屋外で弾けた殺気に、偲は機敏に反応した。気配に気づかなかった常人の祖母を残し、羽織に袖を通すのももどかしく得物を手に外へと飛び出す。
勝手口の先で目にしたものは、声を潰し腰を抜かしたほたるに襲い掛かろうとする一羽の巨大な怪鳥。
文明開化だ御一新だと言っても、異境はなお闇を挟んで隣にある。皆、目を背けているだけで、仙境と人界が分かたれた今も、昼夜の交わる時間や夜闇の向こうからは、異形のものが滲み出してくるのだ。
「……っ!」
知らず、偲は息を詰まらせる。犬塚屋敷、即ち獅子の縄張りに、今まで物の怪が忍び込んできたことはなかった。……つまり、この怪鳥は獅子を侮れる程度には強い。
「ッ、待て!」
だが躊躇する余裕はなかった。鞘を捨てた偲は、ほたるに向かって鉤爪を広げた怪鳥の脚目がけて刀を叩き込む。が、押し負けたのは偲のほうだった。硬い音を立てて刃毀れした刀に短く舌打ちする。
餌に群がる蝿を追い払うかのように、怪鳥が羽を一閃させた。直撃を紙一重で躱した偲に、ほたるが悲鳴を上げる。
「旦那様、危険です!」
「危険なのは君のほうだろう!」
自身よりも夫の身を案じる妻に、偲は思わず怒鳴り返した。
塒でゆっくり啄むつもりか、怪鳥は偲の始末を諦めほたるを連れ去ろうとする。鉤爪を柔肌に突き立てられ、ほたるの顔が苦痛に歪んだ。
「痛……ッ」
「放せ!」
ほたるの呻きにも偲の叫びにも、勿論怪鳥は耳を傾けない。夜を掻き乱すほどの羽ばたきと共に、生餌を鷲掴みにした怪鳥はぶわりと躍り上がった。
人界の武器は通用しない。飛び立ってしまえばなおさら、「人」のままでは太刀打ちできなくなる。
瞬間、偲の胸中にまたも逡巡が走る。このまま怪鳥がほたるを連れ去ってくれれば、偲の秘密を知る者はいなくなる。数は激減しても完全に絶えることのない「神隠し」のひとつとして、闇の彼方に葬り去られてしまうだろう。
だが、獅子の腕の中で無防備に眠るほたるの寝顔が、偲の脳裏に弾けて消える。
軍人とは、民を守るために存在する者。民の暮らしの安寧のために刃を振るう者。ここで彼女を見捨てては、偲は人の世にいられなくなる。
「――――!」
声にならない咆哮を上げて、偲は獅子へと転じた。跳躍して右羽に掴みかかり牙を立てる。怪鳥が耳障りな雄叫びを上げた。
地上に連れ戻された怪鳥は怒りを漲らせ、生餌を放り捨てて獅子に鉤爪を閃かせる。怪鳥の嘴が肉を抉れば、獅子の爪が羽根を毟る。青白い月の下、両者一歩も退かない。
力量は拮抗していたが、遂に軍配が上がったのは獅子のほうだった。翼をへし折られて動きが鈍った隙を見逃さず、勇猛な顎門が怪鳥の首に喰らいつき、ひと咬みで骨を粉砕する。ごきりと鈍い音に醜い断末魔の叫喚が重なり、怪鳥は身悶えの末にようやく事切れた。
「……旦那様!」
屋内に逃げずに事態を見守っていたほたるが、転がるように駆けつけてくる。斑に染まった獅子の体躯に、悲痛な嘆きがこぼれた。
「ご無事ですか!? ああ、綺麗な毛並みがこんなに……」
ほたるの薄い掌が、血に汚れることも厭わずに毛並みを探り、傷のひとつに躊躇なく口づける。澄み渡る冷涼さが快く沁みたと思うと、嘴に喰い破られた生々しい傷口が、激痛ごと跡形もなく消え失せていた。なるほどこれが、名取の仙女の通力なのだろう。だが献身的に獅子の傷を癒していくほたるの肩や腕からは、まだ浴衣に血の滲みが広がっている。
「俺はいいから、先に自分の傷を治せ」
「いいえ、どう見てもわたしより旦那様のほうが重傷じゃないですか」
たおやかな妻の意外な頑固さに、偲は奇妙な衝動を覚えた。……今、人の姿であったなら、きっと自分は彼女を抱き寄せていただろう。
だがその衝動の名前に思い至るよりも先に、第三の声が二人を現実に引き戻した。
「…………しのぶ、なの……?」
勝手口からよろめき出てきた五十鈴が、獅子の姿をまっすぐ見つめながら茫然と孫の名を呟く。
「…………」
偲は瞼を伏せ、諦めと共に天を仰のいた。
勝手口の先で目にしたものは、声を潰し腰を抜かしたほたるに襲い掛かろうとする一羽の巨大な怪鳥。
文明開化だ御一新だと言っても、異境はなお闇を挟んで隣にある。皆、目を背けているだけで、仙境と人界が分かたれた今も、昼夜の交わる時間や夜闇の向こうからは、異形のものが滲み出してくるのだ。
「……っ!」
知らず、偲は息を詰まらせる。犬塚屋敷、即ち獅子の縄張りに、今まで物の怪が忍び込んできたことはなかった。……つまり、この怪鳥は獅子を侮れる程度には強い。
「ッ、待て!」
だが躊躇する余裕はなかった。鞘を捨てた偲は、ほたるに向かって鉤爪を広げた怪鳥の脚目がけて刀を叩き込む。が、押し負けたのは偲のほうだった。硬い音を立てて刃毀れした刀に短く舌打ちする。
餌に群がる蝿を追い払うかのように、怪鳥が羽を一閃させた。直撃を紙一重で躱した偲に、ほたるが悲鳴を上げる。
「旦那様、危険です!」
「危険なのは君のほうだろう!」
自身よりも夫の身を案じる妻に、偲は思わず怒鳴り返した。
塒でゆっくり啄むつもりか、怪鳥は偲の始末を諦めほたるを連れ去ろうとする。鉤爪を柔肌に突き立てられ、ほたるの顔が苦痛に歪んだ。
「痛……ッ」
「放せ!」
ほたるの呻きにも偲の叫びにも、勿論怪鳥は耳を傾けない。夜を掻き乱すほどの羽ばたきと共に、生餌を鷲掴みにした怪鳥はぶわりと躍り上がった。
人界の武器は通用しない。飛び立ってしまえばなおさら、「人」のままでは太刀打ちできなくなる。
瞬間、偲の胸中にまたも逡巡が走る。このまま怪鳥がほたるを連れ去ってくれれば、偲の秘密を知る者はいなくなる。数は激減しても完全に絶えることのない「神隠し」のひとつとして、闇の彼方に葬り去られてしまうだろう。
だが、獅子の腕の中で無防備に眠るほたるの寝顔が、偲の脳裏に弾けて消える。
軍人とは、民を守るために存在する者。民の暮らしの安寧のために刃を振るう者。ここで彼女を見捨てては、偲は人の世にいられなくなる。
「――――!」
声にならない咆哮を上げて、偲は獅子へと転じた。跳躍して右羽に掴みかかり牙を立てる。怪鳥が耳障りな雄叫びを上げた。
地上に連れ戻された怪鳥は怒りを漲らせ、生餌を放り捨てて獅子に鉤爪を閃かせる。怪鳥の嘴が肉を抉れば、獅子の爪が羽根を毟る。青白い月の下、両者一歩も退かない。
力量は拮抗していたが、遂に軍配が上がったのは獅子のほうだった。翼をへし折られて動きが鈍った隙を見逃さず、勇猛な顎門が怪鳥の首に喰らいつき、ひと咬みで骨を粉砕する。ごきりと鈍い音に醜い断末魔の叫喚が重なり、怪鳥は身悶えの末にようやく事切れた。
「……旦那様!」
屋内に逃げずに事態を見守っていたほたるが、転がるように駆けつけてくる。斑に染まった獅子の体躯に、悲痛な嘆きがこぼれた。
「ご無事ですか!? ああ、綺麗な毛並みがこんなに……」
ほたるの薄い掌が、血に汚れることも厭わずに毛並みを探り、傷のひとつに躊躇なく口づける。澄み渡る冷涼さが快く沁みたと思うと、嘴に喰い破られた生々しい傷口が、激痛ごと跡形もなく消え失せていた。なるほどこれが、名取の仙女の通力なのだろう。だが献身的に獅子の傷を癒していくほたるの肩や腕からは、まだ浴衣に血の滲みが広がっている。
「俺はいいから、先に自分の傷を治せ」
「いいえ、どう見てもわたしより旦那様のほうが重傷じゃないですか」
たおやかな妻の意外な頑固さに、偲は奇妙な衝動を覚えた。……今、人の姿であったなら、きっと自分は彼女を抱き寄せていただろう。
だがその衝動の名前に思い至るよりも先に、第三の声が二人を現実に引き戻した。
「…………しのぶ、なの……?」
勝手口からよろめき出てきた五十鈴が、獅子の姿をまっすぐ見つめながら茫然と孫の名を呟く。
「…………」
偲は瞼を伏せ、諦めと共に天を仰のいた。



