「――立派なものですわ。完成として良いでしょう……」
ローゼの手にはハンカチが一枚。
それを近づけたり離したり、ひとしきり熱心に見つめては吐息を零すと、やがて柔らかな眼差しをエルディーテへと向けた。
胸の前で両手を組み固唾をのんでローゼに見入っていたエルディーテは、彼女の言葉を聞くと肩を上下させ瞳を輝かせる。
喜びに歓喜している、といった様子だった。
「エルディーテ様が刺繍を習い始めたのは確か五歳からでしたね。不揃いな部分はありますが、これだけのものを作れるようになって私は感激いたしました」
ローゼに評価されたハンカチの刺繍は、確かに粗削りながらも完成されていた。オルディスが指定した『女神ペルセポネの剣舞』は、七歳の子供が作るには複雑な構図。それを最後まで縫い上げたのだ。
一般的に六、七歳の子供は簡単なステッチを中心とした花や単純なイニシャルを練習する。個々の技量にもよるが、その練習工程を軽く踏んだとはいえ、最後まで指しきる忍耐があるかどうかは別の話。
だが当時のエルディーテはやり遂げた。
ローゼや母に助言をもらいながら縫い上げたその達成感は一入だったはずだ。
「ローゼ先生のおかげです。図柄全体を捉えるのじゃなく、細部まで分解して考えなさいって教えてくれたから……それに、毎日ひと針でも通せば完成出来るとも仰ってくれたので、ここまで縫えたのです」
そうだった。オルディスの提案に即答したエルディーテだったが、如何にして縫い上げるか絵を改めて見た時に大いに悩んだ記憶が蘇る。
そして身近な大人に相談した結果、ローゼの助言が一番はっとさせられるものがあった。
実際、その通りにしてみると針に迷いはなくなって、あとは毎日時間を見つけては地道に作業したのだ。
「あなたの忍耐力の賜物ですよ……」
ローゼはしみじみと言葉を紡ぐと窓の外を見遣った。
「エルディーテ様は公爵夫妻に似て、粘り強さがありますわ。刺繍は完成されたことですしお二人にも見せて許可を頂かなくてはなりませんね」
「はい!お父様が今夜帰ってくるので、そのつもりです」
幼いエルディーテは溌剌として答えたが、対してローゼは物憂げな視線をオルディスへと向ける。
「――それにしてもディート様。あなたの方は覚悟が出来ているのかしら?エルディーテ様に無茶を言っておきながら、約束を反故になど出来ませんわよ」
それは少し棘のある言い方だった。
「心得ております」
当のオルディスは短く顎を引き、たった一言しか答えない。
その表情も喜怒哀楽が読めず、何を考えているのかは分からなかった。
しかし当時の自分は満面の笑みでローゼに告げる。
「ディートはちゃんと約束を守ってくれるから大丈夫ですよ、先生」
本心からそう思っていたのだ。
彼の心中に気付くことはなく、単純に思い込んでいた。
この人は約束を守る人だと。
するとローゼは扇子を広げて口許を隠し、徐に切り出した。
「……水を差すようで差し出がましい言葉ですけれど」
その声音は普段と変わらぬもので、当時のエルディーテは猫目がちな瞳を瞬き小首を傾げる。
「ディート様のどこが良いのか私には分かりません。専任騎士を引き受ける約束を守ることと、生涯守り抜く覚悟があることは違いますわ。トルマ様やセムセイ様の方が、グラウス家に仕えて長いですし、エルディーテ様に対して親身になってくれる忠実な騎士だと思いませんの?」
基本的にローゼは講義以外の部分に関してエルディーテに意見することがない。そんな彼女がこの時だけはディートを専任騎士とすることに難色を示していた。
はっきりと告げる言葉に、それまで和やかだった部屋の空気が張り詰め、侍女のマリアとセムセイの視線はエルディーテへと集まった。
マリアに至っては戦々恐々といった面持ちである。
しかしローゼの指摘に対し、当のエルディーテは訳が分からないといった顔で問い返す。
「ディートは私と弟を毒の花から守ってくれたんですよ?」
「その話は覚えていますわ。しかしたった一度のこと……他の騎士様も知識があれば同様にしてエルディーテ様を守ったはずです」
ローゼは一度の功績に囚われるなと言いたいのだろう。
けれどその言葉は幼い子供には一切届いていなかった。
「でもあの時、知識を持っていて躊躇なく花を取り上げたのはディートでした。私はそれに運命を感じたのです」
そうだ。”怖い人”という第一印象を受けたほど、オルディスの行動には迷いがなかった。
そこに惚れたのだ。
しかも彼は、行動したあとに自らの行いにどこか怯えていて、だから根が優しい人物なのだと直ぐに分かった。
改めて考えると、この時のオルディスは間者としてグラウス家に入り込んでいるのに、あの時エルディーテを毒の花から救ってくれている。
それはまだ彼が、子供は守るべき存在という倫理を捨てきれていなかったからなのかもしれない。
娼館での会話も、グラウス家の取り潰しに加担する意思はあるようだが、一家全員の命を奪うことにはどこか抵抗がある様子だった。
そんな彼は今なにを感じているのだろう。
「ローゼ先生、心配は無用です。ディートは私の憧れの騎士なのですから」
それまで二人の会話を唇を引き結んだまま静観していたオルディスだったが、彼は僅かに眼を瞠りエルディーテを見ていた。
ローゼの手にはハンカチが一枚。
それを近づけたり離したり、ひとしきり熱心に見つめては吐息を零すと、やがて柔らかな眼差しをエルディーテへと向けた。
胸の前で両手を組み固唾をのんでローゼに見入っていたエルディーテは、彼女の言葉を聞くと肩を上下させ瞳を輝かせる。
喜びに歓喜している、といった様子だった。
「エルディーテ様が刺繍を習い始めたのは確か五歳からでしたね。不揃いな部分はありますが、これだけのものを作れるようになって私は感激いたしました」
ローゼに評価されたハンカチの刺繍は、確かに粗削りながらも完成されていた。オルディスが指定した『女神ペルセポネの剣舞』は、七歳の子供が作るには複雑な構図。それを最後まで縫い上げたのだ。
一般的に六、七歳の子供は簡単なステッチを中心とした花や単純なイニシャルを練習する。個々の技量にもよるが、その練習工程を軽く踏んだとはいえ、最後まで指しきる忍耐があるかどうかは別の話。
だが当時のエルディーテはやり遂げた。
ローゼや母に助言をもらいながら縫い上げたその達成感は一入だったはずだ。
「ローゼ先生のおかげです。図柄全体を捉えるのじゃなく、細部まで分解して考えなさいって教えてくれたから……それに、毎日ひと針でも通せば完成出来るとも仰ってくれたので、ここまで縫えたのです」
そうだった。オルディスの提案に即答したエルディーテだったが、如何にして縫い上げるか絵を改めて見た時に大いに悩んだ記憶が蘇る。
そして身近な大人に相談した結果、ローゼの助言が一番はっとさせられるものがあった。
実際、その通りにしてみると針に迷いはなくなって、あとは毎日時間を見つけては地道に作業したのだ。
「あなたの忍耐力の賜物ですよ……」
ローゼはしみじみと言葉を紡ぐと窓の外を見遣った。
「エルディーテ様は公爵夫妻に似て、粘り強さがありますわ。刺繍は完成されたことですしお二人にも見せて許可を頂かなくてはなりませんね」
「はい!お父様が今夜帰ってくるので、そのつもりです」
幼いエルディーテは溌剌として答えたが、対してローゼは物憂げな視線をオルディスへと向ける。
「――それにしてもディート様。あなたの方は覚悟が出来ているのかしら?エルディーテ様に無茶を言っておきながら、約束を反故になど出来ませんわよ」
それは少し棘のある言い方だった。
「心得ております」
当のオルディスは短く顎を引き、たった一言しか答えない。
その表情も喜怒哀楽が読めず、何を考えているのかは分からなかった。
しかし当時の自分は満面の笑みでローゼに告げる。
「ディートはちゃんと約束を守ってくれるから大丈夫ですよ、先生」
本心からそう思っていたのだ。
彼の心中に気付くことはなく、単純に思い込んでいた。
この人は約束を守る人だと。
するとローゼは扇子を広げて口許を隠し、徐に切り出した。
「……水を差すようで差し出がましい言葉ですけれど」
その声音は普段と変わらぬもので、当時のエルディーテは猫目がちな瞳を瞬き小首を傾げる。
「ディート様のどこが良いのか私には分かりません。専任騎士を引き受ける約束を守ることと、生涯守り抜く覚悟があることは違いますわ。トルマ様やセムセイ様の方が、グラウス家に仕えて長いですし、エルディーテ様に対して親身になってくれる忠実な騎士だと思いませんの?」
基本的にローゼは講義以外の部分に関してエルディーテに意見することがない。そんな彼女がこの時だけはディートを専任騎士とすることに難色を示していた。
はっきりと告げる言葉に、それまで和やかだった部屋の空気が張り詰め、侍女のマリアとセムセイの視線はエルディーテへと集まった。
マリアに至っては戦々恐々といった面持ちである。
しかしローゼの指摘に対し、当のエルディーテは訳が分からないといった顔で問い返す。
「ディートは私と弟を毒の花から守ってくれたんですよ?」
「その話は覚えていますわ。しかしたった一度のこと……他の騎士様も知識があれば同様にしてエルディーテ様を守ったはずです」
ローゼは一度の功績に囚われるなと言いたいのだろう。
けれどその言葉は幼い子供には一切届いていなかった。
「でもあの時、知識を持っていて躊躇なく花を取り上げたのはディートでした。私はそれに運命を感じたのです」
そうだ。”怖い人”という第一印象を受けたほど、オルディスの行動には迷いがなかった。
そこに惚れたのだ。
しかも彼は、行動したあとに自らの行いにどこか怯えていて、だから根が優しい人物なのだと直ぐに分かった。
改めて考えると、この時のオルディスは間者としてグラウス家に入り込んでいるのに、あの時エルディーテを毒の花から救ってくれている。
それはまだ彼が、子供は守るべき存在という倫理を捨てきれていなかったからなのかもしれない。
娼館での会話も、グラウス家の取り潰しに加担する意思はあるようだが、一家全員の命を奪うことにはどこか抵抗がある様子だった。
そんな彼は今なにを感じているのだろう。
「ローゼ先生、心配は無用です。ディートは私の憧れの騎士なのですから」
それまで二人の会話を唇を引き結んだまま静観していたオルディスだったが、彼は僅かに眼を瞠りエルディーテを見ていた。



