「……呼びません」
それでも答えは変えない。
選ばれたことへ縋れば、捨てられた時に耐えられなくなる。
真名を呼ぶことは、感謝の印ではない。
棗が最後まで守ると決めた、自分の意思だった。
「実家へ戻らないことと、あなたのものになることは別です」
「俺のものではないと?」
目がわずかに見開かれ、声がわずかに低くなる。
棗は怖じずに頷いた。
「百日間の契約妻です。その後は……あなたが私を喰おうとするなら、私が喰い返して終わりです」
「ああ……そうだったな」
答えながらも、蛍の口元から笑みが消えた。
これまでなら、棗の拒絶を面白がったはずだ。
今は、ほんの少し傷ついたように見えた。
その日の夕餉で、棗はいつもより箸が進まなかった。
「私の力で姉様が愛されていたのなら、私は何だったのでしょう」
棗の問いへ、蛍はすぐに答えなかった。
「お前の価値は、誰かへ力を渡した量では決まらない」
「あなたは、私の力が欲しくて連れてきたのでしょう」
「最初はな。だが、今のお前を力だけとは思っていない」
信じたい言葉ほど、怖い。
その夜、棗の部屋の前で戸を叩く音がした。
「入ってもいいか」
いつもと同じ問いに、棗はしばらく迷い、返す。
「どうぞ」
「返すのを忘れた」
手には、杏の姿絵が。
「燃やせばよいのでは」
「随分と容赦がないな」
「必要ないのでしょう」
「そうだな」
蛍は行灯の火へ姿絵をかざした。紙の端から炎が走り、微笑む杏の顔が黒く縮れていく。
棗はその光景を見ても、胸が晴れるとは思わなかった。
ただ、自分の代わりとして差し出される誰かを、もう見なくて済むのだと感じた。
棗は真名を呼ばない。
それでも、自分で戸を開くことだけはできるようになっていた。
それでも答えは変えない。
選ばれたことへ縋れば、捨てられた時に耐えられなくなる。
真名を呼ぶことは、感謝の印ではない。
棗が最後まで守ると決めた、自分の意思だった。
「実家へ戻らないことと、あなたのものになることは別です」
「俺のものではないと?」
目がわずかに見開かれ、声がわずかに低くなる。
棗は怖じずに頷いた。
「百日間の契約妻です。その後は……あなたが私を喰おうとするなら、私が喰い返して終わりです」
「ああ……そうだったな」
答えながらも、蛍の口元から笑みが消えた。
これまでなら、棗の拒絶を面白がったはずだ。
今は、ほんの少し傷ついたように見えた。
その日の夕餉で、棗はいつもより箸が進まなかった。
「私の力で姉様が愛されていたのなら、私は何だったのでしょう」
棗の問いへ、蛍はすぐに答えなかった。
「お前の価値は、誰かへ力を渡した量では決まらない」
「あなたは、私の力が欲しくて連れてきたのでしょう」
「最初はな。だが、今のお前を力だけとは思っていない」
信じたい言葉ほど、怖い。
その夜、棗の部屋の前で戸を叩く音がした。
「入ってもいいか」
いつもと同じ問いに、棗はしばらく迷い、返す。
「どうぞ」
「返すのを忘れた」
手には、杏の姿絵が。
「燃やせばよいのでは」
「随分と容赦がないな」
「必要ないのでしょう」
「そうだな」
蛍は行灯の火へ姿絵をかざした。紙の端から炎が走り、微笑む杏の顔が黒く縮れていく。
棗はその光景を見ても、胸が晴れるとは思わなかった。
ただ、自分の代わりとして差し出される誰かを、もう見なくて済むのだと感じた。
棗は真名を呼ばない。
それでも、自分で戸を開くことだけはできるようになっていた。



