ログアウトできない恋

 昼休みの教室は、いつもより少しだけ明るく感じた。
 理由は分かっている。

 窓から入る光でも、周りの笑い声でもない。

 ポケットの中のスマホ。

 そこにある、小さなやり取り。

 ――「今日も夜、いるよ」

 たったそれだけのメッセージなのに、胸の奥がじんわり温かくなる。

 私はそっと画面を閉じて、小さく息を吐いた。

(……楽しみだな)

 そんなふうに思っている自分に、少し驚く。

 前までは、昼休みなんてただの空白の時間だったのに。

 今は、“夜までの時間”になっている。

 それだけで、少しだけ世界が違って見えた。

 ふと顔を上げると、クラスの誰かと目が合いそうになって、すぐに逸らす。

 やっぱり、ここは変わらない。

 でも――

(大丈夫)

 そう思える。

 あの場所があるから。

 あの人がいるから。

 そのとき、

「朝比奈さん」

 不意に名前を呼ばれて、肩が小さく揺れた。

 振り向くと、紗奈が立っていた。

「これ、先生に持ってってって」

 プリントを差し出される。

「あ……うん」

 受け取る手が、少しだけぎこちない。

「ついでに私も行くから、一緒にいい?」

「……うん」

 断る理由もなくて、私は頷いた。

 廊下を並んで歩く。
 それだけのことなのに、少しだけ緊張する。

 会話が途切れたまま、数歩進んだところで――

「朝比奈さんってさ」

 紗奈が口を開いた。

「最近、ちょっと雰囲気違うよね」

 思わず足が止まりそうになる。

「……え」

「なんか、前より元気そうっていうか」

 軽い口調。

 でも、しっかり見られていたことに驚く。

「……そうかな」

「うん。なんかさ、前より暗くない」

 悪気はなさそうだった。

 ただ、事実をそのまま言っているだけ。

 それでも少しだけ胸に引っかかる。

 でも――

(変わった、のかな)

 自分でも、少しだけ思う。

 理由は、分かっている。

 言葉にするかどうか、少し迷う。

 でも――

 誰かに話したい、という気持ちが、ふと浮かんだ。

「……あの」

 気づいたら、声が出ていた。

 紗奈がこちらを見る。

「最近、ちょっと……話す人がいて」

 自分でも驚くくらい、素直な言葉だった。

「へー」

 紗奈は少しだけ目を丸くする。

「クラスの人?」

「ううん……」

 首を振る。

「ネットで、知り合った人で」

 一瞬、空気がほんの少しだけ変わった気がした。

 でも紗奈はすぐに、

「へえ、そうなんだ」

 と、興味ありげに笑う。

「どんな人?」

 その問いに、少しだけ言葉を探す。

「……優しい人」

 自然に出てきたのは、その一言だった。

「よく話聞いてくれて……」

 少しずつ、言葉が増えていく。

「ゲーム、一緒にやったりして」

「通話もしてて……」

 話しているうちに、胸の奥が少しだけ熱くなる。

 思い出すだけで、安心する。

 気づけば、少しだけ笑っていた。

 その表情を見て、紗奈がくすっと笑う。

「それさ」

 軽く言う。

「もう好きなんじゃない?」

 一瞬、時間が止まった。

「……え」

 頭が真っ白になる。

 好き。

 その言葉が、ゆっくりと染み込んでくる。

 考えたことがなかったわけじゃない。

 でも、誰かに言われると、急に現実味を帯びる。

「……違う、と思う」

 とっさに否定する。

 でも声が少し揺れているのが分かる。

「いやいや、絶対そうでしょ」

 紗奈は笑いながら言う。

「だって今、めっちゃ顔変わったよ」

「……」

 何も言えない。

 否定しきれない。

 そのとき、

「でもさ」

 紗奈の声が、少しだけトーンを変えた。

 軽さはあるけど、どこか現実的な響き。

「それ、恋っていうかさ」

 一拍、間があって――

「ただの“ネットの依存”じゃない?」

 言葉が、静かに落ちた。

 胸の奥に、重く響く。

「……依存?」

 自分の声が、少し遠く感じる。

「だってさ」

 紗奈は肩をすくめる。

「顔も知らないんでしょ?」

「本名も分かんないし」

「会ったこともないのにさ」

 一つ一つの言葉が、じわじわと刺さる。

 何も言い返せない。

 全部、事実だった。

「それってさ」

 紗奈は続ける。

「“その人が好き”っていうより」

「“優しくしてくれる存在”に依存してるだけじゃない?」

 心のどこかが、音を立てて揺れた。

 違う、と言いたいのに。

 うまく言葉が出てこない。

 頭の中で、ユウトの声が浮かぶ。

 あの優しさ。

 あの時間。

 それが全部、ただの“依存”だなんて――

「……違うよ」

 気づいたら、口にしていた。

 小さいけど、はっきりとした声。

 紗奈が少し驚いたようにこちらを見る。

「え?」

「違う……」

 少しだけ強くなる。

「ちゃんと、話してるし」

「私のこと、分かってくれるし」

 胸の奥から、言葉があふれる。

 こんなふうに誰かに感情をぶつけたのは、初めてだった。

 自分でも少し驚く。

 でも、止められない。

「……それに」

 続けようとして、言葉が詰まる。

 うまく言えない。

 でも――

 大事なものを守ろうとしている感覚だけは、はっきりしていた。

 紗奈は一瞬だけ黙ってから、

「いや、別に否定してるわけじゃないよ」

 少しトーンを落として言う。

「たださ、そういうの危ないって話」

「相手のこと、何も分かんないじゃん」

 その言葉に、胸がちくりと痛む。

「その人、本当に高校生なの?」

 さらっと付け足される一言。

 その瞬間、ほんのわずかに違和感がよぎる。

 でも――

「……大丈夫だよ」

 そう言うしかなかった。

 そう信じたかった。

 紗奈は少しだけ困ったように笑って、

「まあ、朝比奈さんがいいならいいけど」

 それ以上は何も言わなかった。

 職員室の前に着いて、プリントを渡す。

 それだけで会話は終わった。

 教室に戻る途中も、頭の中はさっきの言葉でいっぱいだった。
(依存……)

 その単語が、何度も繰り返される。

(違うよね)

 自分に言い聞かせる。

(これは、ちゃんと――)

 でも、言葉が続かない。

 “何”なのか、うまく言えない。

 席に戻って、そっとスマホを見る。

 ユウトの名前。

 それだけで、少しだけ安心するはずなのに。

 さっきとは違う感覚が混ざる。

(……本物だよね)

 問いかけるように、画面を見つめる。

 返事は、もちろん返ってこない。

 それでも――

 私は、決めていた。

(今日も、行く)

 あの場所に。

 あの人のところに。

 確かめるみたいに。

 この気持ちが、本物だって。

 証明するみたいに。

 胸の奥に、小さな不安を抱えたまま――

 それでも私は、夜を待っていた。