蛍は棗の向かいへ座った。
「皆の前で妻として扱っている。それでも不満か」
「形だけの呼び名でしょう。あなたが私の霊力のみを必要としている事実は変わりません」
「……お前は、本当に誰にも懐かないな」
「いつか喰うかもしれない相手へ、懐く必要がありますか」
命を助けられても、妻として遇されても、棗は心を許さない。
蛍が何を与えても、棗の中では捕食の準備へ置き換わってしまう。
最初はその頑なさを面白がっていたはずの蛍が、今夜は笑うまでに少し間を置いた。
「百日は長い。明日も試すとしよう」
「何度来ても同じです」
「戸を叩けば入れてはくれるのだろう」
返事に詰まる棗を見て、蛍はようやく笑った。
戸を閉めた後も、棗はしばらく櫛を取れなかった。
名を呼ぶつもりはない。
それでも、明日の朝も向かいの席に彼がいることを、ほんの少しだけ当然のこととして考え始めていた。
そう思ってしまった自分が怖くて、棗は布団へ入ってからも長く眠れなかった。
翌朝、膳には前日と同じ焼き魚が並んでいた。
「気に入ったのだろう」
「太らせる献立を固定したのですか」
「違うと言っている」
呆れながらも、棗が魚へ箸を伸ばすまで食事を始めなかった。
その日から、棗の好んだものが少しずつ膳へ増えた。甘さを抑えた卵焼き。柔らかく煮た大根。香りのよいほうじ茶。
棗は理由を尋ねない。蛍も説明しない。
けれど、棗が一口多く食べるたび、向かいの目元がわずかに和らぐことには気づいていた。
「皆の前で妻として扱っている。それでも不満か」
「形だけの呼び名でしょう。あなたが私の霊力のみを必要としている事実は変わりません」
「……お前は、本当に誰にも懐かないな」
「いつか喰うかもしれない相手へ、懐く必要がありますか」
命を助けられても、妻として遇されても、棗は心を許さない。
蛍が何を与えても、棗の中では捕食の準備へ置き換わってしまう。
最初はその頑なさを面白がっていたはずの蛍が、今夜は笑うまでに少し間を置いた。
「百日は長い。明日も試すとしよう」
「何度来ても同じです」
「戸を叩けば入れてはくれるのだろう」
返事に詰まる棗を見て、蛍はようやく笑った。
戸を閉めた後も、棗はしばらく櫛を取れなかった。
名を呼ぶつもりはない。
それでも、明日の朝も向かいの席に彼がいることを、ほんの少しだけ当然のこととして考え始めていた。
そう思ってしまった自分が怖くて、棗は布団へ入ってからも長く眠れなかった。
翌朝、膳には前日と同じ焼き魚が並んでいた。
「気に入ったのだろう」
「太らせる献立を固定したのですか」
「違うと言っている」
呆れながらも、棗が魚へ箸を伸ばすまで食事を始めなかった。
その日から、棗の好んだものが少しずつ膳へ増えた。甘さを抑えた卵焼き。柔らかく煮た大根。香りのよいほうじ茶。
棗は理由を尋ねない。蛍も説明しない。
けれど、棗が一口多く食べるたび、向かいの目元がわずかに和らぐことには気づいていた。



