花嫁御寮の嘘つきな身の上 ~獅子の軍神は牡丹の乙女を手放せない

 着替え直した若夫婦と、上座に端座する老婦人。別館の居間には重苦しい空気が垂れ込めていた。

 やがて、五十鈴の吐息がその沈黙を吹き消す。

「――――二人とも、怪我は大丈夫なの?」
「っ、はい。彼女がすべて、治してくれました」

 詰問ではなく気遣いの声に、偲は戸惑いながらも頷いた。五十鈴はほたるに視線を向け、ゆったりと微笑む。

「ほたるさん、孫をの傷を治してくださってありがとう」
「いえ、わたしこそ、旦那様に助けていただきました」

 広げた翼は三丈もあろうかという巨大な猛禽と目が合った瞬間、ほたるは死を覚悟した。そして落ち着いた今は、襲われたのが五十鈴でなくてよかったと心底安堵する。

「さすがは薬師の名門、仙女の末裔と名高い名取家のお嬢様ね」

 だが手放しで賞讃されると、女中の娘であるほたるは良心の呵責で胃がきりきりと痛む。しかし、そんな自分よりも長いこと彼女を欺き続けていた者が今、ほたるの隣に、白洲の罪人の如く座っているのだった。

「おばあさま、……ずっと騙していて、申し訳ありませんでした」

 偲が項垂れたまま声を絞り出す。肉親に正体を知られた以上、子爵家の跡継ぎとして屋敷に留まることはできない。その悲愴な覚悟と、捨てきれない未練が、膝上で握られた拳に表れていた。

「旦那様……」

 こうなるかもしれないと承知の上で、偲はほたるを助けてくれたのだ。それなのに、恩を受けた者として、妻として、自分はなんの力にもなれない。身体の傷は癒せても、肝心な時の無力さが歯痒くて仕方がなかった。

 だが孫の謝罪、その裏にある別離の言葉を、五十鈴はからりと笑い飛ばす。

「何を言っているの。わたくしも子爵様も、とっくに知っておりましたよ」
「は……?」
「あなたが人ではないことを、わたくしたちはずっと昔から承知していました」

 事態を飲み込めず目が点になった偲に、噛んで含めるように五十鈴は繰り返した。数拍置いて、ようやく理解が沁み込んできた偲が上擦った声で尋ねる。

「……は、母上が話したのですか。それとも変身を見られていましたか?」
「いいえ。でも、庚子が大きなおなかを抱えて屋敷を飛び出してから戻ってくるまで八年。一緒に帰って来たあなたは五歳くらいにしか見えませんでしたから。計算が合わないでしょう?」

 人は十月十日で月満ちる。だが人ならぬものは、三年、五年、或いは十年もの歳月を経て生まれてくる。

「開国からまだたった数十年ですもの、人ならぬものが思った以上に身近にいても不思議ではないわ」

 新時代に向かって突き進む東都では誰もが忘れようとしているけれど、この国はかつて、神仙や霊獣と共に栄えた島であったのだ。

「だから今も、だんなさまが本館の使用人たちをごまかしてくれているはずですよ」

 そう言えば、広い敷地とはいえ結構な乱闘騒ぎだったのに、五十鈴以外誰も駆けつけてこなかった。

「……知っていて、何故」

 そこで言葉を詰まらせた偲の疑問を正確に汲み取り、五十鈴は答える。何故、化物を子爵家の跡取りとして、孫として受け入れてくれたのか。

「庚子があなたを慈しむ姿を見て、本当に、あなたの父親と愛し合って生まれた子だと解りましたから。……結局、だんなさまもわたくしも、遅くに生まれた一人娘のあの子に弱かったんですよ」

 懐かしむように苦笑し、五十鈴は立派な美丈夫に成長した孫にやわらかく目を細めた。

「ね。さっきの姿、もう一度見せてちょうだいな」
「え……」
「いいでしょう?」

 躊躇する偲に、五十鈴は笑顔で迫る。根負けした偲の姿が熔けて揺らぎ、ぱさりと音を立てて浴衣が畳に落ちると、長躯の青年に代わって勇壮な獣が姿を現した。

「まあ……! 触ってもよいかしら」
「……どうぞ」

 乙女のように瞳を輝かせた五十鈴に向かって、偲は従順に(こうべ)を垂れる。巻き毛の鬣をそっと撫で、五十鈴は子爵夫人らしからぬ弾んだ声を上げた。

「なんて素敵な獅子でしょう。おとうさまに似ているのかしら」
「いえ、父はもっと強大で優美でした」
「あらそうなの。だけどあなたも充分立派よ、胸を張りなさいな」

 ひとしきり獅子の毛並みを愛で、五十鈴は再びほたるに首を向ける。

「ほたるさんも、このことは承知でいらしたのね」
「……はい」

 恐れも驚きもせず獅子に触れていた姿からそう推察した子爵夫人に、ほたるは素直に頷いた。夫人の顔に笑い皺が広がる。

「……帝の勅命での縁組でしたけれど、わたくしは嬉しかったのですよ。今も神仙を尊ぶ西京の御令嬢であれば、この子を受け入れてくれるやもしれないと」

 そして五十鈴は畳に手をつき、深々とほたるに頭を下げた。

「まさに獅子に牡丹、期待以上の花嫁御寮が来てくだすったわ。……どうぞこの先も、偲をよろしくお願いします」

 牡丹(名取草)は百花の女王、獅子もまた、毛あるものの(おさ)である麒麟とは別に、百獣の王とも讃えられる。そして身中に蟲を飼う獅子は、唯一蟲を鎮めることのできる夜露を宿す牡丹の下でのみ、安心して眠れるのだ。

「刀自様、顔をお上げください。……旦那様は、わたしなどには勿体ないくらいの御方でございます。万事至らぬ身ですが、旦那様に認めていただける限りは、妻として精一杯務めたいと思います」

 ほたる自身は、偲とこの先も夫婦を演じ続けることに異論はない。けれど偲はどうだろう。祖父母に正体が知れていると判明した今、「契約」を打ち切ってほたるの素性を暴露してもおかしくない。

 だが結局この夜、偲がほたるの身の上を五十鈴に明かすことはなかった。

 夜が明けると、闇から湧いた有象無象に喰い散らかされたのか、怪鳥は骨も残さず消えていた。僅かな残骸を野菜屑などと共に堆肥として埋めてしまえば、それで何事もなかったかのように終わるはずであった。