ログアウトできない恋

 教室の空気は、いつも少しだけ重たい。
 夕方になると、それはもっとはっきりする。

 誰かの笑い声、椅子の引きずる音、スマホの通知音。
 それら全部が、遠くの出来事みたいに聞こえる。

 窓際の席。
 朝比奈凛は、そこから動かない。

 制服のブレザーの袖を少しだけ引き、指先を隠す。
 白い肌が目立つのが、少し苦手だった。

 黒髪は肩に触れるくらいで、少しだけ内側に丸まっている。
 前髪が目にかかるのも、そのままにしていた。

 ――顔を見られないほうが、楽だから。

 イヤホンを片方だけつける。
 音は流れていない。

 ただ、「話しかけないでほしい」というサイン。

 それでも、誰も近づいてはこない。

 それが、少しだけ寂しい。

 少しだけ。

「ねえ、凛ってさ」

 突然、後ろから声がした。

 肩が、びくっと小さく揺れる。

 振り向くと、クラスの女子が三人。
 名前は分かる。でも、呼んだことはない。

「いつも一人だよね」

 笑っているようで、笑っていない顔。

 凛は、視線を少し下に落とした。

「……別に」

「いや、別にっていうかさ」

「友達いないの?」

 その言葉は、思っていたよりも静かに刺さった。

 痛い、というより、冷たい。

 ゆっくり広がる感じ。

「……いるよ」

 小さく返す。

 本当は、いない。

 でも、否定する勇気もなかった。

「え、誰?」

 すぐに返ってくる。

 逃げ場がなくなる。

 頭の中が白くなる。

「……」

「ほら、やっぱりいないじゃん」

 くすっと笑う声。

「てかさ、なんでそんな暗いの?」

「話しかけづらいんだけど」

「イヤホンとかさ、感じ悪くない?」

 一つひとつの言葉が、重なる。

 逃げたい。

 でも、足が動かない。

「……ごめん」

 気づいたら、そう言っていた。

 謝る理由なんて、ないのに。

「いや、別に謝んなくていいけど」

「ねー」

「まあ、関わらないほうが楽だよね」

 そのまま、三人は笑いながら離れていく。

 取り残された空気だけが残る。

 凛は、しばらく動けなかった。

 イヤホンを、両耳につける。

 今度はちゃんと音楽を流す。

 静かなピアノの音。

 優しい声。

 『ただ声だけが残る夜』

 いつもの曲。

 少しだけ、呼吸が整う。

 胸の奥のざわつきが、ゆっくり静まっていく。

 ――大丈夫。

 そう言い聞かせる。

 誰に言われたわけでもないのに。

 帰り道。
 空はオレンジ色に染まっている。

 夕方の光は好きだ。

 世界が少しだけ優しく見えるから。

 でも、それは一瞬だけ。

 すぐに暗くなる。

 凛はイヤホンをつけたまま歩く。

 人の声を遮るため。

 自分の中にこもるため。

 横を通り過ぎる人たち。

 笑いながら話す高校生。
 楽しそうなグループ。

 その中に、自分が入ることはない。

 入れる気もしない。

「……なんでだろ」

 小さく呟く。

 誰にも届かない声。

 昔は、少し違った気がする。

 小学生の頃は、もっと普通に話していた。

 中学に入って、少しずつズレていった。

 気づいたら、今の位置にいた。

 戻り方は、もう分からない。

 家に着く。
 玄関は静かだ。

「ただいま」

 返事はない。

 いつものこと。

 靴を揃えて、部屋に入る。

 ベッドに座ると、力が抜ける。

 制服のまま、しばらく動けない。

 スマホを取り出す。

 通知は、何もない。

 LINEも、SNSも。

 当たり前。

 分かっている。

 それでも、毎日確認してしまう。

 何かが来ているかもしれない、って。

 来るわけないのに。

 画面を閉じる。

 また開く。

 同じことの繰り返し。

「……ばかみたい」

 苦笑する。

 でも、やめられない。

 しばらくして、ベッドに横になる。
 イヤホンをつける。

 同じ曲を流す。

 『ただ声だけが残る夜』

 目を閉じると、少しだけ安心する。

 この曲の中だけは、一人じゃない気がする。

 声が、近い。

 誰かが隣にいるみたいに。

「……こんなの」

 分かってる。

 ただの音なのに。

 それでも、救われている。

 スマホを、もう一度手に取る。
 なんとなく、SNSを開く。

 タイムラインが流れる。

 誰かの日常。
 誰かの楽しそうな写真。

 全部、自分とは関係ない。

 指が止まる。

 「投稿する」のボタン。

 少しだけ、迷う。

 何か書こうか。

 でも、何を書けばいいか分からない。

 言葉が浮かばない。

 誰かに見られるのも怖い。

 でも。

 ――誰かに、気づいてほしい。

 その気持ちだけが、残る。

 ゆっくりと、文字を打つ。

『誰か、話しませんか』

 たったそれだけ。

 送信ボタンの上で、指が止まる。

 怖い。

 無視されるかもしれない。

 変な人が来るかもしれない。

 後悔するかもしれない。

 それでも。

 このまま何も変わらないほうが、もっと怖い。

 小さく息を吸う。

 そして――

 送信。

 画面に、自分の投稿が表示される。
 それだけ。

 何も起こらない。

 分かっていたこと。

 でも、少しだけ期待してしまう。

 数秒。

 数十秒。

 何も変わらない。

「……やっぱり」

 そう呟いた、そのとき。

 スマホが、震えた。

 通知。

 凛の心臓も、一緒に跳ねる。

 恐る恐る、画面を見る。

 見知らぬ名前。

 見知らぬアカウント。

 でも。

 そこには、確かに表示されていた。

『いいよ、話そ』

 一行だけのメッセージ。

 たったそれだけなのに。

 胸の奥が、強く揺れる。

 息が、少しだけ速くなる。

 どうしよう。

 返すべき?

 無視する?

 怖い。

 でも。

 ――嬉しい。

 その感情が、勝つ。

 指が、ゆっくり動く。

『ほんとに?』

 送信。

 すぐに既読がつく。

 間を置かず、返信が来る。

『うん。今、暇だし』

 軽い言葉。

 でも、それがちょうどよかった。

 重くない。

 怖くない。

「……よかった」

 思わず、声が漏れる。

 誰もいない部屋で。

 凛は、少しだけ笑った。

 画面の向こう。
 名前も知らない、誰か。

 それでも。

 今、この瞬間。

 その存在は、確かにここにある。

 イヤホンの音楽が流れる中で。

 凛は、ゆっくりと文字を打つ。

 現実では言えなかった言葉を。

 少しだけ、素直に。

 ――もしかしたら。

 この出会いが。

 何かを変えるかもしれない。

 そんな予感だけが、静かに灯っていた。