妖は納得していない顔をした。それでも、それ以上は責めなかった。
夜、蛍の瞼がわずかに動いた。
「……棗」
「目を覚まされましたか」
「ここにいたのか」
蛍の声が聞こえただけで、張りつめていた肩から力が抜けた。
「棗」
「ここにいます」
「逃げる好機だっただろう」
「百日はまだ終わっていません」
棗が答えると、蛍はかすかに笑った。
「律儀だな」
「契約ですから」
本当は、それだけではない。
この蛍が自分のために傷ついたまま、置いてはいけなかった。
けれど、言葉へする方法が分からない。
棗は椀へ水を注ぎ、蛍の背を支えた。
「飲めますか」
「ああ」
唇へ椀を寄せる。
水を飲み終えた蛍が、棗の顔を見上げた。
「名は呼ばなくていい。もう、お前へ迫るつもりはない。暴走の時に呼ばせようとしたことも、すまなかった」
「謝るのですか」
「俺が悪かったからな」
棗の手が止まる。
百鬼の主が、あまりにも簡単に認めた。
藤宮家では、誰も棗へ謝らなかった。
必要な犠牲だと決めつけ、棗が苦しむことさえ正しいとされた。
「……あなたは、不思議な妖ですね」
「そう言うお前は、妖より分からん人間だ」
蛍はまた眠りへ落ちた。
棗は水の椀を置き、彼の額へ触れる。
呼ぼうと思えば、名はすぐそこにある。
教えられた日から、一度も忘れたことはない。
唇が動きかける。
眠る彼へなら、聞かれずに呼べる。
けれど、それは逃げだと思った。
彼が目を開け、自分を見ている時に選ばなければ意味がない。
棗は慌てて口を閉じた。
まだ呼べない。
助けてもらった礼として呼ぶのでは、真名の契約が新たな代価になる。
自分が本当に望んだ時でなければならない。
夜、蛍の瞼がわずかに動いた。
「……棗」
「目を覚まされましたか」
「ここにいたのか」
蛍の声が聞こえただけで、張りつめていた肩から力が抜けた。
「棗」
「ここにいます」
「逃げる好機だっただろう」
「百日はまだ終わっていません」
棗が答えると、蛍はかすかに笑った。
「律儀だな」
「契約ですから」
本当は、それだけではない。
この蛍が自分のために傷ついたまま、置いてはいけなかった。
けれど、言葉へする方法が分からない。
棗は椀へ水を注ぎ、蛍の背を支えた。
「飲めますか」
「ああ」
唇へ椀を寄せる。
水を飲み終えた蛍が、棗の顔を見上げた。
「名は呼ばなくていい。もう、お前へ迫るつもりはない。暴走の時に呼ばせようとしたことも、すまなかった」
「謝るのですか」
「俺が悪かったからな」
棗の手が止まる。
百鬼の主が、あまりにも簡単に認めた。
藤宮家では、誰も棗へ謝らなかった。
必要な犠牲だと決めつけ、棗が苦しむことさえ正しいとされた。
「……あなたは、不思議な妖ですね」
「そう言うお前は、妖より分からん人間だ」
蛍はまた眠りへ落ちた。
棗は水の椀を置き、彼の額へ触れる。
呼ぼうと思えば、名はすぐそこにある。
教えられた日から、一度も忘れたことはない。
唇が動きかける。
眠る彼へなら、聞かれずに呼べる。
けれど、それは逃げだと思った。
彼が目を開け、自分を見ている時に選ばなければ意味がない。
棗は慌てて口を閉じた。
まだ呼べない。
助けてもらった礼として呼ぶのでは、真名の契約が新たな代価になる。
自分が本当に望んだ時でなければならない。



