「……父様。母様。十八年間、お世話になりました」
黒い裾を引きずり、棗は屋敷の最奥にある引き渡しの間へ向かう。
室内はひどく冷えていた。灯りは最小限に落とされ、甘く重い香が焚かれている。
棗は一人、部屋の中央へ座らされると、障子が閉まり、足音が遠ざかる。
廊下の向こうから、かすかに祝いの太鼓が聞こえた。杏の誕生日を寿ぐ音だろう。
同じ誕生日を迎えながら、片方は祝い、片方は死を待つ。
棗は膝の上で両手を重ねた。指先は冷えていたが、身体の奥では何かが静かに煮えている。
あとは、ぬらりひょんが迎えに来るのを待つだけ。
どれほど時間が過ぎただろう。
灯りが、不自然に揺れた。
風ではない。
部屋の隅、闇の濃くなった場所から、何かがじわりと滲み出てくる。
人の形を取ろうとして取りきれない、歪な輪郭。ぬめる黒い肌の上で、無数の目がぎょろぎょろと蠢いていた。
百鬼の主ではない。
棗を正式に受け取る者より先に、霊力を横取りしようと強行突破してきた、はぐれ妖。
結界の外で棗を見つめ続けてきた気配の一つ。
棗は動かなかった。
逃げるという発想も、自分を守る術も、藤宮家では教えられていない。
生贄は大人しく喰われるもの。
そう育てられてきた。
妖が、湿った音を立てて迫る。
甘い香の匂いへ、生臭い息が混じった。床へ落ちた涎が、畳を黒く焦がす。
妖の目は棗の顔を見ていない。肉の奥にある霊力だけを見ている。
冷たい牙が喉元へ触れた。
喰われる。
その瞬間、棗は理解した。
障子の向こうには誰もいない。父も母も、女中たちも、この広い屋敷の誰一人として助けには来ない。
正式な相手でなくとも、棗が妖に喰われれば役目を終えたことにされるのかもしれない。
それは今さら悲しむことではないはずだった。
けれど、胸の底から濁った感情がせり上がった。
「っ……どうして私ばかりが、こんな目に遭わなければならないの」
黒い裾を引きずり、棗は屋敷の最奥にある引き渡しの間へ向かう。
室内はひどく冷えていた。灯りは最小限に落とされ、甘く重い香が焚かれている。
棗は一人、部屋の中央へ座らされると、障子が閉まり、足音が遠ざかる。
廊下の向こうから、かすかに祝いの太鼓が聞こえた。杏の誕生日を寿ぐ音だろう。
同じ誕生日を迎えながら、片方は祝い、片方は死を待つ。
棗は膝の上で両手を重ねた。指先は冷えていたが、身体の奥では何かが静かに煮えている。
あとは、ぬらりひょんが迎えに来るのを待つだけ。
どれほど時間が過ぎただろう。
灯りが、不自然に揺れた。
風ではない。
部屋の隅、闇の濃くなった場所から、何かがじわりと滲み出てくる。
人の形を取ろうとして取りきれない、歪な輪郭。ぬめる黒い肌の上で、無数の目がぎょろぎょろと蠢いていた。
百鬼の主ではない。
棗を正式に受け取る者より先に、霊力を横取りしようと強行突破してきた、はぐれ妖。
結界の外で棗を見つめ続けてきた気配の一つ。
棗は動かなかった。
逃げるという発想も、自分を守る術も、藤宮家では教えられていない。
生贄は大人しく喰われるもの。
そう育てられてきた。
妖が、湿った音を立てて迫る。
甘い香の匂いへ、生臭い息が混じった。床へ落ちた涎が、畳を黒く焦がす。
妖の目は棗の顔を見ていない。肉の奥にある霊力だけを見ている。
冷たい牙が喉元へ触れた。
喰われる。
その瞬間、棗は理解した。
障子の向こうには誰もいない。父も母も、女中たちも、この広い屋敷の誰一人として助けには来ない。
正式な相手でなくとも、棗が妖に喰われれば役目を終えたことにされるのかもしれない。
それは今さら悲しむことではないはずだった。
けれど、胸の底から濁った感情がせり上がった。
「っ……どうして私ばかりが、こんな目に遭わなければならないの」



