妖喰いの悪食花嫁〜喰われるはずの生贄は、百鬼の主と百日の契約結婚を結ぶ〜

 牙が食い込もうとした刹那、視界が大きく歪んだ。

 世界の色が変わる。
 妖の輪郭、その内側を巡る黒い妖気。喉の奥には、赤黒く脈打つ塊がある。

 妖核。

 それが何で、どこにあり、どうすれば奪えるのか。
 棗には、最初から知っていたかのようにはっきりと見えた。
 このまま、誰も自分を惜しまない世界で、何も選べないまま喰われるのか。

「嫌だ……」

 十八年間、一度も口にできなかった言葉が、腹の底から突き上げた。

「死にたくないっ!」

 喰われるくらいなら、喰ってしまえばいい。

 考えるより先に身体が動いた。
 喉へ迫る顎を両手で押し返し、棗は本能のまま妖へ身を投げた。

 妖核が透けて見える喉元へ噛みつく。
 硬い肉を歯が破り、口の中へ生温かな苦味が流れ込んだ。

――グガァァァアア!

 妖が耳を裂くような声を上げる。

 棗は離さなかった。
 黒い妖気が喉を灼き、胸を焼き、全身の血管へ流れ込む。
 吐き出すべき毒のはずなのに、身体の奥へ落ちた途端、澄んだ力へ変わった。

 妖の輪郭が縮んでいく。
 噛みついた場所から、知らない記憶の欠片まで流れ込んだ。夜の山、腐った獣の肉、結界の外から棗を見つめていた幾つもの季節。

 自分はずっと、これに喰われる日を待たれていた。
 そう知っても、棗は歯を離さなかった。
 喰われるはずだった娘に、妖が喰われていく。
 無数の目が恐怖に歪み、黒い身体は霧となって棗の口元へ吸い込まれた。

 やがて断末魔さえ途切れ、室内へ静寂が戻る。

「……はっ……はっ……っ」

 聞こえるのは、自分の荒い息と激しい鼓動だけ。
 爪の先がわずかに鋭く伸びている。口の中には、鉄と焦げた土を混ぜたような味が残った。

 それでも恐怖はなかった。
 胸の奥に、これまで知らなかった熱が灯っている。
 喰われるはずだった自分が、生きるために喰い返した。
 龍のように細くなった瞳で、棗は誰も助けに来なかった暗い部屋を見渡す。

 私は、まだ生きている。