが別の極秘任務を課せられていることによって、その歪さはさらに増していた。
 口にできない秘密が重なれば重なるほど、その精神的重圧は増していく。

 松坂と雪蘭の表情には、いつの間にかそれぞれ物憂げな影が宿るようになっていった。

* * *

 それでも、日々の暮らしの中で、二人はお互いへの理解を深めていくことができた。
 松坂は雪蘭の聡明さに気づいていた。
 自分の考えをしっかりと持ち、松坂が仕事の愚痴をこぼすときも、真剣に耳を傾けてくれた。
 軍隊生活のストレスも、彼女に話すことで少し軽くなるように感じていた。

 雪蘭は、軍人には恐ろしい人が多いと思っていたが、制服を脱いだ松坂はまったく軍人らしく見えなかった。
 痩せていて背が高く、こんなにも優しい人が銃で人を殺すなど、雪蘭には想像できなかった。
 松坂は身の上話や、宮廷での生活について関心をもって聞いてくれた。
 彼女の人生で、これほどまでに自分の話に耳を傾けてくれる人は、いなかった。

 コウリャンの畑が、初夏の陽光を浴びて青々と茂っている。
 松坂は国境近くの町へと足を運んだ。今日の行動は、関東軍にも満州国官僚にも知られてはならないものである。
 松坂は考えた。
 このコウリャンも秋には赤く色づく。だが、自分の「白い結婚」は、このコウリャンのように、秋には赤く情熱的なものになっているのであろうか。

* * *

 大金を手にした松坂は、帰り道に高級洋品店で雪蘭への贈り物を買った。美しい髪飾りは、彼女の黒髪に映えることだろう。

「奥様に贈られるのですか。なんて素敵な旦那様でしょう」

 店員の言葉に、松坂は照れ隠しに咳払いをした。
 帰宅し、雪蘭に贈り物を手渡す。

「まぁ、これを私に? こんなに立派な髪飾りを……」

 雪蘭の白い頬が、薄紅色に染まる。
 松坂はこれまで歪んでいた二人の関係が、本来あるべき姿に近づいているように感じた。

* * *

 それから数日後、雪蘭もまた国境近くの町へと向かっていた。彼女の行動もまた、誰にも知られてはならないものである。
 道すがら見る畑のコウリャンは、生命力に満ちて伸びやかに育っていた。
 秋には赤く色づくであろうコウリャン。
 自分の白い結婚も、このコウリャンのように、秋には情熱的な赤へと変わるのであろうか。

* * *

 大金を手にした雪蘭は、帰り道に高級洋品店で松坂への贈り物を買った。厚手の外套(がいとう)は、日本から来た彼を満州の厳しい寒さから守ってくれるだろう。

「旦那様に贈られるのですか。なんて素敵な奥様でしょう」

 店員の言葉に、雪蘭は照れ隠しに目を伏せた。
 帰宅して、松坂に贈り物を手渡す。

「これを俺に? こんなに立派な外套を……」

 いつもは無表情な松坂の顔に、柔らかな笑みが浮かぶ。
 雪蘭は、これまでの二人の関係が、少しずつ変わっていくのを感じていた。
 同時に、雪蘭は松坂に対して、とある疑念を抱いた。自分が訪れた洋品店に、以前に松坂からもらった髪飾りと同じものが売られているのを見たからだ。
 松坂もその国境の町へ行ったのだろうか。なぜ彼がそんな辺鄙な場所へ? いや、髪飾りなど、どの町でも売っているものだ。考えすぎだ。
 雪蘭はそう自分に言い聞かせた。

 同じことを松坂も考えていた。雪蘭に贈った髪飾りを買った洋品店で、彼女が彼に贈った外套と同じものが売られていたのを覚えていたからだ。だが、洋物の外套など、どの町でも売っているであろう。

 しかし、疑問は残った。なぜ雪蘭はこんな高価な外套を買えたのだろう。そのお金の出所はどこなのか。まさか……いや、そんなはずはない。

 この疑念は、松坂の心の中で小さな火種として残ったのであった。

* * *

 定期報告の日。
 松坂は諜報部員に接触し、雪蘭から得た情報を提供した。しかし、今回の報告は実りの少ないものであった。

「松坂、どうした? この程度の情報では上も納得しないぞ。お前らしくもない」

「申し訳ございません」

「お前、まさか、日本を裏切るつもりじゃないだろうな? 満州の娘と結婚して、心変わりしたわけではあるまいな」

 上官の目には、容赦のない鋭さがあった。

「松坂、天皇陛下のために死ねると誓えるか?」

「もちろんです。天皇陛下万歳!」

「…………お前、溥儀(ふぎ)の隠し財産について知っているか?」

 松坂の瞳が細くなる。

「なんのことでございますか」

「とぼけるな。知っておるだろう。溥儀は清朝から受け継いだ財宝を隠し持っている。それは、関東軍の力では所在をまだ明らかにできていない。どうだ、溥儀の隠し財産を見つけてくれば、お前も俺も、諜報部で出世間違いなしだ。悪い話ではなかろう」

「はい。考えておきます」

「もし見つけたら、一部は俺に横流ししろ」

 腐っている──
 松坂は心の中で毒づいた。
 天皇陛下のため、そんな建前の下、諜報部がやっていることは満州の財産を奪い、私腹を肥やすことだけだった。
 そもそも、この満州国の建国意義ですら、疑わしいものだった。
 天皇陛下万歳──それを唱えるのであれば、関東軍は天皇陛下の命令で動くべきではないのか。しかし、関東軍は独断で暴走し、このような国家まで作り上げてしまった。我々のやっていることは、本当に祖国日本のためなのだろうか。もっとも、そんな疑問は決して口にしてはならないことではあったが。

* * *

 雪蘭は、自分が手に入れた情報を満州国の重臣である父に報告するも、父は不満をこぼした。

「雪蘭、どうした? この程度の情報では皇帝陛下も納得しないぞ。お前らしくもない」

「そうですか。それは申し訳なく思います」

 父の目には、容赦ない厳しさがあった。

「お前、まさか、祖国を裏切るつもりではないだろうな? 日本人の軍人と結婚して、心変わりしたわけではあるまいな」

「何をおっしゃいますか」

「では、満州民族のために死ねると誓えるか?」

「はい。もちろん誓えます」

「……ところで雪蘭、関東軍の隠し財産について知っているか?」

「なんのことでしょうか」

「とぼけるな。知っておるだろう。関東軍は満州国建国の際に、清朝の多くの財産を掠め取った。皇帝陛下はそのことを深く嘆いておられる。奪われた財産を取り返せば、皇帝陛下も大いに喜ばれるはず。どうだ、悪い話ではなかろう」

「はい。考えておきます」

「何も全部、陛下に報告することはない。一部はこちらに横流ししろ」

 腐っている──
 雪蘭は心の中で毒づいた。
 満州国皇帝陛下のため、そんな建前の下、官僚たちがやっていることは満州の財産を奪い、私腹を肥やすことばかり。それは、自分の親とて同じであったのだ。
 さらには皇帝である溥儀自身も、清朝の財産を個人的に占有し続けており、満州民族のためを思っているとは言い難い存在であった。皇帝たる者がなんと俗物なのかと、雪蘭は密かに軽蔑していた。

 そもそも、この満州国という国家の建国意義そのものが、どこか胡乱なものであった。
 かつて「眠れる獅子」と称された清は、日本との戦争に敗れて以降、西洋列強の圧力にさらされ、次々と植民地になっていった。
 民衆の不満は鬱積し、辛亥革命が勃発。清国の宣統帝溥儀は退位を余儀なくされ、紫禁城に閉じ込められた。
 北京政変の混乱の中、溥儀は紫禁城からも追い出され、頼るべき国を求めたものの、イギリスもオランダも、没落した元皇帝の哀願に耳を貸すことはなかった。
 そんな彼に手を差し伸べたのは、日本からきた関東軍であった。もっとも、それは純粋な同情ではなかった。元皇帝である溥儀を擁立すれば、新たな国家を築く大義名分になると踏んだからだ。
 関東軍からの説得を受けた溥儀は、最後の望みにすがるように日本への協力を決意。満州事変が勃発し、関東軍は満州を掌握。溥儀を担ぎ上げて、満州国を建国した。
 溥儀は満州国皇帝として即位した。しかし、それは本当に「満州民族のため」などという大義によるものであったのだろうか。むしろ、溥儀自身の個人的な皇位復辟への執念こそが、背後にあったのかもしれない。

* * *

 諜報という名の泥沼に足を踏み入れて久しい松坂は、雪蘭の横顔を盗み見ながら、心の内側に静かに亀裂が広がっていくのを感じていた。
 夕暮れの光が彼女の輪郭を柔らかく縁取り、その姿はまるで遠い故郷の幻のように見えた。こんなにも、雪蘭を愛おしく思うようになるとは……

 溥儀の隠し財宝についても、彼は聞き出すことができなかった。
 それは任務の失敗というよりも、一つの選択のようにも思えた。
 ある日、松坂は上官から呼び出された。

「松坂少尉」

 上官の眼には軽蔑の色が滲んでいた。

「お前は見込みあるやつだと信じて、この任務を託したのだ。お前の両親が、内地で貧しい暮らしをしていることは分かっておる。それゆえ、この任務に応じたのだろう。もっとも、動機は金でもよいのだ。きちんと働いてさえくれればな。ところがどうだ。最近のお前は、まったく役に立っておらん」

「申し訳ございません」

 その言葉は、湿った空気の中で沈み込んでいった。

「謝罪するくらいなら、満州国の機密をもっと探ってこい。何なら、溥儀の隠し財産について探るのでもよいぞ」

「……はい」

 この上官も、狙いは隠し財産であったか……
 松坂は窓の外を見た。そこには何もなかった。ただ灰色の空が広がっているだけであった。

「分かっておろうが、結果を出せなければ、お前の身分は補給部のままだ。諜報部にお前の居場所はないと思え」

 大日本帝国陸軍において、物資輸送に携わる兵員を蔑視する風潮があることを、松坂もよく分かっていた。
輜重輸卒(しちょうゆそつ)が兵隊ならば、蝶々(ちょうちょ)蜻蛉(とんぼ)も鳥のうち」
 輸送兵を兵隊と呼ぶのは、チョウやトンボを鳥と呼ぶのと同じようなものだ、という揶揄である。
 語学の才能一つで関東軍諜報部へと引き上げられた松坂は、身分偽装のため補給部へ転属させられていた。諜報部に戻れないとなると、収入も大きく減ってしまう。内地にいる両親の暮らしを支えるための仕送りも、諜報部から特別に出されている給与があってこそのものだった。
 しかし、雪蘭を騙し続けることは、もはや限界に達していた。彼女への感情は、任務という名の歪んだ形から、純粋な愛へと変容しつつあったのだ。それは彼自身にとっても、驚くべき変化であった。

* * *

 雪蘭もまた、諜報という名の迷宮に迷い込んでいた。
 彼女は松坂から関東軍の情報を聞き出すことに、深い罪悪感を抱いていた。
 関東軍の秘密資産についても、彼女は敢えて探りを入れなかった。
 それは単なる怠慢ではなく、無言の抵抗であった。

 父親の部屋は、いつもと変わらぬ静謐さを湛えていた。
 窓から差し込む冷たい光が、部屋の片隅に影を落とす。

「雪蘭」

 父の声は、氷のように冷たかった。

「お前のその才覚を信じて、この任務を託しているのだ。お前の教育のために、どれだけの資金と労力をかけたか、分かっておろう。すべては満州民族再興のためにお前を育て上げたのだ。ところがどうだ。最近のお前は、まったく役に立っておらん」

 雪蘭は静かに頭を下げた。しかし、心の奥底では激しい嵐が吹き荒れていた。

「申し訳ございません」

 その言葉には何の重みもなかった。空虚な形式、演じられた従順。

「謝罪するくらいなら関東軍の機密を探ってこい。何なら、軍の隠し財産について探るのでもよいぞ」

「……はい」

 雪蘭は窓の外に広がるコウリャン畑へと目を逸らす。

「分かっておろうが、結果を出せなければお前は勘当だ。満州にお前の居場所はないと思え」

 その言葉は、彼女の胸に冷たく突き刺さった。
 生まれてこの方、彼女は諜報員として育てられてきた。
 父親からの愛情も、熱心な教育も、所詮は父の野望を満たすためだけのものだった。
 結果を出せなければ親子の縁を切られる──そんな歪んだ愛に、彼女はもう耐えることができなかった。
 しかし、血縁を何よりも重んじる満州の文化において、親から勘当されることは社会的な死を意味した。
 では、諜報活動を続けるべきなのか。
 夫を騙し続けることは、もはや彼女の心の許容量を超えていた。
 彼女の松坂への感情は、任務という名の仮面を外し、純粋な愛を表しつつあった。