花嫁御寮の嘘つきな身の上 ~獅子の軍神は牡丹の乙女を手放せない

「……なんですって?」

 葵子が眉をひそめる。ほたるも、若菜も同様だった。妖艶な女中頭が何を言っているのか、理解できなかった。

 冷や水を浴びせられた三人に、初音は周囲の招待客にも聞かせるよう高らかに言い放つ。

「奥方様が産んだのは東に捨てたほたる様、首を縊った惨めな女中が産んだのが、皇族を婿に迎え伯爵家を継ぐ若菜様ということですよ!」
「なっ、なんというでたらめを!!」

 当然、葵子は目を剥いて憤慨したが、初音は意に介さず、むしろその反応がこの上なく痛快でたまらないというようにけらけらと嗤った。

「でたらめなものですか、だって私が取り替えたのですからね。本当、奥様とあの女が同時期に娘を産んでくれたのは千載一遇の好機でしたわ。伯爵様に感謝しなければ」

 夫人と同衾した翌日には女中に手をつけるような色狂いを、かつてその男に抱かれ懐妊したこともある初音は痛烈に皮肉る。

 妖婦どころか毒婦の様相を呈した彼女を中心に、招待客の間にも次第に動揺が広がっていった。帝の従甥である若菜の許婚は硬直し、愛妾でもある女中頭の思いがけない叛逆に、伯爵の行幸(ゆきたか)もまた、彼女の口を塞げずにいる。

「初音、おまえ……」
「そんな、まさか……」
「うっ、うそよ! 信じないわ!! 若菜はお父様とお母様の子、名取家の跡継ぎよ!!」

 ほたるは衝撃のあまり絶句し、若菜は拒絶するように喚く。少女たちの混乱を前に、初音の高笑いは止まらない。

「お可哀そうな若菜お嬢様。では証拠をお見せしましょう」

 そこからの初音の動きは、まさに神がかりの速さであった。懐に隠し持っていた短刀を構え、棒立ちの母娘三人に向かって踊るように躍りかかる。

 偲は、そこで軍人としては痛恨の失態を犯した。初音を取り押さえるのではなくほたるを庇ったせいで反応が遅れ、凶器は過たず若菜の顔を下から上へと斜め一文字に切り裂く。

「きゃああぁぁぁっ!」
「若菜っ!!」

 鮮血が咲き、若菜と葵子の悲鳴が重なった。偲はすかさず初音を後ろ手に捻り上げて短刀を回収する。

「お嬢様!」
「さあほたる様、見せておあげなさい、あなたの力を!」

 ほたるが若菜に駆け寄るのと、拘束されてなお異様な熱に浮かされた初音が甲高く叫ぶのもまた、殆ど同時だった。蹲って「あああ」と嘆く若菜の、額から鼻筋を通って頬に走る傷に、ほたるの指先が触れる。

「痛い、痛い! 若菜の顔、若菜の顔があぁ」
「お嬢様」
「っ触んないで! みすぼらしい女中の娘の分際で!!」

 世界のすべてを拒む若菜の魂の慟哭に心を痛めながらも、ほたるは彼女の額に口づけを落とす。そっとひと撫でするだけで、刻まれたばかりの若菜の刀傷は痕も残さず消え失せた。

 眼前で起こった奇跡に、観衆と化した招待客たちがひときわざわめき、行幸が歓喜に打ち震える。

「おお、これこそまさに名取家の始祖、百花公主(ひゃっかこうしゅ)の神秘。初代以来の神通力……!」
「…………」

 多少薬草の扱いに長けた程度の能しかなかった若菜は力なく座り込み、現実を突きつけられた葵子の鉄壁の信念に亀裂が走る。不惑を数えた顔が困惑に歪んだ。

「そんな、本当に……? ……ッ」

 血走った目が勢いよく初音を睨み据えた。鬼の形相の葵子に、初音はひしゃげた笑いを返す。

「ッ何故おまえは、こんなことを! どうして赤子のすり替えなんて!!」
「奥様をお恨み申し上げているからに決まっているでしょう。奥様があの日、私を階段から突き落とさなければ、私の産んだ子が次期伯爵だった!!」

 血反吐を吐くような渾身の絶叫だった。伯爵夫人の虐待により男児を流産した女中頭。熾火のように憎しみを募らせ、機を逃さず赤子を取り替え、伯爵令嬢が女中として侮蔑され女中の娘が伯爵令嬢として溺愛される滑稽さを嘲笑いながら、すべてを白日の下に晒す今日この日を心待ちにしていた。

「伯爵夫人にも伯爵令嬢にも、随分と愉しませていただきましたわ。あの無様な女の娘も、実によく踊り狂ってくれました」

 唯一真実を知る初音にとって、歪んだ名取伯爵家の有り様は茶番劇でしかなかっただろう。伯爵夫人が、腹を痛めて産んだ我が子を小虫と罵り、害虫と疎んじた女中の娘を愛娘として慈しむ。初音もまた、夫人への恨み辛みを込めて、存分にほたるをいたぶることができた。ほたるの通力にいち早く気づき、言を弄して口止めできたことも勿怪の幸いであった。

「…………本当、なのでしょうか……?」

 それでもほたるはまだ、自分こそが伯爵令嬢だと信じきれずにいた。受け継いだ百花公主の通力は父方の血、母が女中であっても矛盾はしない。

 初音と凶器を男手の使用人たちに引き渡した偲は、ほたるに寄り添い、妻にしか聞こえない小声で囁く。

「間違いない。君と伯爵夫人は匂いが似ている。……あまり嬉しいことではないかもしれないが」
「そう、ですか……」

 鼻の利く偲に言われてしまっては、ほたるも認めるしかなかった。

「……ふふ、ふ。あははははは、あっははははははっ。――――ざまぁみろ、アハハハハハハハハハハッ!」

 壮絶な復讐を遂げた初音は、ケタケタとひび割れた笑いを撒き散らしながら、使用人たちに連行されていった。

 一方、愛娘の晴れ舞台から一転、奈落の底に叩き落された葵子の眼差しは虚ろに彷徨い、事実を知らずに虐げ続けた実の娘に辿り着く。その瞬間、瞳に狂気にも似た光芒が灯った。

「…………ああ、あなたがあたくしの本当の娘だったのね。名取家の跡取りに相応しい、百花公主の再来。さすがはあたくしの娘だわ」

 正気を失った顔、覚束ない足取りで歩み寄ろうとする葵子に、反射的にほたるは一歩退いた。見捨てられた若菜が愕然と母に縋る。
 
「お、お母様」
「っ、お黙りなさい、あなたなどに母と呼ばれる筋合いはないわ、この出来損ない!」
「お母様……!」

 葵子は振り返って一瞬口籠もったものの、容赦なく若菜を切り捨てた。若菜の顔が絶望に染まる。

「そうよ、おかしいと思っていたの。あたくしの娘があんなに不出来なはずがない。全部あの売女のせいだったのね、やっぱりあたくしの産んだ子は優秀だったのだわ」

 更に距離を詰めようとする葵子を、偲が身を挺して遮った。葵子は忌々しげにこめかみを引き攣らせながらも、長躯の陰に隠れたほたるに猫撫で声で語りかけ続ける。

「どうぞ、母と呼んでちょうだいな。そして、母の元に帰って来るのです。今度こそ母娘として、親子三人水入らずでやり直しましょう」

 恥知らずな台詞をなんの疑いもなく紡ぐ実母に、立ち竦んでいたほたるはすっと心が冷えていくのを感じた。

 ほたるは両親の愛情に飢えていた。伯爵と伯爵夫人からの無償の愛を独占する若菜を羨ましいと思ってきた。

 けれど、葵子の口からは、この期に及んで謝罪の言葉ひとつない。悪口雑言にまみれた過去をすべてを水に流して、母と呼べと宣う。

 何も知らずに亡くなった哀れな養母の面影も今は朧ろ。ほたるは毅然と夫の陰から踏み出し、実母と対峙した。

 迷いはない。もう負けない。

「――――わたしに母はいません。父も姉妹もいらない。旦那様と、見守ってくださる義理の祖父母と、いずれ産む我が子がいれば、それでいい」

 それは決別の言葉であった。顔を俯け、肩を丸めて、目立たないよう息をひそめて日陰で萎れていた蕾は、日向に出て愛情を注がれた今、気高く大輪の花を咲かせた。

 葵子の顔色が変わる。

「何を莫迦なことを言っているの、あなたは名取家の、いえ西京の要となるべき存在なのですよ!」

 どこまでも自分勝手な主張を喚き散らす葵子からの視線を断ち切り、ほたるは幼子のようにぺたりと座り込んだままの若菜に目を向けた。仙女の才、貴き血筋、両親の愛情、己を構成する要素のすべてを失った若菜が青褪めて肩を痙攣させる。

「ぅ、あ……」
「……お嬢様を恨み続けようとは思いません。若菜様が、伯爵家の跡取りとして相応しくあろうと努力し続けてきたことを、わたしはある意味、誰よりも知っていますから」

 若菜に傷と薬を交互に与えられ続けたほたるは、けれど、と語気を強めて明言した。

「お嬢様を嫌いであることに変わりはありません。お嬢様とわたしは姉妹でもなんでもない、血が繋がっただけの赤の他人です。……もう二度と関わらないで」

 更に、一言の祝いの言葉もなくほたるを東都へ厄介払いした行幸に向き直る。父と呼ぶことは許されなかったし、呼ぶ気もさらさらない。

「伯爵様、わたしを犬塚家の嫁にしてくださってありがとうございました。金輪際会うことはありませんが、どうぞお元気で」

 蝶が舞うように優雅に一礼し、最後にほたるは初音が連行された方角に思いを馳せた。ほたるの、そして若菜の運命を狂わせた元凶。けれど積年の恨みを晴らして壊れた今、彼女にはどんな言葉も響かないだろう。

 父母も姉妹も捨てたほたるは夫を振り仰ぐ。その頬が花の如くに可憐に綻んだ。

「帰りましょうか、旦那様」
「ああ、そうだな。帰ろう、俺たちの家に」

 偲は妻の肩を抱き、門に向かって悠然と踵を返す。威圧されたように人波が割れ、渦中から去り行く夫婦を言葉もなく見送った。「待ちなさい!」「待ってっ、……待ちなさいよ!!」「待たんか、ほたる!」と口々に金切り声を上げる名取家の人々を、ほたるも偲も一度も振り返らない。


 そしてこの先二度と、ほたるが名取家の敷居を跨ぐことはなかった。