「お帰りなさいませ、旦那様」
「お帰りなさいまし」
「ああ、ただいま」
桜の時候を迎えた犬塚家の別館では、今夜もいつもの遣り取りが交わされていた。
その後の実家の顛末を、ほたるは新聞と伝聞でしか知らない。まず当然、若菜と皇族との婚約は破談になった。結果として勅命どおり嫡女を嫁に出していた伯爵家への処罰は子爵への降爵に留まったが、それは飽くまで表向きのこと。水面下で張り巡らされていた陰謀、加担していた者たちは悉く秘密裏に処理され、行幸も、鎮火しない醜聞に耐えかねた態で自ら爵位を返上することを余儀なくされた。先祖伝来の屋敷も売り払い、若菜を適当な薬問屋に縁づかせたのち、葵子ともども、逃げるように僻地の別邸へと移り住んだそうだ。
傷害事件を起こした初音は獄に繋がれたが、その顔には常に不気味な薄笑いが貼りついていたという。そしてこれ以降、「東都」「西京」という対等な通称は次第に廃れ、「帝都」「旧都」の呼び名が定着していくことになる。
脱いだ外套を自ら抱えて自室に向かう偲に、三歩遅れてほたるもしずしずと従う。
部屋に入ると、偲は改まったように切り出した。
「……このまま、ほたる、でいいのだろうか。君の呼び名は」
そう尋ねられてようやくほたるは、偲にあまり名を呼ばれたことがないと気づいた。獅子の姿を見せつけ、名を呼びかけないことで、当初の彼は契約上の妻との間に見えない壁を築き、距離を保とうとしていたのかもしれない。
けれど獅子の雄姿に見惚れたほたるは障壁を乗り越えてしまった。そして偲も、ほたるを壁の向こうに追い返そうとはしなかった。
「はい、どうぞ今までどおり、そうお呼びください」
今更、若菜という名はしっくりこない。犬塚の戸籍にも、偲の妻の名は「ほたる」と明記されている。だからここにいる自分はほたるだ。名取家の娘ではなく、犬塚家の嫁だ。
明るく頷くほたるに、偲は外套の懐から取り出した桐の小箱を差し出す。
「ではほたる、これを」
「え……」
ほたるが桐箱をぱかりと開けると、中には牡丹と蝶をあしらった透かし彫りの簪と、同じく金属製の櫛が入っていた。瞬くほたるに、偲は僅かに言い澱む。
「牡丹は、もしかしたら余分だったかもしれないが……」
「いいえ、そんなことはありません」
ほたるは名取家を捨てたが、百花公主の血が流れていることは誇りに思っている。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
結婚から半年、菓子や花束を手土産に渡されたことはあったけれど、夫からの初めての贈り物だ。
それも、ただの贈り物ではない。かつて、男が女に髪飾りの簪や櫛を贈るのは、求婚の意味合いがあった。
化物の本性はとっくに祖父母に知られていて、偽者は本物であった。「秘密」は失われ、「契約」は無効になった。
だからこの簪と櫛の授受は、改めて夫婦の誓いを交わすための儀式。
だがこれは挿し櫛ではなく解き櫛、髪を飾るものではなく梳かすためのもの。
「……その櫛で、これからも、俺の毛並みを整えてほしい」
求婚としては迂遠な、しかし偲にしか言えないであろう台詞に、ほたるはクスクスと笑って返事を伝える。
「勿論です。旦那様の鬣を梳かして、腹毛を枕にするのはわたしだけの特権ですよ」
会ったことのない義母の気持ちが、今なら解る気がする。人だとか人でなしだとかではなく、ひとりの女として、ひとりの男を愛し、その愛し子を慈しんだ。
「……それは少し困るな」
「え?」
「俺としては、たまにはこの姿のままで君を愛でたいんだが」
からかい混じりに偲が笑い、武芸を嗜むその掌が、壊れものを扱うようにそっとほたるの頬を包んだ。ほたるは胸の鼓動が早鐘を打つのを感じながらも、偲の手に己の掌を重ねて微笑み返す。
「……はい、どうぞ存分に可愛がってくださいませ」
「以前も言ったが、俺はこの先も、君を手放す気はないからな」
「ええ。末永く、お傍に置いてください。偲様」
「――――では、契約成立だ」
誓約の証に、二人の影が、唇が重なる。
窓の外では間もなく、花開いた牡丹に蝶が戯れる季節が訪れようとしていた。
「お帰りなさいまし」
「ああ、ただいま」
桜の時候を迎えた犬塚家の別館では、今夜もいつもの遣り取りが交わされていた。
その後の実家の顛末を、ほたるは新聞と伝聞でしか知らない。まず当然、若菜と皇族との婚約は破談になった。結果として勅命どおり嫡女を嫁に出していた伯爵家への処罰は子爵への降爵に留まったが、それは飽くまで表向きのこと。水面下で張り巡らされていた陰謀、加担していた者たちは悉く秘密裏に処理され、行幸も、鎮火しない醜聞に耐えかねた態で自ら爵位を返上することを余儀なくされた。先祖伝来の屋敷も売り払い、若菜を適当な薬問屋に縁づかせたのち、葵子ともども、逃げるように僻地の別邸へと移り住んだそうだ。
傷害事件を起こした初音は獄に繋がれたが、その顔には常に不気味な薄笑いが貼りついていたという。そしてこれ以降、「東都」「西京」という対等な通称は次第に廃れ、「帝都」「旧都」の呼び名が定着していくことになる。
脱いだ外套を自ら抱えて自室に向かう偲に、三歩遅れてほたるもしずしずと従う。
部屋に入ると、偲は改まったように切り出した。
「……このまま、ほたる、でいいのだろうか。君の呼び名は」
そう尋ねられてようやくほたるは、偲にあまり名を呼ばれたことがないと気づいた。獅子の姿を見せつけ、名を呼びかけないことで、当初の彼は契約上の妻との間に見えない壁を築き、距離を保とうとしていたのかもしれない。
けれど獅子の雄姿に見惚れたほたるは障壁を乗り越えてしまった。そして偲も、ほたるを壁の向こうに追い返そうとはしなかった。
「はい、どうぞ今までどおり、そうお呼びください」
今更、若菜という名はしっくりこない。犬塚の戸籍にも、偲の妻の名は「ほたる」と明記されている。だからここにいる自分はほたるだ。名取家の娘ではなく、犬塚家の嫁だ。
明るく頷くほたるに、偲は外套の懐から取り出した桐の小箱を差し出す。
「ではほたる、これを」
「え……」
ほたるが桐箱をぱかりと開けると、中には牡丹と蝶をあしらった透かし彫りの簪と、同じく金属製の櫛が入っていた。瞬くほたるに、偲は僅かに言い澱む。
「牡丹は、もしかしたら余分だったかもしれないが……」
「いいえ、そんなことはありません」
ほたるは名取家を捨てたが、百花公主の血が流れていることは誇りに思っている。
「ありがとうございます。とても嬉しいです」
結婚から半年、菓子や花束を手土産に渡されたことはあったけれど、夫からの初めての贈り物だ。
それも、ただの贈り物ではない。かつて、男が女に髪飾りの簪や櫛を贈るのは、求婚の意味合いがあった。
化物の本性はとっくに祖父母に知られていて、偽者は本物であった。「秘密」は失われ、「契約」は無効になった。
だからこの簪と櫛の授受は、改めて夫婦の誓いを交わすための儀式。
だがこれは挿し櫛ではなく解き櫛、髪を飾るものではなく梳かすためのもの。
「……その櫛で、これからも、俺の毛並みを整えてほしい」
求婚としては迂遠な、しかし偲にしか言えないであろう台詞に、ほたるはクスクスと笑って返事を伝える。
「勿論です。旦那様の鬣を梳かして、腹毛を枕にするのはわたしだけの特権ですよ」
会ったことのない義母の気持ちが、今なら解る気がする。人だとか人でなしだとかではなく、ひとりの女として、ひとりの男を愛し、その愛し子を慈しんだ。
「……それは少し困るな」
「え?」
「俺としては、たまにはこの姿のままで君を愛でたいんだが」
からかい混じりに偲が笑い、武芸を嗜むその掌が、壊れものを扱うようにそっとほたるの頬を包んだ。ほたるは胸の鼓動が早鐘を打つのを感じながらも、偲の手に己の掌を重ねて微笑み返す。
「……はい、どうぞ存分に可愛がってくださいませ」
「以前も言ったが、俺はこの先も、君を手放す気はないからな」
「ええ。末永く、お傍に置いてください。偲様」
「――――では、契約成立だ」
誓約の証に、二人の影が、唇が重なる。
窓の外では間もなく、花開いた牡丹に蝶が戯れる季節が訪れようとしていた。



