――――程なくしてオルディスが唇を開いた瞬間、舞台が遠くへ消えてゆくような錯覚が生まれ視界が暗闇に溶けてゆく。
代わりに目の前には扉が出現し、その扉の傍にオルディスが待機していた。
いきなりのことで驚いたが、しかし彼はやはりエルディーテに気付く様子はない。
瞬間的にドキリと跳ねた心臓を撫で、エルディーテはその顔を一瞥したあと見覚えのある色の扉を開くことにした。
すると部屋から暖かな光が溢れる。
中からは甘さを含む幼い声が聞こえた。
「ね、お父さま。いいでしょう?」
スープの香りとソテーされた肉の芳醇な匂いが食欲を忘れていたエルディーテの鼻腔の奥を刺激する。
窓の外は紺碧色、これは家族が揃い夕食をとっている光景だった。
「確かに先ほど見せてくれた刺繍は素晴らしい出来だったよ。お前がディートとした約束についても覚えている」
「なら……」
「駄目だとは言わない。だがエルディーテ。お前は彼の人生を引き受ける覚悟を持っているのかな?」
父は一度ナイフを置き、エルディーテを見た。
「……えっと、どういうことですか?お父様……」
幼少期のエルディーテは不安気に問う。すると父は母を一瞥したのちこう言った。
「私達の言動は、他人の人生を左右させることがある」
その言葉を紡ぐ唇は上品で、いつにもまして父は穏やかな面持ちだったが、その言葉には一抹の仄暗さが孕んでいた。
「お前が専任騎士を望むということは、彼を一生縛ることにもなりかねない。忠誠を誓うとはそういう事だが、ただディートが好きだから傍に置きたいというのであれば私は反対かな。気に入っているというのなら忠誠などなくとも関係は築ける。むしろその方が好ましいんじゃないか」
聞く者が変われば大袈裟だと感じるだろう。
しかし、父は本心からそう感じエルディーテに忠告していることはその瞳からひしひしと感じられる。
だが幼い自分は、まだよく分かっていなかった。
視線を真っすぐ父に向けはっきりと告げる。
「……でもディートは良いって言ってくれました!」
「無理強いはさせてない?」
「そんなことっ……ないと思います……たぶん!大丈夫です!」
自信はないが、意見を押し通したいといった感じである。
「はたしてそうかな」
「うっ……」
「たとえばディアンがお前ものをどうしても欲しいと強請ったらどうする?」
徐に父はディアンへ視線を流す。
「ぼく?」
静かに話を聞いていたディアンが小首を傾げ、姉を見る。するとエルディーテはぎくりとばつが悪そうに唇を窄めた。
話の雲行きが怪しくなり、おねだりが不成功に終わりそうな気配に表情は強張っている。
「それは……譲るかもしれません……でもそれは私が姉だからです」
「彼も同じことだ。子供の頼みを無下には出来ないだろう。正直なところ、お前たちの間に信頼関係があるのか私には分からないから、そこを口出すつもりはないよ。だがエルディーテ、専任騎士として傍に置くということは簡単に言えば彼を守るということだ」
「……私がディートを守る?逆じゃないのですか?」
「お前が守るのは彼の立場だ」
その言葉を噛み砕くように何度も瞬き、そんな娘を更に諭すように父は告げる。
「……私は以前、それで失敗している。人を近くに置くことの意味を甘くみていた。誰かを特別扱いすることは、一歩間違えると嫉妬を生んで一人の人間の人生を変えるんだよ」
オルディスのことだろうか。
「……嫉妬だなんて、うちでそんなことは起きないと思います」
「そうだね。我が家で起きることはないだろう。しかしお前がいずれ成長し、家の外と様々な繋がりを持った時に分かるだろう」
まだ七歳。このときの父の失敗について深く考えれるはずはなかった。
だが今改めて聞いて思い浮かぶのは、父に執着を見せる団長のレニー・レイヴンだ。
彼に目の敵にされたことで、オルディスは帝国騎士団を追放され今に至っている。
「誰かを特別扱いするならば、その影響から彼を守り人生を引き受ける覚悟もまた必要だ。だから感情だけで選んではいけないよ」
まるで教訓を経て紡がれたような言葉だった。
実際、そうなのかもしれない。
「……お父様は特別扱いしたことを後悔されているのですか?」
「あぁ。忘れた日はない……」
幼いエルディーテが問えば父は静かに頷いた。それから部屋の外でオルディスが待機しているであろう扉の方へと視線を移す。
そんな父の憂いをどこまで理解出来ていたかは分からないが、追想することで蘇る記憶に浮かんできた言葉を思い出した。
このあと幼い自分はこう紡ぐのだ。
「――大丈夫です、お父様。ディートは私が守ります。だから許可を下さい」
好きというだけでは駄目で、引き受ける覚悟を問われた夜、父の後悔を知った。
それでもなお、怯むことなくあの頃のエルディーテはオルディスを欲していたのだ。
子供の我儘の延長線上に位置する願いだったが、その瞳には真剣なものがあった。
するとこれまで黙っていた母が唇を開いた。
「……あなた。エルディーテは一度言い出したらきかない子ですよ。刺繍も投げださず完成させました。きっと曲げることはないでしょう」
「……そうだったな」
静かだが芯の通った声に頷く父に、エルディーテは母を見て瞳を輝かせた。
「では……!」
「あぁ、許可しよう。ただし自分が今言ったその言葉を胸に刻んでおきなさい」
「ありがとうございます!」
喜びのあまりエルディーテは側に控えていたマリアを振り返って「やったわ!」とはにかんだ。
「だが任命の前に彼と話がしたい。ディートの意思を私からも確認させてもらうよ」
エルディーテは父の言葉に上機嫌で首を縦に振る。
単なる再確認だと思っていた。
しかし実際はそうではない。
このあと行われるのは贖罪と尋問という相反する行為だったのだ。
代わりに目の前には扉が出現し、その扉の傍にオルディスが待機していた。
いきなりのことで驚いたが、しかし彼はやはりエルディーテに気付く様子はない。
瞬間的にドキリと跳ねた心臓を撫で、エルディーテはその顔を一瞥したあと見覚えのある色の扉を開くことにした。
すると部屋から暖かな光が溢れる。
中からは甘さを含む幼い声が聞こえた。
「ね、お父さま。いいでしょう?」
スープの香りとソテーされた肉の芳醇な匂いが食欲を忘れていたエルディーテの鼻腔の奥を刺激する。
窓の外は紺碧色、これは家族が揃い夕食をとっている光景だった。
「確かに先ほど見せてくれた刺繍は素晴らしい出来だったよ。お前がディートとした約束についても覚えている」
「なら……」
「駄目だとは言わない。だがエルディーテ。お前は彼の人生を引き受ける覚悟を持っているのかな?」
父は一度ナイフを置き、エルディーテを見た。
「……えっと、どういうことですか?お父様……」
幼少期のエルディーテは不安気に問う。すると父は母を一瞥したのちこう言った。
「私達の言動は、他人の人生を左右させることがある」
その言葉を紡ぐ唇は上品で、いつにもまして父は穏やかな面持ちだったが、その言葉には一抹の仄暗さが孕んでいた。
「お前が専任騎士を望むということは、彼を一生縛ることにもなりかねない。忠誠を誓うとはそういう事だが、ただディートが好きだから傍に置きたいというのであれば私は反対かな。気に入っているというのなら忠誠などなくとも関係は築ける。むしろその方が好ましいんじゃないか」
聞く者が変われば大袈裟だと感じるだろう。
しかし、父は本心からそう感じエルディーテに忠告していることはその瞳からひしひしと感じられる。
だが幼い自分は、まだよく分かっていなかった。
視線を真っすぐ父に向けはっきりと告げる。
「……でもディートは良いって言ってくれました!」
「無理強いはさせてない?」
「そんなことっ……ないと思います……たぶん!大丈夫です!」
自信はないが、意見を押し通したいといった感じである。
「はたしてそうかな」
「うっ……」
「たとえばディアンがお前ものをどうしても欲しいと強請ったらどうする?」
徐に父はディアンへ視線を流す。
「ぼく?」
静かに話を聞いていたディアンが小首を傾げ、姉を見る。するとエルディーテはぎくりとばつが悪そうに唇を窄めた。
話の雲行きが怪しくなり、おねだりが不成功に終わりそうな気配に表情は強張っている。
「それは……譲るかもしれません……でもそれは私が姉だからです」
「彼も同じことだ。子供の頼みを無下には出来ないだろう。正直なところ、お前たちの間に信頼関係があるのか私には分からないから、そこを口出すつもりはないよ。だがエルディーテ、専任騎士として傍に置くということは簡単に言えば彼を守るということだ」
「……私がディートを守る?逆じゃないのですか?」
「お前が守るのは彼の立場だ」
その言葉を噛み砕くように何度も瞬き、そんな娘を更に諭すように父は告げる。
「……私は以前、それで失敗している。人を近くに置くことの意味を甘くみていた。誰かを特別扱いすることは、一歩間違えると嫉妬を生んで一人の人間の人生を変えるんだよ」
オルディスのことだろうか。
「……嫉妬だなんて、うちでそんなことは起きないと思います」
「そうだね。我が家で起きることはないだろう。しかしお前がいずれ成長し、家の外と様々な繋がりを持った時に分かるだろう」
まだ七歳。このときの父の失敗について深く考えれるはずはなかった。
だが今改めて聞いて思い浮かぶのは、父に執着を見せる団長のレニー・レイヴンだ。
彼に目の敵にされたことで、オルディスは帝国騎士団を追放され今に至っている。
「誰かを特別扱いするならば、その影響から彼を守り人生を引き受ける覚悟もまた必要だ。だから感情だけで選んではいけないよ」
まるで教訓を経て紡がれたような言葉だった。
実際、そうなのかもしれない。
「……お父様は特別扱いしたことを後悔されているのですか?」
「あぁ。忘れた日はない……」
幼いエルディーテが問えば父は静かに頷いた。それから部屋の外でオルディスが待機しているであろう扉の方へと視線を移す。
そんな父の憂いをどこまで理解出来ていたかは分からないが、追想することで蘇る記憶に浮かんできた言葉を思い出した。
このあと幼い自分はこう紡ぐのだ。
「――大丈夫です、お父様。ディートは私が守ります。だから許可を下さい」
好きというだけでは駄目で、引き受ける覚悟を問われた夜、父の後悔を知った。
それでもなお、怯むことなくあの頃のエルディーテはオルディスを欲していたのだ。
子供の我儘の延長線上に位置する願いだったが、その瞳には真剣なものがあった。
するとこれまで黙っていた母が唇を開いた。
「……あなた。エルディーテは一度言い出したらきかない子ですよ。刺繍も投げださず完成させました。きっと曲げることはないでしょう」
「……そうだったな」
静かだが芯の通った声に頷く父に、エルディーテは母を見て瞳を輝かせた。
「では……!」
「あぁ、許可しよう。ただし自分が今言ったその言葉を胸に刻んでおきなさい」
「ありがとうございます!」
喜びのあまりエルディーテは側に控えていたマリアを振り返って「やったわ!」とはにかんだ。
「だが任命の前に彼と話がしたい。ディートの意思を私からも確認させてもらうよ」
エルディーテは父の言葉に上機嫌で首を縦に振る。
単なる再確認だと思っていた。
しかし実際はそうではない。
このあと行われるのは贖罪と尋問という相反する行為だったのだ。



