ログアウトできない恋

 黒板に書かれた文字を、ただ目で追っていた。
 意味はほとんど頭に入ってこない。チョークの音だけがやけに大きく響いて、教室の空気が少しだけ遠く感じる。

 窓際の席。夕方にはきっときれいに光が差し込むその場所も、昼間の今はただ白く明るいだけだった。

「じゃあ、このあとグループでまとめてください」

 先生の声で、教室の空気が一気に動く。

 椅子が引かれる音。誰かの笑い声。教科書をめくる音。

 みんな、迷いなく誰かのもとへ向かっていく。

 私は――動けなかった。

 一瞬だけ立ち上がりかけて、やめる。

 行く場所が分からない。

 誰のところに行けばいいのか、分からない。

 視線を上げるのが怖くて、ノートを見たまま固まる。

「あれ、朝比奈さんってどこ入るの?」

 誰かの声が、軽く飛んできた。

 悪意はないのかもしれない。でも、その軽さが逆に刺さる。

「さあ? ていうか、喋ったとこ見たことなくない?」

「たしかに。何考えてるか分かんないよね」

 小さな笑い声。

 誰も止めない。

 誰も「やめなよ」とは言わない。

 その空気ごと、私を避けていく。

 胸の奥が、ぎゅっと締まった。

(やっぱり)

 知っていたはずなのに、改めて突きつけられると苦しい。

(私、いらないんだ)

 その言葉が、静かに落ちていく。

 音もなく、でも確実に、心の底まで沈んでいく。

 結局、私はどのグループにも入らないまま、適当に空いた席に座った。

 誰とも目を合わせずに、ただ時間が過ぎるのを待つ。

 黒板の文字よりも、周りの笑い声のほうが、ずっと遠く感じた。

 家に帰る頃には、もう何も考えたくなかった。
 靴を脱いで、部屋に入って、カバンを床に置く。

 制服のまま、ベッドに腰を下ろす。

 そのまま動けなくなる。

 スマホを手に取る。

 通知は、何もない。

 分かっていたのに、少しだけ期待してしまった自分が恥ずかしかった。

 画面を閉じる。

 静かすぎる部屋。

 自分の呼吸の音だけが、やけに大きく感じる。

 指先が、少しだけ震えていた。

(……やだな)

 理由は分かっている。

 でも、どうしようもない。

 このまま何もしなかったら、たぶんもっと沈んでいく。

 だから――

 私はゆっくりと立ち上がって、机の前に座った。

 パソコンの電源を入れる。

 画面が光る。

 その光だけが、少しだけ現実を薄くしてくれる気がした。

 マウスを握る手は、ほとんど無意識だった。

 ゲームを起動する。

 ログイン画面。

 見慣れたBGM。

(あそこなら)

 小さく息を吸う。

(あそこなら、誰かいる)

 そして――

(あそこなら、私でも大丈夫)

 ロビーに入ると、すぐに見慣れた名前が目に入った。
 ――ユウト

 胸が、ほんの少しだけ軽くなる。

 気づいたら、通話ボタンを押していた。

 数秒の呼び出し音。

 それが妙に長く感じて、少しだけ不安になる。

 でも、

『……もしもし』

 落ち着いた、低めの声。

 それだけで、空気が変わる。

『遅かったね』

 責めるわけでもなく、でも待っていたような言い方。

 その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。

「……ごめん」

 小さく返す。

『いいよ。来たし』

 軽い声。

 それだけなのに、なぜか安心する。

 少しだけ、呼吸が楽になる。

 でも、言葉が続かない。

 何を話せばいいのか分からなくて、沈黙が落ちる。

 それでもユウトは、急かさなかった。

 ただ静かに、同じ場所にいる。

 その距離感が、心地いい。

 やがて、私はぎこちなく口を開いた。

「……ちょっと、学校で……」

 自分でも分かるくらい、声が弱い。

『うん』

 短い相槌。

 それ以上は何も言わない。

 待っている。

 それが分かる。

「……別に、大したことじゃないけど」

 ごまかすように笑う。

 でも――

『大したことじゃないなら、そんな声にならないでしょ』

 その一言で、言葉が止まった。

 胸の奥を、まっすぐ触れられた気がした。

 何も言えなくなる。

 少しだけ、息が詰まる。

『……無理に元気なフリしなくていいよ』

 静かな声。

『ここ、そういう場所じゃないから』

 その言葉が、ゆっくりと染み込んでくる。

 否定されない。

 押し付けられない。

 ただ、許されている。

 それだけで――

 少しだけ、壊れそうになる。

「……私」

 言葉が途切れる。

 でも、止まらない。

「……やっぱり、変なのかな」

 ぽつりと落ちる声。

「……みんなみたいに、できなくて」

 視界が少しだけ滲む。

 画面がぼやける。

 こんなこと、誰にも言ったことがなかった。

 言っても、意味がないと思っていたから。

 でも今は、止められなかった。

 少しの沈黙のあと――

『変じゃないよ』

 すぐに返ってきた。

 迷いのない声。

『ただ、無理して合わせてないだけでしょ』

 その言葉に、息が止まる。

 そんな風に言われたのは、初めてだった。

 ずっと「できない側」だと思っていた。

 でも、違う見方をされた。

 それだけで、世界が少しだけ変わる。

 胸の奥が、じわっと熱くなる。

『……俺は』

 少しだけ間があって、

『今の凛のほうが好きだけど』

 さらっと、軽く言う。

 特別なことみたいに言わない。

 だからこそ、余計に刺さる。

 心臓が、小さく跳ねた。

 何も言えなくなる。

 でも、不思議と苦しくない。

 さっきまでの重さが、少しずつほどけていく。

 呼吸が、楽になる。

(なんで)

 こんなに、分かるんだろう。

(顔も知らないのに)

 声だけなのに。

 名前だって、本当か分からないのに。

 それでも――

 今この瞬間、確かに隣にいる気がした。

「……ありがとう」

 やっとの思いで言う。

『どういたしまして』

 変わらないトーン。

 でも、少しだけ柔らかい。

 しばらく、静かな時間が流れる。

 ゲームの音だけが、二人をつないでいる。

 それが、心地いい。

『……また、明日も来る?』

 何気ない一言。

 でも、どこか確かめるような響き。

 少しだけ間があって、

「……うん」

 自然に答えていた。

 迷いはなかった。

 それが、自分でも少しだけ不思議だった。

 通話が終わったあとも、部屋の空気はさっきとは違っていた。
 同じ部屋のはずなのに、少しだけ軽い。

 ベッドに倒れ込む。

 天井を見上げる。

 さっきまでの重さが、嘘みたいに薄れていた。

(ここがあれば)

 静かに思う。

(大丈夫かもしれない)

 学校では、何も変わらない。

 明日もきっと、同じように孤独だ。

 でも――

(この人がいれば)

 胸の奥に、小さな灯りがともる。

(私は、一人じゃない)

 そう思えた。

 たとえそれが、画面の向こうでも。

 たとえそれが、本当じゃなくても。

 今この瞬間だけは、確かに救われていた。

 そして私はまだ知らない。

 この優しさの中に、嘘が混ざっていることも。

 それでも――

 この夜は、確かにあたたかかった。