ログアウトできない恋

 部屋の明かりは、机の上のスタンドだけだった。
 白い光が、ノートとペンと、それから置きっぱなしのスマホを照らしている。
 凛は、ペンを持ったまま止まっていた。

 問題文は簡単なはずなのに、頭に入ってこない。

 ――ちら。

 気づけば、またスマホを見ている。

「……来てない、か」

 画面は静かだった。
 通知は何もない。

 ユウトからのメッセージも。

 小さく息を吐いて、椅子の背にもたれかかる。

 昨日、あんなに話したのに。
 あんなに――楽しかったのに。

 たったそれだけのことなのに、今日は少しだけ世界が違って見えている。

 ……でも。

「……また話したい」

 ぽつりと漏れた言葉は、やけに素直だった。

 そのまま視線を落とし、スマホを握る。

 迷う時間は、ほとんどなかった。

 親指が、慣れた動きでアプリを開く。

 ログイン音が、静かな部屋に小さく響いた。

 見慣れた画面。
 自分のハンドルネーム。
 現実とは違う、もうひとつの居場所。

 凛の肩の力が、少しだけ抜ける。

「……ここなら」

 誰も、自分のことを知らない。
 誰も、あの教室のことを持ち込まない。

 それだけで、十分だった。

 凛はいつものように、野良パーティに参加するボタンを押す。

 数秒の待機。

 そして、画面にメンバー一覧が表示された。

 ――その瞬間。

 凛の指が止まった。

「……え?」

 名前の並びの中に。

 見覚えのある文字列があった。

 Yuto

 たったそれだけ。

 でも。

 胸が、どくんと鳴る。

「……まさか」

 偶然?
 それとも――

 確かめる前に、カウントダウンが始まった。

 ゲームは、もう始まる。

 戦闘が始まる。
 いつものように動こうとして、少しだけ操作が遅れる。

 視線が、どうしてもその名前に引き寄せられるから。

 でも――

「っ……!」

 敵の攻撃を避けきれず、体力が一気に削れる。

 まずい。

 そう思った瞬間だった。

 視界に飛び込んできたのは、素早いサポート。

 的確なカバー。

 自分の前に立つようにして、ダメージを受ける動き。

 ――あ。

 この動き。

 知ってる。

 昨日と、同じ。

 心臓が、少し強く鳴る。

 そして、チャットが表示される。

『大丈夫?』

 短い一言。

 でも。

 その言い方が。

「……ユウト?」

 思わず、小さく呟いた。

 返事はない。

 ただ、動きはずっと凛を守るように続いている。

 攻撃のタイミングも。
 距離の取り方も。
 引く判断も。

 全部、ぴったり合う。

 言葉がなくても、分かる。

 ――同じだ。

 安心が、胸の奥に広がる。

 でも同時に、少しだけ、ぞわっとする感覚もあった。

 どうして。

 ここまで分かるの。

 戦闘はそのままスムーズに進んだ。
 凛が迷う前に、先回りするような動き。

 ピンチになると、必ず助けが入る。

 気づけば、さっきまでの緊張は消えていた。

「……すごい」

 思わず、声が漏れる。

 現実ではうまくできないことも、ここではちゃんとできている。

 ――一緒に、戦ってる。

 その実感が、じんわりと温かい。

 ミッションは、問題なくクリアされた。

 リザルト画面。

 少しだけの沈黙。

 凛は、画面を見つめたまま、迷っていた。

 聞いていいのか。

 違ったらどうするのか。

 でも。

 指は、もう動いていた。

 チャットを開く。
 数秒、入力欄を見つめる。

 そして――

「……ユウト?」

 送信。

 すぐには返事は来ない。

 数秒。

 体感では、もっと長い時間。

 やがて、表示された文字。

『バレた?』

 その一言で、確信に変わる。

「……やっぱり」

 胸が、少し軽くなる。

 同時に、少しだけ熱くなる。

 偶然じゃなかった。

 本当に、ユウトだった。

『偶然同じパーティで笑った』
「……私も」

 自然に返せた言葉に、自分でも少し驚く。

 こんなふうに、普通に話せる相手なんていなかったから。

 少しだけ沈黙。

 でも、それは気まずいものじゃなかった。

 むしろ、落ち着く。

 凛は、ふと気になっていたことを口にした。

「でも……なんで、わかったの?」

 少しの間。

 そして、返ってきたのは――

『プレイ見ればわかるよ』

「……え」

 そんなものなのか。

 でも。

 昨日、あれだけ少ししか一緒にやっていないのに。

 そこまで分かるもの?

 疑問が浮かぶ。

 けれど。

 次の言葉で、それはさらに強くなる。

『前より動きよくなってる』

 凛の指が止まる。

「……そう、かな」

 そんなに、変わっただろうか。

 むしろ、今日が特別うまくいっただけな気がする。

 なのに。

 どうしてそんなふうに言えるのか。

 少しだけ、違和感。

 でも――

 不思議と、嫌ではなかった。

『もう一回やる?』
 その一言で、考えは途切れる。

「……うん」

 迷いはなかった。

 再びマッチング。
 今度は、最初から二人。

 自然な流れで、通話が繋がる。

 イヤホン越しに聞こえる声。

『聞こえる?』

 少し低くて、落ち着いた声。

「……うん」

『よかった』

 それだけ。

 それだけなのに。

 胸が、少しだけ締めつけられる。

 安心する。

 本当に。

 おかしいくらいに。

 ゲームが始まる。
 さっきよりも、動きが軽い。

 緊張はあるのに、怖くない。

『さっき危なかったな』

「……助けてくれたから」

『当たり前』

 即答だった。

 迷いのない言葉。

 それが、やけに心に残る。

『凛、無理しすぎ』
 一瞬、思考が止まる。

「……え」

 名前。

 自然に呼ばれた。

 昨日も呼ばれていたはずなのに。

 今は、やけに近く感じる。

 距離が、一気に縮まったみたいで。

「……そう、かな」

『そう』

 短い。

 でも、優しい。

 戦闘は順調に進む。
 途中、凛が操作をミスする。

 敵の攻撃に巻き込まれ、大きく体力を削られる。

「っ……ごめん」

 反射的に謝る。

 現実の癖。

 でも。

『わざとじゃないでしょ』

 すぐに返ってきた言葉は、想像と違っていた。

 責めるでもなく。

 ただ、当たり前みたいに庇う。

 そのまま、自然にフォローが入る。

 そして――

『凛、そういうとこ変わらないね』

 その一言で。

 凛の思考が、止まった。

「……え?」

 変わらない?

 何が?

 どういう意味?

 聞こうとする。

 でも。

 言葉が出ない。

 だって。

 そんなこと。

 知ってるはずがない。

 自分のことを。

 そんなふうに。

 ゲームは、そのままクリアした。
 会話は続いているのに、どこか上の空だった。

 安心と、不安。

 両方が混ざって、うまく整理できない。

 終了後。
 少しだけ静かな時間。

『またやろ』

「……うん」

 それだけは、すぐに答えられた。

 離れたくない。

 それだけは、はっきりしている。

 そして。
 最後に。

『凛とやると落ち着く』

 その言葉に。

 胸の奥が、じんわりと温かくなる。

 苦しいくらいに。

 でも。

 同時に――

 小さな違和感が、消えない。

 通話が切れる。
 部屋はまた、静かになる。

 スタンドの光。

 スマホの画面。

 イヤホン越しの余韻。

 凛は、ベッドに倒れ込む。

 天井を見上げる。

 さっきの言葉が、頭の中で何度も繰り返される。

「この人は優しい」

 それは、間違いない。

 でも。

「どうして……」

 小さく呟く。

「どうして、私のことそんなに知ってるの」

 答えはない。

 ただ、胸の奥に残るのは。

 安心と。

 少しの怖さ。

 それでも。

 スマホを握る手は、離せなかった。

 暗い部屋の中で。
 画面の光だけが、静かに揺れている。

 現実よりも、あの場所の方が。

 ずっと、優しい。

「近づくほど、わからなくなる」
 それでもきっと。
 また、会いにいく。