ログアウトできない恋

 黒板を叩くチョークの音が、やけに耳についた。
 キィ、と引っかくような音。

 その瞬間、凛の頭の中で、まったく別の音が重なる。

 ――ゲームの通知音。

 短くて、軽い、あの音。

 凛ははっとして、顔を上げた。

 教室だった。

 いつもの教室。いつもの席。いつもの風景。

 先生が何かを説明している。周りの生徒がノートを取っている。誰かが小さく笑っている。

 現実。

 でも――

(……違う)

 どこか、遠い。

 体だけがここにあって、意識は別の場所に引っ張られているみたいだった。

 ノートの上の文字は、自分で書いているはずなのに、意味を持たないまま並んでいく。

 頭に入ってこない。

 ただ、時間が流れていくだけ。

(……今、何してるんだろ)

 ふと、思う。

 ユウトのこと。

 この時間、何をしているんだろう。

 学校? 違う学校? それとも――

 そこまで考えて、止まる。

(……知らない)

 何も。

 顔も、年も、どこにいるのかも。

 何も知らない。

 それなのに。

(……なんで)

 こんなに気になるんだろう。

 シャーペンを持つ手が止まる。

 小さく息を吐いた。

 前の席の男子が振り返って、後ろの子に話しかけている。

「さっきの問題さー」

「え、どれ?」

 軽い会話。

 笑い声。

 その輪の外に、自分がいる。

 いつも通り。

 でも今日は、少しだけ違った。

 そこに入りたい、とは思わない。

 ただ――

(早く夜になればいいのに)

 その考えが、自然に浮かんだ。

 自分でも驚くくらい、迷いなく。

 チャイムが鳴る。

 授業が終わる。

 ざわめきが戻る。

 凛はゆっくりと教科書を閉じた。

 そのとき、ポケットの中のスマホの存在を、強く意識した。

 電源は切っている。

 でも、そこに“繋がり”がある気がして。

 意味もなく、触れたくなる。

(……帰りたい)

 それだけが、はっきりしていた。

     *

 家に帰ると、すぐに部屋へ向かった。

 ドアを閉める。

 静かになる。

 それだけで、少し楽になる。

 ベッドに座って、スマホを取り出す。

 電源を入れる。

 画面がつくまでの数秒が、やけに長く感じた。

 通知は、ない。

「……」

 わかっていたのに、少しだけ落ちる。

 スマホを置いて、立ち上がる。

 机に向かう。

 教科書を開く。

 数分後。

 気づけば、またスマホを手に取っていた。

 画面を確認する。

 何もない。

 閉じる。

 置く。

 また数分後。

 同じことを繰り返す。

「……何やってんの」

 小さく呟く。

 自分でも、おかしいと思う。

 こんなに気にするなんて。

 たった数日話しただけの相手なのに。

 顔も知らないのに。

(……なのに)

 胸の奥が、落ち着かない。

 何かが足りないみたいに。

 ベッドに倒れ込む。

 天井を見上げる。

 時間だけが過ぎていく。

 そのとき。

 ――ピコン。

 通知音。

 反射的に体を起こす。

 スマホを掴む。

 画面を開く。

『今できる?』

 ユウト。

 一瞬で、胸が軽くなる。

 さっきまでのざわざわが、嘘みたいに消えていく。

「……うん」

 小さく呟きながら、すぐに返信する。

『できる』

 すぐに既読がつく。

『遅れてごめん』

 その一言に、少しだけ引っかかる。

「……?」

 でも、すぐに流される。

『ちょっと用事あってさ』

 用事。

 何の?

 聞こうと思って――やめた。

 聞く必要なんて、ない気がして。

『通話いける?』

「……うん」

 タップする。

 呼び出し音。

 すぐに繋がる。

『聞こえる?』

 あの声。

 少し低くて、落ち着いた声。

 それを聞いた瞬間、肩の力が抜けた。

「……うん」

『よかった』

 それだけで、安心する。

 本当に、不思議なくらい。

     *

 ゲームが始まる。

 画面の中の世界。

 現実とは違う場所。

 でも――こっちの方が、ちゃんと“居場所”がある。

『右、来るよ』

 ユウトの声。

 その通りに敵が現れる。

 凛はすぐに対応する。

「……ほんとだ」

『だろ』

 少し笑った声。

 それが、嬉しい。

 戦いながら、会話が続く。

「今の見た?」

『見てた。ナイス』

「やった」

 自然に言葉が出る。

 学校では、こんなふうに話せないのに。

 ここでは、普通に話せる。

 笑える。

『ちょっと下がって』

「うん」

 言われた通りに動く。

 カバーが入る。

 守られている感覚。

 でも同時に、自分もちゃんと役に立っている。

 ミッション成功。

 画面に表示される文字。

「……できた」

『いいじゃん』

 短い言葉。

 でも、それで十分だった。

     *

 ゲームが終わっても、通話は続いていた。

 少しの沈黙。

 でも、嫌じゃない。

 凛は、ぽつりと呟いた。

「……顔も知らないのにさ」

『うん?』

「こんなに楽しいの、変じゃない?」

 言ってから、少しだけ恥ずかしくなる。

 でも、止められなかった。

 ユウトは、少し間を置いてから答えた。

『関係ないだろ、顔とか』

 あっさりと。

 迷いなく。

 凛は少しだけ驚く。

『凛は凛じゃん』

 その言葉。

 胸の奥に、まっすぐ落ちてくる。

「……」

 何か言おうとして、言葉が出ない。

 嬉しい。

 でも――

 どこか、引っかかる。

 その距離の近さに。

 何も知らないはずなのに、全部わかってるみたいな言い方に。

 凛は、少し迷ってから言った。

「……小さい頃さ」

『うん』

「よく遊んでた人がいて」

 ふと、出てきた言葉。

 なんとなく。

 でも、話したくなった。

 一瞬。

 ほんの一瞬だけ。

 ユウトの向こうで、沈黙が落ちた。

 ほんのわずかな間。

 でも、はっきりとわかる。

『へえ』

 それだけ。

 あまりにも、軽い返事。

 興味がないみたいな。

 でも――

「……どんな人だったの?」

 次の言葉は、少しだけ違っていた。

 確認するような、慎重な聞き方。

 凛は、少しだけ戸惑う。

「優しくて……」

 言いかけて、止まる。

 うまく説明できない。

「……よく覚えてないけど」

『そっか』

 それ以上は、聞いてこなかった。

 会話は、自然に別の話題に流れていく。

 でも――

 どこかに、小さな違和感が残る。

     *

『また明日もやろ』

 通話の終わり際。

 ユウトが言う。

「……うん」

 迷わず答える。

『凛と話すの、楽しい』

 その一言。

 胸が、じんわりと温かくなる。

「……私も」

 小さく返す。

 通話が切れる。

 静かな部屋に戻る。

 でも、さっきまでの静けさとは違う。

 寂しくない。

 むしろ、少し満たされている。

 ベッドに横になる。

 スマホを胸の上に置く。

 目を閉じる。

(……顔も知らないのに)

 それなのに。

(どうしてこんなに、安心するんだろう)

 考える。

 でも、答えは出ない。

 ただひとつだけ、確かなことがある。

 この時間は、本物だった。

 少なくとも、自分にとっては。

 凛は、ゆっくりと息を吐いた。

 暗い部屋。

 スマホの光が、かすかに残る。

 その中で、凛は思う。

(……知らないはずなのに)

 胸の奥に、微かな引っかかりを残したまま。

(知ってる気がする)

 その感覚だけが、消えなかった。