「すみれ」
暁臣様が自然な所作で椅子を引いてくださる。
私は小さく頭を下げ、教わった通りに腰を下ろした。
座面の端に浅く、けれど浅すぎない位置。膝を揃え、足先は揃え、背もたれには預けない。
『いすはふかくすわらない』——昨夜、自分の字で書いたひらがなが頭に浮かぶ。
背筋は伸ばす。視線は落とさない。指先まで意識する。
藤波様の声が、心の中で何度も復唱される。
正面には、すでに千鶴様が。
先ほどと変わらぬ凛とした微笑みを湛え、優雅な手つきで紅茶のカップを手にしていらっしゃる。
「すみれ様、でしたわね。……ふふ。こうしてお茶をご一緒できること、光栄に存じますわ」
「……はい。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
声音は真綿のように柔らかく、礼儀も一点の曇りもない。
けれど、私を見つめる視線の奥底には、好奇心とも、値踏みともつかない冷ややかさが潜んでいる気がした。
応える声が、自分でも驚くほど硬い。
喉が乾き、舌が上顎に張り付く。
視線を落としたくて仕方がないのに、ここで俯けば『やはり無華は場に相応しくない』と、自分自身が証明してしまう気がして、無理に瞳を上げた。
震えそうになる指先を、誰にも悟られないよう膝の上でそっと押さえつける。
ここで崩れたら、暁臣様の隣にいる資格がなくなる——そんな脅迫みたいな思い込みが、喉の奥を締めた。
侍女が音もなく背後に立ち、透き通った琥珀色の紅茶を注ぐ。
注がれる角度さえ優雅で、湯気の立ち上り方まで美しい。
カップの縁に沿って液面が静かに揺れ、光を受けて薄い金色の輪が浮かぶ。
湯気とともに立ちのぼる香りは高貴で、ほんのわずか、花の匂いが混じっていた。
「この茶葉、暁お兄様がお好きだったものでしょう?千鶴が選びましたの」
「……ああ。よく覚えていたな」
「当然ですわ。暁お兄様のことでしたら、千鶴はなんでも覚えておりますもの」
何気ない一言が、胸の奥をちくりと刺す。
『覚えている』と言う言葉が、私の知らない暁臣様を積み重ねた年輪みたいに聞こえて、たまらなく眩しい。
『暁お兄様』。
その呼び方を聞くたび、抜けない棘が増えるみたいに痛かった。
彼女と彼の間には、私には踏み込めない数多の記憶が積もっている。
私はそこに、後から紛れ込んだだけの——居候みたいな存在なのではないか。
いくら暁臣様が『妃にする』と断言してくださっても、世界のほうが『違う』と言い張るなら、私には何ができる?
思考が悪い方へ滑り始めるのを必死に止める。ここで自分の心に溺れたら、また倒れてしまう。
暁臣様が自然な所作で椅子を引いてくださる。
私は小さく頭を下げ、教わった通りに腰を下ろした。
座面の端に浅く、けれど浅すぎない位置。膝を揃え、足先は揃え、背もたれには預けない。
『いすはふかくすわらない』——昨夜、自分の字で書いたひらがなが頭に浮かぶ。
背筋は伸ばす。視線は落とさない。指先まで意識する。
藤波様の声が、心の中で何度も復唱される。
正面には、すでに千鶴様が。
先ほどと変わらぬ凛とした微笑みを湛え、優雅な手つきで紅茶のカップを手にしていらっしゃる。
「すみれ様、でしたわね。……ふふ。こうしてお茶をご一緒できること、光栄に存じますわ」
「……はい。本日はお招きいただき、ありがとうございます」
声音は真綿のように柔らかく、礼儀も一点の曇りもない。
けれど、私を見つめる視線の奥底には、好奇心とも、値踏みともつかない冷ややかさが潜んでいる気がした。
応える声が、自分でも驚くほど硬い。
喉が乾き、舌が上顎に張り付く。
視線を落としたくて仕方がないのに、ここで俯けば『やはり無華は場に相応しくない』と、自分自身が証明してしまう気がして、無理に瞳を上げた。
震えそうになる指先を、誰にも悟られないよう膝の上でそっと押さえつける。
ここで崩れたら、暁臣様の隣にいる資格がなくなる——そんな脅迫みたいな思い込みが、喉の奥を締めた。
侍女が音もなく背後に立ち、透き通った琥珀色の紅茶を注ぐ。
注がれる角度さえ優雅で、湯気の立ち上り方まで美しい。
カップの縁に沿って液面が静かに揺れ、光を受けて薄い金色の輪が浮かぶ。
湯気とともに立ちのぼる香りは高貴で、ほんのわずか、花の匂いが混じっていた。
「この茶葉、暁お兄様がお好きだったものでしょう?千鶴が選びましたの」
「……ああ。よく覚えていたな」
「当然ですわ。暁お兄様のことでしたら、千鶴はなんでも覚えておりますもの」
何気ない一言が、胸の奥をちくりと刺す。
『覚えている』と言う言葉が、私の知らない暁臣様を積み重ねた年輪みたいに聞こえて、たまらなく眩しい。
『暁お兄様』。
その呼び方を聞くたび、抜けない棘が増えるみたいに痛かった。
彼女と彼の間には、私には踏み込めない数多の記憶が積もっている。
私はそこに、後から紛れ込んだだけの——居候みたいな存在なのではないか。
いくら暁臣様が『妃にする』と断言してくださっても、世界のほうが『違う』と言い張るなら、私には何ができる?
思考が悪い方へ滑り始めるのを必死に止める。ここで自分の心に溺れたら、また倒れてしまう。



