ログアウトできない恋

 教室のざわめきが、少し遠くに聞こえた。
 笑い声。机を引く音。誰かが名前を呼ぶ声。

 その全部が、自分とは関係のないものみたいに感じる。

 凛は頬杖をついたまま、ぼんやりと黒板を見ていた。

 先生の声は聞こえているのに、内容は頭に入ってこない。

 代わりに浮かぶのは、昨夜のことだった。

『聞こえる?』

 あの声。

 少し低くて、落ち着いていて。

 それだけで、不思議と安心できた。

 ——ユウト。

 名前を思い浮かべただけで、胸の奥が少しだけ軽くなる。

 チャイムが鳴った。

 一斉に立ち上がる音。

 周りが動き出す中、凛は少し遅れて立ち上がる。

 誰とも目を合わせないまま、教室を出た。

 廊下を歩きながら、ポケットの中のスマホに触れる。

 無意識だった。

 画面は暗いまま。

 通知は、ない。

「……だよね」

 小さく呟いて、手を離す。

 でも数秒後、また触れてしまう。

 何も来ていないと分かっているのに。

 それでも、確認してしまう。

 ——また、話したい。

 その気持ちだけが、静かに積もっていく。

 帰り道。
 イヤホンから流れる音楽も、今日はあまり耳に残らなかった。

 すれ違う人たちの会話が、少しだけ気になる。

 笑っている声。

 楽しそうな空気。

 でも、そこに自分が入るイメージは浮かばない。

 ふと、昨日の通話を思い出す。

 あのときは——

 言葉が、ちゃんと出ていた。

「……なんで」

 ぽつりと零れる。

 あの人とは、話せたのに。

 どうしてここでは、同じようにできないんだろう。

 夜。
 部屋の明かりは控えめで、外はもう静かだった。

 机に向かってノートを開く。

 シャーペンを持つ。

 けれど、数分も経たないうちに手が止まる。

 問題文を読んでも、頭に入らない。

 代わりに、意識はずっとスマホの方に向いていた。

 机の端に置かれたそれを、何度もちらりと見る。

 通知は、まだ来ない。

「……集中、しなきゃ」

 小さく言ってみる。

 でも、続かない。

 結局、シャーペンを置いて、椅子の背もたれに体を預けた。

 そして数秒後には、スマホを手に取っている。

 画面をつける。

 何もない。

 分かっていたのに、少しだけ落ちる。

 そのままベッドに移動して、仰向けに寝転がる。

 天井を見上げながら、イヤホンを耳に入れる。

 音楽が流れる。

 でも、さっきと同じで、あまり入ってこない。

「……また話したい」

 口に出してしまってから、少しだけ驚く。

 こんなふうに思うこと自体が、珍しかったから。

 誰かと、話したいなんて。

 そのとき。

 スマホが、わずかに震えた。

 凛の体がびくりと反応する。

 すぐに画面を見る。

 表示された名前に、息が止まりそうになる。

 ——ユウト。

『起きてる?』

 たった一行。

 それだけなのに、胸が強く鳴る。

 指が少し震えた。

 でも迷うことなく、すぐに打ち込む。

『うん』

 送信。

 数秒が、やけに長く感じる。

『よかった』

 すぐに返ってきたその言葉に、ほっと息が漏れた。

 通話のボタンを押す。
 コール音が鳴る。

 一回、二回。

 繋がるまでの時間が、やけに緊張する。

 そして。

『もしもし』

 声が、届いた。

「……もしもし」

 凛の声は、少しだけ小さかった。

 でも、昨日ほど震えてはいない。

 少しの沈黙。

 けれど、その沈黙は不思議と苦しくなかった。

『今日どうだった?』

 ユウトが、自然な声で聞く。

 凛は少しだけ言葉に詰まる。

「……普通」

 いつもの答え。

 それ以上でも、それ以下でもない。

 それで終わるはずだった。

 でも。

『そっか』

 ユウトは、それ以上追わなかった。

『無理に話さなくていいけどさ』

『なんかあったら、聞くよ』

 その言葉に、凛は少しだけ目を見開いた。

 押しつけてこない。

 無理に引き出そうともしない。

 ただ、そこにいるだけ。

 それが、妙に安心できた。

 沈黙が落ちる。

 でも、嫌じゃない。

 切られる気配もない。

 逃げなくてもいい空気。

 凛は小さく息を吸った。

「……ちょっとだけ、疲れた」

 ぽつりと零れる。

 ほんの少しの本音。

『そっか。お疲れ』

 ユウトはすぐにそう返した。

 それだけ。

 それ以上、何も言わない。

 でも、その一言で、胸の奥が少し軽くなる。

 凛は目を閉じた。

 言っても、大丈夫だった。

 そう思えた。

「……あの」

 自分から言葉が続く。

 珍しいことだった。

「話すの、苦手で」

「何言えばいいか、分かんなくて」

 言いながら、少し怖くなる。

 でも止められない。

「変に思われるの、嫌で」

 気づけば、言葉が零れていた。

 あ、と心の中で焦る。

 言いすぎたかもしれない。

 嫌われるかもしれない。

 そう思った、その瞬間。

『それ、わかる』

 ユウトの声が、すぐに重なった。

 凛は息を止める。

『無理して話すの、しんどいよな』

 その言葉に、胸の奥が強く揺れた。

 否定されない。

 笑われない。

 ちゃんと、分かってくれる。

 それがこんなにも、安心するなんて。

「……うん」

 小さく頷く。

 喉が少し熱い。

 気づけば、次の言葉も出ていた。

「……一人のほうが、楽って思ってた」

 それは、ずっと抱えていた本音だった。

 誰にも言ったことのない。

 でも。

『それも、わかる』

 ユウトは迷いなくそう言った。

 その瞬間、何かがほどけた気がした。

 凛は何も言えなくなる。

 ただ、胸の奥がじんわりと温かくなる。

 同時に、少しだけ違和感もあった。

 ——なんで、こんなに分かるの?

『昔からそうだった?』

 ふいに、ユウトが聞く。

 その言葉に、凛ははっとする。

「……なんで?」

 思わず聞き返す。

 少しだけ、警戒が混じる。

『なんとなく』

 ユウトは軽く答えた。

 それ以上は踏み込まない。

 でも、その一言だけでは、完全には消えない違和感。

 どこかで、自分のことを知っているような。

 そんな感覚。

 けれど。

 それ以上に、安心の方が大きかった。

 会話は続く。

 さっきまでの重さが、少しずつ薄れていく。

 他愛ない話。

 小さな笑い。

 気づけば、凛の言葉は自然に出ていた。

「……なんか、話せる」

 ぽつりと呟く。

『でしょ』

 ユウトは軽く笑う。

 そのやり取りが、心地いい。

 沈黙すら、怖くない。

 こんな感覚、初めてだった。

『もうこんな時間か』
 ユウトの声に、時計を見る。

 思っていたより遅い時間だった。

『そろそろ寝る?』

 そう言われて、少しだけ迷う。

 終わってほしくない。

 そんな気持ちが、はっきりとあった。

「……もうちょっとだけ」

 気づけば、そう言っていた。

 一瞬の間。

 でもすぐに。

『いいよ』

 優しく返ってくる。

 その一言で、胸が温かくなる。

 少しだけ、笑った。

『凛、ちゃんと話せてるじゃん』

 不意に言われる。

 凛は少し驚く。

「……そうかな」

『うん』

 迷いのない肯定。

 それだけで、十分だった。

 凛は目を閉じる。

 イヤホン越しに聞こえる声。

 静かな夜。

 暗い部屋。

 でも、ひとりじゃない。

 そんな感覚。

 初めてだった。

 ——ちゃんと話しても、怖くない。

 ——否定されない。

 それが、こんなにも楽だなんて。

 気づいたときには。

 もう。

 戻れなくなっていた。