早速その日から文化祭ポスターの色塗りが始まった。
その日のうちに終わるはずもなく、龍牙が持ち帰ろうとしたので止めた。
(提出は七月末なんだから、全然時間ある)
あと半月はあるのだから、部活の時間でやればいい。
龍牙は月水土にバイトで部活に来られないから、それを気にしているようだ。
(そんなん、気にしなくていいのに。案外、色々気にするよな)
気が小さいとかではない。他人に対して異常に気を使う人だ。
普段は無口で無表情だから、わからない気持ちも多いけど。
ただのクラスメイトだった時とは、大きく印象が変わった。
(見た目ヤンキーっぽいのに案外真面目だし、気遣い上手だし、大人っぽい)
金髪でたくさんピアスを開けている理由が、逆に気になる。
(ただの趣味かな。龍牙のピアス、色も綺麗で可愛いし)
好きでやっているのなら、それはそれでいいと思う。
今日は水曜日で龍牙はバイトだ。
俺は一人で文化祭のポスターに色を塗っていた。
「きゃははは」
隣の美術室から、やけに大きな笑い声が聞こえた。
美術部にはそういう笑い方をする女子はいない。
むしろ、俺にとっては嫌な思い出が蘇る。
(イラスト同好会の先輩の声に似てる。嫌だな。聞きたくない)
胸にじんわりと、あの頃の苦さが浮いてくる。
「ねぇ、隣ってどうなってるの? 準備室も美術部の部室?」
「そっちは別の部室だから、入らないで!」
ドクリと心臓が抉られた時には、扉が開いていた。
見たくもない顔が、美術室から入り込んできた。
「峰岸、先輩」
イラスト同好会で何度も俺の絵を馬鹿にした先輩だった。
「なぁんだ。八坂じゃん。何でいんの? 美術部、辞めたんじゃなかったっけ?」
虫けらでも見るような目で、峰岸先輩が吐き捨てた。
「だから、美術部じゃないんだってば。八坂、ごめんね」
美術部部長の矢代羊子先輩が、懸命に峰岸先輩を引っ張っている。
峰岸先輩の目が、ポスターに向いた。
「まさかだけどさぁ、性懲りもなくまた部活、入ったわけぇ? 八坂が絵を描けるような部活が、まだあるんだぁ」
峰岸先輩が無遠慮に美術準備室に入ってきた。
「しかも、何? もしかしてこれ、文化祭のポスター? 生意気すぎじゃない?」
ポスターの端を摘まんだ峰岸先輩の指が、紙を思いっきり引っ張って、弾いた。
「ちょっと、やめて。破けちゃう」
矢代先輩が慌てている。
(俺はもう美術部じゃないから、矢代先輩は関係ない。迷惑、かけちゃう)
そう思うのに、体は小刻みに震えるばかりで声も出せない。
俺は何もできずに俯いた。
「文化祭のポスターって、認可ないと描けないよねぇ。何、勝手なことしてるの?」
「認可が出てるの。実行委員からアクスタ部に依頼が出てるのよ」
「はぁ? なんでイラスト同好会に依頼がなくて、弱小新設の部活に依頼が来るのよ。訳わかんないんですけど」
「それは実行委員に聞いて。もういいでしょ。帰ってよ!」
矢代先輩が叫んだ。
峰岸先輩が、矢代先輩の手を振り払った。
「きっとさぁ、イラスト同好会にまだ在籍してるって思われてるんだよ、八坂。だから文化祭のポスターを描く権利は、イラスト同好会にあるよね」
峰岸先輩の手がポスターの端っこを引っ張った。
紙がギリギリと引っ張られて、破けそうになる。
(俺と龍牙で書いている絵なのに)
そう思ったら、喉が開いた。
「やめろ!」
思わず、声が出た。
「はぁ? やめろってなんだよ。お前、何様?」
「……すみません」
俺は拳を強く握りしめた。
悔しさが沸々と胸を焼く。
「こんな絵描いたって無駄だから。ポスターの権利はうちでもらうから」
掴んだポスターの端を引っ張ろうとする峰岸を、紙を抑えて止めた。
「ポスターを描いてほしいと言われたのは、アクスタ部です。この権利は渡せません」
虎徹先生に描くように言われたのは、俺と龍牙だ。
この権利だけは絶対に渡せない。
「いい加減にしろよ、キモオタ。お前の絵なんか、誰も見たくねぇんだよ」
俺は首を振った。
視たいと思ってくれる人がいる。
好きだと言ってくれる人がいる。
龍牙の顔を思い出して、必死に首を振った。
「なにそれ、キモ」
峰岸先輩の手が、ポスターの隣に置いてあった水入れを押した。
ポスターの上に水が大量に流れた。
「きゃああ!」
矢代の悲鳴が聞こえた。
「きゃはは、やだぁ、水浸しぃ。紙、引っ張り過ぎたんじゃないのぉ?」
ポスターが水浸しになった。
塗っていた色が水に溶けてぐちゃぐちゃだ。
紙が水を吸って、ぶよぶよにふやけている。
(龍牙が構図を考えてくれて、線画を褒めくれた。俺たちの絵が……)
「……なよ」
わなわなと、握った拳が震えた。
「ふざけるなよ!」
学校でなんか出したことがないような大声が出た。
矢代先輩の肩が、ビクリと震えた。
それ以上に、峰岸先輩の手が震えていた。
「怒鳴るとか、何様……」
峰岸先輩の声が、震えている。
ガラっと、廊下側の扉が開いた。
龍牙が立っていた。
「平野……」
矢代が龍牙の名前を呼んだ。
龍牙が、部屋の中を見回して、机に目を留めた。
びしょびしょで、ぐちゃぐちゃになった紙をじっと見詰めている。
「み、水……零したの、峰岸だから! 八坂は何も悪くない!」
矢代先輩が叫んだ。
「ちょ……ふざけんな、矢代」
峰岸先輩が慌てた様子で後ろに下がった。
(見つかった。龍牙に、こんな絵を見られた)
そう思ったら悲しくて、悔しくて、涙が溢れてきた。
絵を守れなかった自分が、悔しかった。
「龍牙、ごめん。こんな風になっちゃって、ごめん」
龍牙が弾かれたように部屋の中に入ってきた。
一直線に峰岸先輩に向かうと、その胸倉を掴んだ。
「きゃぁ! 暴力やめて……」
「きゃぁじゃねぇよ。てめぇのしたことは暴力じゃねぇのかよ」
龍牙が殺意すら籠っているんじゃないかと思う剣幕で峰岸先輩を睨んだ。
「俺の大好きな絵師、泣かせてんじゃねぇよ」
地を這うような低い声で、龍牙が凄んだ。
「男のくせに泣くとか、情けない」
峰岸先輩が鼻で笑った。
龍牙が掴んだ胸倉を持ち上げた。
「男とか女とか、俺は関係ねぇから。謝らねぇなら、ぶん殴る」
龍牙が拳を握って、目を見開く。
峰岸先輩が目を瞑った。
「ひっ……」
「ダメだ、龍牙!」
俺は必死に叫んだ。
龍牙が少しだけ俺を振り返った。
「はぁ……」
怒りを吐き出すように息を吐いて、龍牙が拳を降ろした。
龍牙が掴んだ胸倉を放り投げた。
峰岸先輩が、その場に座り込んだ。
「さっさと帰れよ。いつまでもいられても鬱陶しいんだけど」
龍牙が峰岸先輩を睨む。
「あと、虎徹先生には報告しとくんで」
龍牙が俺に歩み寄った。
涙を拭って、腕を摩ってくれた。
「ふ、ふざけんなよ。お前らの話なんか、誰も信じないから!」
峰岸先輩が叫んだ。
「そう思うなら、アンタも好きに話せよ」
龍牙が一睨みする。
ぶるりと身震いした峰岸先輩が、悔しそうに準備室を出て行った。
その間も龍牙は、ずっと俺の腕を摩っていてくれた。
その日のうちに終わるはずもなく、龍牙が持ち帰ろうとしたので止めた。
(提出は七月末なんだから、全然時間ある)
あと半月はあるのだから、部活の時間でやればいい。
龍牙は月水土にバイトで部活に来られないから、それを気にしているようだ。
(そんなん、気にしなくていいのに。案外、色々気にするよな)
気が小さいとかではない。他人に対して異常に気を使う人だ。
普段は無口で無表情だから、わからない気持ちも多いけど。
ただのクラスメイトだった時とは、大きく印象が変わった。
(見た目ヤンキーっぽいのに案外真面目だし、気遣い上手だし、大人っぽい)
金髪でたくさんピアスを開けている理由が、逆に気になる。
(ただの趣味かな。龍牙のピアス、色も綺麗で可愛いし)
好きでやっているのなら、それはそれでいいと思う。
今日は水曜日で龍牙はバイトだ。
俺は一人で文化祭のポスターに色を塗っていた。
「きゃははは」
隣の美術室から、やけに大きな笑い声が聞こえた。
美術部にはそういう笑い方をする女子はいない。
むしろ、俺にとっては嫌な思い出が蘇る。
(イラスト同好会の先輩の声に似てる。嫌だな。聞きたくない)
胸にじんわりと、あの頃の苦さが浮いてくる。
「ねぇ、隣ってどうなってるの? 準備室も美術部の部室?」
「そっちは別の部室だから、入らないで!」
ドクリと心臓が抉られた時には、扉が開いていた。
見たくもない顔が、美術室から入り込んできた。
「峰岸、先輩」
イラスト同好会で何度も俺の絵を馬鹿にした先輩だった。
「なぁんだ。八坂じゃん。何でいんの? 美術部、辞めたんじゃなかったっけ?」
虫けらでも見るような目で、峰岸先輩が吐き捨てた。
「だから、美術部じゃないんだってば。八坂、ごめんね」
美術部部長の矢代羊子先輩が、懸命に峰岸先輩を引っ張っている。
峰岸先輩の目が、ポスターに向いた。
「まさかだけどさぁ、性懲りもなくまた部活、入ったわけぇ? 八坂が絵を描けるような部活が、まだあるんだぁ」
峰岸先輩が無遠慮に美術準備室に入ってきた。
「しかも、何? もしかしてこれ、文化祭のポスター? 生意気すぎじゃない?」
ポスターの端を摘まんだ峰岸先輩の指が、紙を思いっきり引っ張って、弾いた。
「ちょっと、やめて。破けちゃう」
矢代先輩が慌てている。
(俺はもう美術部じゃないから、矢代先輩は関係ない。迷惑、かけちゃう)
そう思うのに、体は小刻みに震えるばかりで声も出せない。
俺は何もできずに俯いた。
「文化祭のポスターって、認可ないと描けないよねぇ。何、勝手なことしてるの?」
「認可が出てるの。実行委員からアクスタ部に依頼が出てるのよ」
「はぁ? なんでイラスト同好会に依頼がなくて、弱小新設の部活に依頼が来るのよ。訳わかんないんですけど」
「それは実行委員に聞いて。もういいでしょ。帰ってよ!」
矢代先輩が叫んだ。
峰岸先輩が、矢代先輩の手を振り払った。
「きっとさぁ、イラスト同好会にまだ在籍してるって思われてるんだよ、八坂。だから文化祭のポスターを描く権利は、イラスト同好会にあるよね」
峰岸先輩の手がポスターの端っこを引っ張った。
紙がギリギリと引っ張られて、破けそうになる。
(俺と龍牙で書いている絵なのに)
そう思ったら、喉が開いた。
「やめろ!」
思わず、声が出た。
「はぁ? やめろってなんだよ。お前、何様?」
「……すみません」
俺は拳を強く握りしめた。
悔しさが沸々と胸を焼く。
「こんな絵描いたって無駄だから。ポスターの権利はうちでもらうから」
掴んだポスターの端を引っ張ろうとする峰岸を、紙を抑えて止めた。
「ポスターを描いてほしいと言われたのは、アクスタ部です。この権利は渡せません」
虎徹先生に描くように言われたのは、俺と龍牙だ。
この権利だけは絶対に渡せない。
「いい加減にしろよ、キモオタ。お前の絵なんか、誰も見たくねぇんだよ」
俺は首を振った。
視たいと思ってくれる人がいる。
好きだと言ってくれる人がいる。
龍牙の顔を思い出して、必死に首を振った。
「なにそれ、キモ」
峰岸先輩の手が、ポスターの隣に置いてあった水入れを押した。
ポスターの上に水が大量に流れた。
「きゃああ!」
矢代の悲鳴が聞こえた。
「きゃはは、やだぁ、水浸しぃ。紙、引っ張り過ぎたんじゃないのぉ?」
ポスターが水浸しになった。
塗っていた色が水に溶けてぐちゃぐちゃだ。
紙が水を吸って、ぶよぶよにふやけている。
(龍牙が構図を考えてくれて、線画を褒めくれた。俺たちの絵が……)
「……なよ」
わなわなと、握った拳が震えた。
「ふざけるなよ!」
学校でなんか出したことがないような大声が出た。
矢代先輩の肩が、ビクリと震えた。
それ以上に、峰岸先輩の手が震えていた。
「怒鳴るとか、何様……」
峰岸先輩の声が、震えている。
ガラっと、廊下側の扉が開いた。
龍牙が立っていた。
「平野……」
矢代が龍牙の名前を呼んだ。
龍牙が、部屋の中を見回して、机に目を留めた。
びしょびしょで、ぐちゃぐちゃになった紙をじっと見詰めている。
「み、水……零したの、峰岸だから! 八坂は何も悪くない!」
矢代先輩が叫んだ。
「ちょ……ふざけんな、矢代」
峰岸先輩が慌てた様子で後ろに下がった。
(見つかった。龍牙に、こんな絵を見られた)
そう思ったら悲しくて、悔しくて、涙が溢れてきた。
絵を守れなかった自分が、悔しかった。
「龍牙、ごめん。こんな風になっちゃって、ごめん」
龍牙が弾かれたように部屋の中に入ってきた。
一直線に峰岸先輩に向かうと、その胸倉を掴んだ。
「きゃぁ! 暴力やめて……」
「きゃぁじゃねぇよ。てめぇのしたことは暴力じゃねぇのかよ」
龍牙が殺意すら籠っているんじゃないかと思う剣幕で峰岸先輩を睨んだ。
「俺の大好きな絵師、泣かせてんじゃねぇよ」
地を這うような低い声で、龍牙が凄んだ。
「男のくせに泣くとか、情けない」
峰岸先輩が鼻で笑った。
龍牙が掴んだ胸倉を持ち上げた。
「男とか女とか、俺は関係ねぇから。謝らねぇなら、ぶん殴る」
龍牙が拳を握って、目を見開く。
峰岸先輩が目を瞑った。
「ひっ……」
「ダメだ、龍牙!」
俺は必死に叫んだ。
龍牙が少しだけ俺を振り返った。
「はぁ……」
怒りを吐き出すように息を吐いて、龍牙が拳を降ろした。
龍牙が掴んだ胸倉を放り投げた。
峰岸先輩が、その場に座り込んだ。
「さっさと帰れよ。いつまでもいられても鬱陶しいんだけど」
龍牙が峰岸先輩を睨む。
「あと、虎徹先生には報告しとくんで」
龍牙が俺に歩み寄った。
涙を拭って、腕を摩ってくれた。
「ふ、ふざけんなよ。お前らの話なんか、誰も信じないから!」
峰岸先輩が叫んだ。
「そう思うなら、アンタも好きに話せよ」
龍牙が一睨みする。
ぶるりと身震いした峰岸先輩が、悔しそうに準備室を出て行った。
その間も龍牙は、ずっと俺の腕を摩っていてくれた。



