夫婦揃って居間で夕食を済ませたのち、偲は予定通り入浴に向かった。ほたるは音々と共に洗い物を片付け、溌剌とした彼女を玄関先で見送る。すると女中の辞去を見計らったように、偲が風呂から出てきた。
思っていたより早い風呂上がりだが、それはいい。よくないのは、彼が人ではなく獣の姿をしていたことだ。
「! 旦那様っ」
さすがに仰天したほたるに対し、偲は獅子の口でしれっと言い返す。
「安心しろ、湯には人の姿で浸かったから毛は浮いてないぞ」
「そうじゃなくてですね、……音々さんを本館に帰したのはこれが理由ですか」
彼女がいては気が抜けないのはほたるも同じだが、偲は想像以上に伸び伸び暮らすつもりらしい。
「この姿のほうが楽なんだ。別に人の姿でいるのが大変なわけじゃないが、多分女性の化粧と素顔程度には違う」
そう喩えられると、ほたるにはぐうの音も出なかった。
「冷める前に君も入ってくるといい。出たら居間に来てくれ」
夫に促されてほたるも湯をもらい、髪を絞って浴衣姿で居間に戻ると、偲は前脚で器用に読書していた。本を閉じ、ほたるに座るよう示す。
「俺たちの『契約』を、具体的に話し合いたいと思ってな」
ほたるを呼びつけた理由をそう説明し、「まずは」と早速本題に入る。
「三年経ったら親戚筋から養子をもらう。跡継ぎはそれで事足りるだろう」
「……よいのですか」
ほたるも「偽者」なりに、子爵家の嫁としての務めを果たす覚悟で嫁いできた。いきなり出端を挫かれ、戸惑いを隠せない。
「祖父母も、母の出奔後に甥を養子を迎えていたからな。俺と母が戻って間もなく、肺病で亡くなったが。……ああ、離縁はしないぞ。俺の秘密を知る君を手放す気はない」
俗に「嫁して三年子なきは去る」と言われるが、離縁はしない、子も産ませないでは、偲はいったいほたるに何を望んでいるのだろう。
「では何故」
「何故って」
ほたるの疑問に、偲は言葉ではなく行動で答えた。肉球でほたるの肩を押し倒す。不意打ちの行為に抗うすべなく、ほたるは無様に畳に転がった。
「っ!?」
髪を乱した新妻の上に覆いかぶさり、鼻面を寄せた獅子が低く問う。
「君は、こんな化物の子を産む覚悟があるのか?」
「……!」
嘯く声に、ほたるは咄嗟に応えられなかった。そしてそれが、紛うかたなきほたるの本心だった。
「表向きは仲睦まじく、実際は傀儡の夫とお飾りの妻。それでいいだろう」
偲はほたるの上から退き、妻に起き上がるよう促す。含み笑いの声には毒気が漂っていたが、やはり陰湿さはなかった。
そのほかにもいろいろと取り決めを交わした。偲が化物だと露見したら、ほたるを喰って人界から姿を消す。ほたるが偽者だと明るみに出たら、犬塚家の全財産を持って世間から行方をくらます。お互い、自分が馬脚を現さないよう努める一方で、相手の化けの皮を剥がさないよう細心の注意を払うこと。愛情は求めず、それでも尊重し合える仲を保ちたい。
だがこの夜の会話の中で、ほたるの心に最も残ったのは、偲のごく何気ないこの一言だった。
「君が偽の伯爵令嬢として嫁いだのなら、『本物』の伯爵令嬢は、今後どういう身の振り方をするつもりなんだろうな」
思っていたより早い風呂上がりだが、それはいい。よくないのは、彼が人ではなく獣の姿をしていたことだ。
「! 旦那様っ」
さすがに仰天したほたるに対し、偲は獅子の口でしれっと言い返す。
「安心しろ、湯には人の姿で浸かったから毛は浮いてないぞ」
「そうじゃなくてですね、……音々さんを本館に帰したのはこれが理由ですか」
彼女がいては気が抜けないのはほたるも同じだが、偲は想像以上に伸び伸び暮らすつもりらしい。
「この姿のほうが楽なんだ。別に人の姿でいるのが大変なわけじゃないが、多分女性の化粧と素顔程度には違う」
そう喩えられると、ほたるにはぐうの音も出なかった。
「冷める前に君も入ってくるといい。出たら居間に来てくれ」
夫に促されてほたるも湯をもらい、髪を絞って浴衣姿で居間に戻ると、偲は前脚で器用に読書していた。本を閉じ、ほたるに座るよう示す。
「俺たちの『契約』を、具体的に話し合いたいと思ってな」
ほたるを呼びつけた理由をそう説明し、「まずは」と早速本題に入る。
「三年経ったら親戚筋から養子をもらう。跡継ぎはそれで事足りるだろう」
「……よいのですか」
ほたるも「偽者」なりに、子爵家の嫁としての務めを果たす覚悟で嫁いできた。いきなり出端を挫かれ、戸惑いを隠せない。
「祖父母も、母の出奔後に甥を養子を迎えていたからな。俺と母が戻って間もなく、肺病で亡くなったが。……ああ、離縁はしないぞ。俺の秘密を知る君を手放す気はない」
俗に「嫁して三年子なきは去る」と言われるが、離縁はしない、子も産ませないでは、偲はいったいほたるに何を望んでいるのだろう。
「では何故」
「何故って」
ほたるの疑問に、偲は言葉ではなく行動で答えた。肉球でほたるの肩を押し倒す。不意打ちの行為に抗うすべなく、ほたるは無様に畳に転がった。
「っ!?」
髪を乱した新妻の上に覆いかぶさり、鼻面を寄せた獅子が低く問う。
「君は、こんな化物の子を産む覚悟があるのか?」
「……!」
嘯く声に、ほたるは咄嗟に応えられなかった。そしてそれが、紛うかたなきほたるの本心だった。
「表向きは仲睦まじく、実際は傀儡の夫とお飾りの妻。それでいいだろう」
偲はほたるの上から退き、妻に起き上がるよう促す。含み笑いの声には毒気が漂っていたが、やはり陰湿さはなかった。
そのほかにもいろいろと取り決めを交わした。偲が化物だと露見したら、ほたるを喰って人界から姿を消す。ほたるが偽者だと明るみに出たら、犬塚家の全財産を持って世間から行方をくらます。お互い、自分が馬脚を現さないよう努める一方で、相手の化けの皮を剥がさないよう細心の注意を払うこと。愛情は求めず、それでも尊重し合える仲を保ちたい。
だがこの夜の会話の中で、ほたるの心に最も残ったのは、偲のごく何気ないこの一言だった。
「君が偽の伯爵令嬢として嫁いだのなら、『本物』の伯爵令嬢は、今後どういう身の振り方をするつもりなんだろうな」



