かつて蓬莱と呼ばれた極東の島国にも文明開化の鐘が鳴り響き、人と人ならぬものが共に栄えた時代に終わりを告げた。仙人が活躍し物怪が跋扈した歴史を御伽話に塗り変え、古い衣を脱ぎ捨てるように名を改めたこの国は近代国家への道を走り始めた。
「まあ、馬子にも衣装ですこと」
犬塚家本館の控えの間、名取家の女中頭・初音は薄く嗤って、今しがた自身の手で仕上げた花嫁をそう評した。名取家の家紋でもある牡丹文様の白無垢を初々しく纏う妙齢の花嫁は眉ひとつ動かさない。年増の女中頭の嘲弄は昨日今日始まったものではないからだ。
奠都と改元より三十年余りの秋も深まった吉日。今日、ほたるは名取伯爵家の令嬢として、犬塚子爵家の跡取りに嫁ぐ。
犬塚家の跡取りは名を偲といい、士官学校を卒業した二年後には順当に中尉に進み、更に翌年、武勲を立てて大尉に昇進した。この「武勲」こそが、西京の名取家と東都の犬塚家を結びつけた。
仙境であった過去を葬り去って貪欲に新しきを知ろうとする東都と対照的に、古きを温ねて今なお仙術を崇める西京、そのうちの過激派が、御所を襲撃し帝を再び西京へと連れ戻す計画を企てた。それを事前に察知して首謀者たちを一網打尽にしたのが、偲の率いる部隊であった。獅子奮迅のその大手柄を、人々は「東都の守護者」「勇ましき軍神」と称揚した。
帝は偲への恩賞と温故派への牽制を兼ねて、遷都に随行せず未だ西京に残る公家との縁談を決めた。証拠こそないものの御所襲撃計画の黒幕と目された名取伯爵家、その嫡女を東都に差し出せと命じたのだ。文明開化を謳いながら、戦国時代のような縁組である。
名取家には男児がいない。養子を迎えるにしても、正統はそこで絶えるはずであった。
初音が、今度は斬りつけるようにほたるの耳許に吹き込む。
「よいですか、決して、あなたが『名取家の嫡女』ではないと気取られてはなりませんよ」
「……わかっております」
「心配だこと。何しろあの鈍臭い女の娘ですもの。ああでも、あの女はあれでいて伯爵様を誑かした女狐でもあったのだわね。粗野な東夷の軍人を手玉に取るくらいは朝飯前かしら?」
「…………」
黙り込んだほたるに、初音はわざとらしく詫びた。
「ご機嫌を損ねないでくださいまし。私たち一同、ほたる様に感謝して、また惜しんでおりますのよ。名取家は医学薬学に秀でた一門、使用人を被検体にすることも珍しくなかったのに、姉上様のお相手を一手に引き受けてくださっていたのですから」
……ほたるは名取家の嫡女ではない。嫡女の若菜と同じ歳の異母妹だ。
格下相手に人質同然の嫁入り、単身京落ちすることを、当の若菜も名取夫妻も、後込みどころか断固拒否した。だが西京は帝の打倒ではなく帰還を願う一派、勅命には背けない。
そこで画策されたのが、身代わりの嫁入りであった。
実に都合のいいことに、名取家には正妻胎の嫡女のほかに、女中を手籠めにして生ませた庶女がいた。半分は下賤の血でも、半分は間違いなく、代々仙人を輩出してきた名門・名取家の血が流れている。
こうして、小学校卒業後は名取家で女中同然の境遇にあったほたるは、伯爵令嬢として、遠路はるばる東都へと上って、否、下ってきたのだ。
名取家が帝の勅命を無視できなかったように、ほたるもまた、父でもある伯爵の命令には抗えなかった。婚家で巧く立ち回れるかという心配は尽きないが、生家を離れる名残惜しさはない。伯爵夫妻に苛まれて心を病んだ母は自ら首を縊った。犬塚子爵は偲の祖父で両親は故人とのことだが、そこには少なくとも、ことあるごとにほたるを「阿婆擦れの娘」「伯爵家の面汚し」などと罵倒する伯爵夫人も、仙薬の実験と称して折檻と治癒を繰り返す異母姉もいない。辛辣な女中頭も、式には参列せず西京に帰る。
「ではわたくしはこれにて失礼いたします」
花嫁の着付けと化粧を終えた女中頭は慇懃無礼に一礼する。
ほたるとは母娘ほどに歳の離れた彼女も、実際、ほたるの母と似た境遇であった。伯爵に見初められて夫人より先に身籠り、それゆえに夫人の凄まじい嫉妬と虐待に晒され、結果として男児を流産してしまった。ほたるが無事に生まれたのは、同時期に夫人も若菜を身籠っていて手が回らなかったからに過ぎない。その後伯爵には子が生まれず、若菜が跡継ぎの座に納まった。名取家は皇族出身の仙女を開祖とする家柄、女当主が立つことも珍しくない。
実質的な妾として今も伯爵に仕える初音だが、さすがに正妻や嫡女には頭が上がらない。実子を喪ったことも相俟って、ぞんざいな扱いを受ける庶子を徹底的に痛めつけたくなる心情も理解できなくはないものの、名取家の誰も、ほたるを庇ってはくれなかった。
「どうぞ恙なく、お嬢様」
最後の皮肉が、年経て婀娜っぽさを増した朱唇からほたるを射抜いた。
「まあ、馬子にも衣装ですこと」
犬塚家本館の控えの間、名取家の女中頭・初音は薄く嗤って、今しがた自身の手で仕上げた花嫁をそう評した。名取家の家紋でもある牡丹文様の白無垢を初々しく纏う妙齢の花嫁は眉ひとつ動かさない。年増の女中頭の嘲弄は昨日今日始まったものではないからだ。
奠都と改元より三十年余りの秋も深まった吉日。今日、ほたるは名取伯爵家の令嬢として、犬塚子爵家の跡取りに嫁ぐ。
犬塚家の跡取りは名を偲といい、士官学校を卒業した二年後には順当に中尉に進み、更に翌年、武勲を立てて大尉に昇進した。この「武勲」こそが、西京の名取家と東都の犬塚家を結びつけた。
仙境であった過去を葬り去って貪欲に新しきを知ろうとする東都と対照的に、古きを温ねて今なお仙術を崇める西京、そのうちの過激派が、御所を襲撃し帝を再び西京へと連れ戻す計画を企てた。それを事前に察知して首謀者たちを一網打尽にしたのが、偲の率いる部隊であった。獅子奮迅のその大手柄を、人々は「東都の守護者」「勇ましき軍神」と称揚した。
帝は偲への恩賞と温故派への牽制を兼ねて、遷都に随行せず未だ西京に残る公家との縁談を決めた。証拠こそないものの御所襲撃計画の黒幕と目された名取伯爵家、その嫡女を東都に差し出せと命じたのだ。文明開化を謳いながら、戦国時代のような縁組である。
名取家には男児がいない。養子を迎えるにしても、正統はそこで絶えるはずであった。
初音が、今度は斬りつけるようにほたるの耳許に吹き込む。
「よいですか、決して、あなたが『名取家の嫡女』ではないと気取られてはなりませんよ」
「……わかっております」
「心配だこと。何しろあの鈍臭い女の娘ですもの。ああでも、あの女はあれでいて伯爵様を誑かした女狐でもあったのだわね。粗野な東夷の軍人を手玉に取るくらいは朝飯前かしら?」
「…………」
黙り込んだほたるに、初音はわざとらしく詫びた。
「ご機嫌を損ねないでくださいまし。私たち一同、ほたる様に感謝して、また惜しんでおりますのよ。名取家は医学薬学に秀でた一門、使用人を被検体にすることも珍しくなかったのに、姉上様のお相手を一手に引き受けてくださっていたのですから」
……ほたるは名取家の嫡女ではない。嫡女の若菜と同じ歳の異母妹だ。
格下相手に人質同然の嫁入り、単身京落ちすることを、当の若菜も名取夫妻も、後込みどころか断固拒否した。だが西京は帝の打倒ではなく帰還を願う一派、勅命には背けない。
そこで画策されたのが、身代わりの嫁入りであった。
実に都合のいいことに、名取家には正妻胎の嫡女のほかに、女中を手籠めにして生ませた庶女がいた。半分は下賤の血でも、半分は間違いなく、代々仙人を輩出してきた名門・名取家の血が流れている。
こうして、小学校卒業後は名取家で女中同然の境遇にあったほたるは、伯爵令嬢として、遠路はるばる東都へと上って、否、下ってきたのだ。
名取家が帝の勅命を無視できなかったように、ほたるもまた、父でもある伯爵の命令には抗えなかった。婚家で巧く立ち回れるかという心配は尽きないが、生家を離れる名残惜しさはない。伯爵夫妻に苛まれて心を病んだ母は自ら首を縊った。犬塚子爵は偲の祖父で両親は故人とのことだが、そこには少なくとも、ことあるごとにほたるを「阿婆擦れの娘」「伯爵家の面汚し」などと罵倒する伯爵夫人も、仙薬の実験と称して折檻と治癒を繰り返す異母姉もいない。辛辣な女中頭も、式には参列せず西京に帰る。
「ではわたくしはこれにて失礼いたします」
花嫁の着付けと化粧を終えた女中頭は慇懃無礼に一礼する。
ほたるとは母娘ほどに歳の離れた彼女も、実際、ほたるの母と似た境遇であった。伯爵に見初められて夫人より先に身籠り、それゆえに夫人の凄まじい嫉妬と虐待に晒され、結果として男児を流産してしまった。ほたるが無事に生まれたのは、同時期に夫人も若菜を身籠っていて手が回らなかったからに過ぎない。その後伯爵には子が生まれず、若菜が跡継ぎの座に納まった。名取家は皇族出身の仙女を開祖とする家柄、女当主が立つことも珍しくない。
実質的な妾として今も伯爵に仕える初音だが、さすがに正妻や嫡女には頭が上がらない。実子を喪ったことも相俟って、ぞんざいな扱いを受ける庶子を徹底的に痛めつけたくなる心情も理解できなくはないものの、名取家の誰も、ほたるを庇ってはくれなかった。
「どうぞ恙なく、お嬢様」
最後の皮肉が、年経て婀娜っぽさを増した朱唇からほたるを射抜いた。



