妖喰いの悪食花嫁〜喰われるはずの生贄は、百鬼の主と百日の契約結婚を結ぶ〜

「……ほたる」

 誰にも聞こえないほど小さく、耳元で囁く。

 蛍の身体が止まった。
 真名を呼んだ瞬間、棗と蛍の間を細い霊力が渡る。

 鎖のような圧迫はない。
 相手を縛るのではなく、互いの居場所を知らせる細い糸のように。
 蛍の驚きと喜びが、契約を通して胸へ触れる。
 同時に、棗の鼓動も彼へ伝わったのだろう。蛍の目が柔らかく細められた。

「今、何と……」
「一度しか呼びません」

 棗は身体を起こす。
 蛍は信じられないものを見るように見上げていた。

「もう一度だけ」
「百日で呼ばせると、自信ありげに仰ったでしょう。もう百日は終わりました」
「では、俺の負けか」
「そうなりますね。賭けは、私の勝ちです」

 その違いを、蛍も理解していた。
 棗の口元が、わずかに緩む。
 蛍はその顔を見て、今度こそ声を立てて笑った。

「はっ!負けで構わない。お前が残るなら。負けるが勝ちだ」
「一つ、条件があります。私を喰べようとした時は、私が先にあなたを喰います」
「まだ俺を食材にするつもりか」
「喰うか喰われるかの契約結婚でしたから」

 蛍が棗の手を取る。

「もう契約は終わった」
「では、夫婦は終わりですか」
「終わらせるものか」

 握る力が強くなる。
 蛍は棗の指先へ口づけた。
 触れ方は、暴走を止めた夜よりもずっと穏やかだった。
 棗はもう、それを霊力を吸うためのものだとは思わなかった。

「今度は、契約なしで俺の妻になれ」

 棗はすぐに答えず、少しだけ焦らす。
 不安を浮かべた蛍へ、もう一度だけ耳を寄せた。
 今度は真名を呼ばない。

「考えておきます」
「棗」

 抗議する声に、棗は小さく笑った。
 十八歳の誕生日は命日にならなかった。
 四十九日目には、姉との因果も、生贄の外法も終わった。