ログアウトできない恋

 朝の教室は、いつも同じ音で満たされている。
 椅子が引かれる音。笑い声。誰かのスマホから漏れる短い動画の音。黒板を叩くチョークの乾いた音。

 そのすべてが、凛には遠かった。

 窓際の席。鞄を机の横にかけて、静かに座る。目の前の机は、ただの板みたいに無機質で、そこに自分がいる理由すら曖昧に感じる。

「おはよー」

 隣の席の女子が誰かに声をかける。凛の方ではない。

 わかっている。最初から、誰も自分に話しかけるつもりなんてない。

 それでも、少しだけ――ほんの少しだけ、期待してしまう自分がいる。

 視線を落とす。

 スマホは机の中。電源は切ってある。学校では使わないと決めているから。

 ――でも。

 昨夜のことを思い出す。

『凛、昨日ありがとな』

 ユウトの声。低くて、落ち着いていて、耳の奥に残る。

『また夜、時間あったらやろうぜ』

 その一言だけで、胸の奥があたたかくなった。

 現実じゃないはずなのに。

 ここよりも、ずっと“ちゃんとした場所”に感じる。

 凛は小さく息を吐いた。

(……今、何してるんだろ)

 そんなことを考えてしまう。

 授業の開始を告げるチャイムが鳴る。

 先生が入ってきて、教室の空気が少しだけ引き締まる。

「じゃあ、教科書開いて」

 ページをめくる音が一斉に広がる。

 凛も同じように動く。

 でも――文字は頭に入ってこない。

 ただ目で追っているだけ。

 耳に入る言葉も、意味を持たないまま流れていく。

 ふと、前の席の男子が振り返る。

「これ、どこ?」

 後ろの子に聞いている。

 笑いながら答えが返る。

 軽い会話。自然なやりとり。

 その輪の外側に、自分がいる。

 透明みたいに。

(……話せばいいだけなのに)

 頭ではわかっている。

 でも、声が出ない。

 喉が、固まる。

 何か言おうとすると、言葉が崩れる気がする。

 だから最初から、何も言わない。

 それが一番、安全だから。

 ――キーンコーンカーンコーン。

 授業が終わる。

 周りはすぐにざわめきに戻る。

「ねえ、さっきのさー」
「マジで?ウケるんだけど」

 笑い声。

 凛は教科書を静かに閉じた。

 そのとき、ポケットの中のスマホが、かすかに震えた気がした。

 反射的に、心臓が跳ねる。

(……気のせい?)

 確認したい。

 でも、できない。

 ここでは。

 凛は手を止めたまま、じっと机を見つめる。

 数秒。

 それだけで、やけに長く感じた。

(早く……帰りたい)

 その言葉が、頭の中に浮かぶ。

 学校にいたい理由は、どこにもなかった。

     *

 放課後。

 寄り道もしないで、まっすぐ帰る。

 鍵を開けて、家に入る。

「ただいま」

 返事はない。

 いつものこと。

 靴を脱いで、自分の部屋に向かう。

 ドアを閉めた瞬間、ようやく肩の力が抜けた。

「……はあ」

 ベッドに倒れ込む。

 天井が視界いっぱいに広がる。

 静かだ。

 学校の音とは、まるで違う静けさ。

 ポケットからスマホを取り出す。

 画面をつける。

 ――通知、1件。

 心臓が、一気に速くなる。

 指が少し震える。

 開く。

『今日、何時くらいならできる?』

 ユウト。

 たった一行。

 それだけで、息が止まりそうになる。

 胸の奥が、じわっと熱くなる。

 さっきまでの重さが、少しずつ消えていく。

 凛は体を起こした。

 指が自然に動く。

『何時でも大丈夫』

 送信。

 数秒後。

『じゃあ、飯のあとやろう』

 早い。

 ちゃんと、そこにいる。

 画面の向こうに。

「……うん」

 誰にも聞こえない声で、呟いた。

 それだけで、少し笑ってしまう。

 学校では、一度も笑わなかったのに。

     *

 夜。

 イヤホンをつける。

 ゲームを起動する。

 ログイン音が鳴る。

 画面が切り替わる。

 ハンドルネーム――“Rin”。

 それが、自分の名前になる。

 現実の凛とは、少し違う自分。

 言葉が少なくてもいい。

 うまく話せなくてもいい。

 ここでは、動きで伝わる。

 役に立てる。

 誰かと並べる。

 通知。

 ユウトからの招待。

 タップする。

 通話が繋がる。

『聞こえる?』

 あの声。

 少しだけ、緊張が戻る。

「……うん」

 小さく答える。

 でも、ちゃんと届く。

『よかった』

 それだけで、安心する。

 不思議なくらい。

 ゲームが始まる。

 敵が現れる。

 操作する。

 攻撃。回避。支援。

『ナイス、今の』

 褒められる。

 胸が、少しだけ高鳴る。

 学校では、そんなこと一度もなかった。

『ちょっと危ないな、こっち来て』

 自然に指示が飛ぶ。

 それに従う。

 守られている感覚。

 でも同時に、ちゃんと戦っている実感。

 隣にいる。

 同じ場所にいるみたいに。

 時間が、あっという間に過ぎていく。

 ミッション成功。

 画面に表示されるクリアの文字。

「……できた」

 思わず、声が漏れる。

『でしょ』

 少し笑った声。

 それが、嬉しい。

 本当に。

     *

 ゲームが終わっても、通話は切れなかった。

 少しの沈黙。

 でも、気まずくない。

 学校の沈黙とは、まるで違う。

『凛ってさ』

 ユウトが、ふと話す。

「……なに?」

『学校だと、あんま喋んないタイプ?』

 心臓が、跳ねた。

 少しだけ、息が詰まる。

「……うん」

 正直に答える。

 隠す理由が、見つからなかった。

『やっぱりな』

「……わかる?」

『なんとなく』

 少し間があく。

 でも、その沈黙は優しい。

『でもさ』

 ユウトが続ける。

『今、ちゃんと話してるじゃん』

 その一言に、凛は言葉を失った。

「……」

『別に、変じゃないよ』

 さらっと言う。

 軽く。

 でも、その言葉は、重かった。

 胸の奥に、まっすぐ届く。

「……学校だと」

 気づけば、話していた。

「うまく……できない」

 言葉を選びながら。

 ゆっくり。

「何言えばいいかわかんなくて……」

 止まらなくなる。

 でも、怖くない。

 遮られないから。

 否定されないから。

『そっか』

 ユウトは、それだけ言った。

 でも、その“そっか”は、ちゃんと聞いてくれている音だった。

『じゃあさ』

 少しだけ、声のトーンが変わる。

『ここでは、話せてるってことじゃん』

「……うん」

『なら、それでいいんじゃね』

 シンプルな言葉。

 でも、凛にはそれが救いみたいに感じた。

『無理して変えなくていいよ』

 優しい声。

 静かに、包むみたいに。

 凛は、目を閉じた。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

(……なんで)

 こんなに安心するんだろう。

 現実じゃないのに。

 顔も知らないのに。

 でも――

 ここでは、ちゃんと“自分”でいられる。

     *

 通話が終わる。

『またな』

「……うん」

 通話終了。

 静かな部屋に戻る。

 でも、さっきまでの静けさとは違う。

 寂しさが、少し薄い。

 スマホの画面を見つめる。

 そこには、確かに繋がりがあった。

 凛はベッドに横になる。

 イヤホンはそのまま。

 目を閉じる。

 学校の自分。

 ここでの自分。

 まるで別人みたいなのに、どっちも自分で。

(……どっちが、本当なんだろ)

 わからない。

 でも――

 少なくとも、ひとつだけはわかる。

 ここでは、声が出る。

 ここでは、誰かといられる。

 小さく、呟く。

「……楽しかった」

 誰にも聞こえない声。

 でも、それは確かに本音だった。

 スマホの光が、暗い部屋を少しだけ照らす。

 凛はその光を見つめながら、ゆっくりと目を閉じた。

 ――ふたつの世界。

 どちらも、本物みたいで。

 どちらも、少しだけ怖かった。