妖喰いの悪食花嫁〜喰われるはずの生贄は、百鬼の主と百日の契約結婚を結ぶ〜

 棗の容態が落ち着いてから、穏やかな幾日かが静かに流れていった。

 あの夜以来、蛍はただの一度も「真名を呼べ」とは口にしない。
 棗もまた、あの日彼が身を削って自分を救った理由について、何も尋ねようとはしなかった。
 けれど、屋敷を吹き抜ける風の冷たさも、庭の木々の梢が鳴らす音も、以前とは少し違って、どこか優しく感じられた。

 そして、ついに約束の百日目の夜。
 蛍はいつものように、棗の静かな部屋を訪れた。
 以前と同じように戸を叩き、返事を待つ。

「入ってもいいか」
「どうぞ」

 行灯の橙色の灯りの下、二人は向かい合って座った。

「今日で百日だな」

 蛍が静かに切り出す。
 棗は膝の上へ手を重ね、続きを待つ。

「約束どおり、この婚姻契約は今夜で満了する」

 胸の内側が、わずかに冷える。
 自由になれることを待っていたはずなのに、部屋の景色が急に他人のものへ戻った気がした。
 明日の朝には、向かいの席へ座らなくてもいい。戸を叩く音を待たなくてもいい。

 そう考えると、息がしづらかった。
 最初から決まっていたことだ。
 真名を呼ばなければ、百日で自由になる。
 これこそ棗が望んだ結末。