「旦那様は烏の行水ですね」
犬塚家の獅子なのに、と言外に含ませて、湯上がりの夫の姿にほたるはくすくすと笑う。鬣を揺らして廊下を闊歩する偲は、ややむすりとした面持ちで口を開いた。獣の表情は乏しいが半分は人、一月も共に暮らせば、ほたるにもなんとなく読める。
「水浴びはあまり好きではないんだ」
声は些か渋いものの、それほど怒った様子はない。獣らしい感想を溢して尾を揺らしながら自室に足を運ぶ偲に一礼し、ほたるも風呂の支度を始めた。
軍部から帰宅した偲は夫婦で夕食を摂ってから風呂に入り、音々が本館に戻ったあとは獅子の姿で寛ぐ。ほたるも家事を済ませて入浴し、就寝まで自室でのんびり過ごす。それが二人の定番となっていた。良好な夫婦仲を演じつつ、一度も褥を共にしたことはない。
風呂上がりにほたるが偲の部屋の前を通りかかると、実はほたるの一言を気にしていたのか、偲がこっそりと毛繕いをしていた。その姿を見て妙案を思いついたほたるは、一旦自室に向かい、あるものを持ち出して引き返す。
「旦那様、失礼します。……よろしければ、毛並み梳かしましょうか?」
櫛を手に「お背中流しましょうか」の変形版を申し出るほたるに、偲は驚いたように顔を上げた。
実を言うと、初めてその姿を見たときからずっと、真珠のように光沢のある毛並みに触れてみたかったのだ。だがいかめしい軍服の似合う青年将校でもあると思うと躊躇が先に立った。これ以上の口実はあるまい。
「そんな気を遣わなくてもいい」
「まあそう仰らず。手足はともかく、背中は届きにくいでしょう?」
「…………」
図星ではあったのか、反射的に遠慮した偲だったが、結局は渋々とほたるを受け入れる体勢を取った。ほたるは「失礼いたします」と律儀に断りを入れ、つややかな毛並みにそっと櫛を通す。偲は軽く髭をそよがせ、おとなしくほたるの手に身を委ねた。無意識にか、ゴロゴロと小さく喉が鳴る。
「……前から思っていたが、君は俺のこの姿に拒否感がないな」
「名取の家では爪弾きにされていましたから。人より、残飯狙いの野良猫のほうが親しかったくらいです」
自虐的に応じながら、ほたるは雲母の鬣も丹念に梳る。異母姉よりも強い通力がある、自分も確かに伯爵の娘なのだ、というひそかな自負と、いずれ嫁に出されるという一縷の望みがなければ、ほたるはとっくに母の後を追っていたに違いない。
「恐ろしくはないのか?」
敢えて牙や爪を見せつける偲に、手を止めたほたるはきょとんと目を丸くし、次いで曇りない笑みを浮かべた。
「だって旦那様はただの獣ではなく化物、獣であり人でもあるのでしょう? 理性的で言葉も通じる相手の、何を恐れることがありましょうか」
「だが俺の爪や牙は、君の華奢な身体など一撃で裂くことができるぞ」
「それは契約違反ですね。旦那様がわたしを喰らうのは、わたしが旦那様の正体を周囲に漏らした時。東都の守護者ともあろう御方が、契約を反故にするおつもりですか?」
「そんなつもりはないが……」
笑みを崩さずつらつらと述べるほたるとは裏腹に、調子を狂わされ困惑気味の偲の声は尻すぼみになる。
「ではやはり、何も恐ろしくなどありません」
きっぱりと断言し、ほたるはブラッシングを再開ながら歌うように続ける。
「むしろ、これほど凛々しくて綺麗な生き物には、初めてお目にかかりました」
「……そうか」
裏のない賛辞に、自らを成り損ないの化物と自嘲する偲の尾が照れ隠しのようにぱたりと揺れた。
その賞賛は獅子だけに向けられたものではない。ひとつ屋根の下で暮らし、彼の人となりに触れた。犀利な容貌や隙のない身のこなしは近寄りがたい印象を与えるけれど、気さくな一面もあり、使用人たちにも敬われつつ親しまれている。契約夫婦でも、偲の妻になれたことは、ほたるにとって間違いなく僥倖であった。
獅子の全身をくまなく梳り、抜け毛をまとめて、ほたるは襖の前で跪礼して夫の部屋を辞去する。
「では、お粗末様でした」
「ああ、ありがとう」
廊下でまた膝をついて襖を閉めようとするほたるの動きを、室内から偲が声をかけて制した。
「……君がよければ、またやってもらえると嬉しい」
少し照れくさそうな依頼に対するほたるの返答は、勿論決まっている。
「はい、ぜひ。喜んで」
この夜から、まがいもの夫婦の日課に「毛繕い」が加わったのだった。
犬塚家の獅子なのに、と言外に含ませて、湯上がりの夫の姿にほたるはくすくすと笑う。鬣を揺らして廊下を闊歩する偲は、ややむすりとした面持ちで口を開いた。獣の表情は乏しいが半分は人、一月も共に暮らせば、ほたるにもなんとなく読める。
「水浴びはあまり好きではないんだ」
声は些か渋いものの、それほど怒った様子はない。獣らしい感想を溢して尾を揺らしながら自室に足を運ぶ偲に一礼し、ほたるも風呂の支度を始めた。
軍部から帰宅した偲は夫婦で夕食を摂ってから風呂に入り、音々が本館に戻ったあとは獅子の姿で寛ぐ。ほたるも家事を済ませて入浴し、就寝まで自室でのんびり過ごす。それが二人の定番となっていた。良好な夫婦仲を演じつつ、一度も褥を共にしたことはない。
風呂上がりにほたるが偲の部屋の前を通りかかると、実はほたるの一言を気にしていたのか、偲がこっそりと毛繕いをしていた。その姿を見て妙案を思いついたほたるは、一旦自室に向かい、あるものを持ち出して引き返す。
「旦那様、失礼します。……よろしければ、毛並み梳かしましょうか?」
櫛を手に「お背中流しましょうか」の変形版を申し出るほたるに、偲は驚いたように顔を上げた。
実を言うと、初めてその姿を見たときからずっと、真珠のように光沢のある毛並みに触れてみたかったのだ。だがいかめしい軍服の似合う青年将校でもあると思うと躊躇が先に立った。これ以上の口実はあるまい。
「そんな気を遣わなくてもいい」
「まあそう仰らず。手足はともかく、背中は届きにくいでしょう?」
「…………」
図星ではあったのか、反射的に遠慮した偲だったが、結局は渋々とほたるを受け入れる体勢を取った。ほたるは「失礼いたします」と律儀に断りを入れ、つややかな毛並みにそっと櫛を通す。偲は軽く髭をそよがせ、おとなしくほたるの手に身を委ねた。無意識にか、ゴロゴロと小さく喉が鳴る。
「……前から思っていたが、君は俺のこの姿に拒否感がないな」
「名取の家では爪弾きにされていましたから。人より、残飯狙いの野良猫のほうが親しかったくらいです」
自虐的に応じながら、ほたるは雲母の鬣も丹念に梳る。異母姉よりも強い通力がある、自分も確かに伯爵の娘なのだ、というひそかな自負と、いずれ嫁に出されるという一縷の望みがなければ、ほたるはとっくに母の後を追っていたに違いない。
「恐ろしくはないのか?」
敢えて牙や爪を見せつける偲に、手を止めたほたるはきょとんと目を丸くし、次いで曇りない笑みを浮かべた。
「だって旦那様はただの獣ではなく化物、獣であり人でもあるのでしょう? 理性的で言葉も通じる相手の、何を恐れることがありましょうか」
「だが俺の爪や牙は、君の華奢な身体など一撃で裂くことができるぞ」
「それは契約違反ですね。旦那様がわたしを喰らうのは、わたしが旦那様の正体を周囲に漏らした時。東都の守護者ともあろう御方が、契約を反故にするおつもりですか?」
「そんなつもりはないが……」
笑みを崩さずつらつらと述べるほたるとは裏腹に、調子を狂わされ困惑気味の偲の声は尻すぼみになる。
「ではやはり、何も恐ろしくなどありません」
きっぱりと断言し、ほたるはブラッシングを再開ながら歌うように続ける。
「むしろ、これほど凛々しくて綺麗な生き物には、初めてお目にかかりました」
「……そうか」
裏のない賛辞に、自らを成り損ないの化物と自嘲する偲の尾が照れ隠しのようにぱたりと揺れた。
その賞賛は獅子だけに向けられたものではない。ひとつ屋根の下で暮らし、彼の人となりに触れた。犀利な容貌や隙のない身のこなしは近寄りがたい印象を与えるけれど、気さくな一面もあり、使用人たちにも敬われつつ親しまれている。契約夫婦でも、偲の妻になれたことは、ほたるにとって間違いなく僥倖であった。
獅子の全身をくまなく梳り、抜け毛をまとめて、ほたるは襖の前で跪礼して夫の部屋を辞去する。
「では、お粗末様でした」
「ああ、ありがとう」
廊下でまた膝をついて襖を閉めようとするほたるの動きを、室内から偲が声をかけて制した。
「……君がよければ、またやってもらえると嬉しい」
少し照れくさそうな依頼に対するほたるの返答は、勿論決まっている。
「はい、ぜひ。喜んで」
この夜から、まがいもの夫婦の日課に「毛繕い」が加わったのだった。



