花嫁御寮の嘘つきな身の上 ~獅子の軍神は牡丹の乙女を手放せない

 頭、背中、顎の下……。ほたるはこまめに立ち位置を変え、角度や力加減を調整しながら獅子の豊かな毛並みを梳る。

 最初の頃は、毛の流れや按配が掴めず、控えめに苦言を呈されることもあったが、偲当人の助言を受けて改善を重ねていった。

 その結果。

「旦那様、……」

 終わりましたよ、との声をほたるは飲み込む。四肢を伏せ顎を落とした偲は、警戒心皆無の健やかな寝息を立てていた。

 一月も経つ頃には、毛繕いの最中に偲が瞼を閉じてまどろみ、更には寝落ちしてしまうことも珍しくなくなった。ほたるの試行錯誤が報われたと実感できる瞬間である。

 閨に呼ばれることはないけれど、これがお飾り妻なりの役割と弁え、ほたるはむしろ満足していた。食事の準備や身の回りの世話などの働きに、「旨かった」「助かる」などと感謝の意を示されることは、名取家では終ぞなかった。

 ただ今日は、日中、落ち葉をかき集めたり枯れ草を引き抜いたりと庭仕事に精を出したせいか、ほたるも小さく欠伸を溢す。

「……なんだ、君も眠いのか」
「っ、申し訳ありません。お見苦しい姿を」

 ゆったりと首をもたげた偲の指摘に、ほたるは短く詫びる。だがほたるを見返す眼差しはいまいち焦点が合っていない。

「君もあとは寝るだけだろう、ここで寝てもいいぞ」
「そ、そんなご無礼はできません」
「構わん。寝ろ」

 反論を封じるように、獅子の前脚がほたるの身体を胸元に抱え込んで転がった。「ひゃっ」と悲鳴を上げたほたるだったが、布団よりもやわらかくあたたかい毛並みの心地よさに、秒で陥落する。
 
「湯上がりの君はいい匂いがするな」
「え」
「いい夢が見れそうだ……」

 不明瞭な語尾を引き取るように、弛緩した獅子の口から寝息が漏れ出した。
 
 偲のこの行為は、寝惚けているがゆえの気の迷いだろう。最初で最後の共寝になるかもしれないと思い、開き直ったほたるは極上の寝心地を堪能することにした。羽織を脚に掛け、心和む温もりに包まれて、睡魔に逆らわず瞼を伏せる。

 だが明くる朝には普段どおり、偲は音々が来る前に人の姿に戻り、ほたるも朝食の準備を始める。

 人前ではいつものように仲睦まじい夫婦の演技をこなし、二人きりの夜、ほたるに鬣を梳かされながら偲が愉快そうに言った。

「俺の腹毛はそんなに気持ちよかったか?」
「えっ」
昨夜(ゆうべ)、ものすごく締まりのない顔で寝ていたぞ」
「それは、……はい、とっても心地よかったです」 

 指摘に赤面しながらも、ほたるは素直に白状した。大袈裟に言うと、極楽がこんな身近にあったとは、という心境である。偲が満足げに目を細めた。

「うん、正直でよろしい。……そうだな、毛繕いの礼だ。冬の間は添い寝してもいいぞ」
「えぇっ!?」

 予想外の提案に、驚いたのか喜んだのか、ほたるは自分でも判らなかった。目をまんまるに見開いた妻の反応を見て、偲はくつくつと忍び笑う。

「夫婦なら本来、同衾するものだろう。ひとつくらい事実を紛れ込ませたほうが嘘にも真実味が出る」
「それはそうかもしれませんが……」
「なんだ、嫌か」
「とんでもないです!」

 あっさりと言を翻してしまいそうな偲に、ほたるは自分でもびっくりするほどの力強さで断言した。

 斯くして「毛繕い」に加えて「添い寝」まで日課となり、何度目かのこの夜も、丸くなった偲に頬をすり寄せるようにしてほたるは眠りに落ちようとしていた。寒さの沁みるこの季節に獣の体温は快く、偲にとってもそうであれば嬉しいと思う。

 化物と偽者、秘密を唯一共有する二人だからこそ、互いに気兼ねがいらない、それだけのはずだった。それがいつの間にか、寝顔を預け合えるほどに気を許せる存在になりつつある。

 まがいものの夫婦でも、円満に暮らせるのであればそれに越したことはない。偲は五感や身体能力はずば抜けているものの霊力の類いはなく、おそらく人と同様に老いて死ぬ。「契約」が長く続けばいいと、偲の胸の中でほたるは密やかに願った。


 だが、破綻は思いがけない形でやって来た。