癒術師見習いと氷の君

 夢なんじゃなかろうか。
 頭の中を、記憶を、巡り、呼び起こす。

『今度、花屋に行こうと思うんだけど、それに同行してくれないかな?』

 間違いじゃない。勘違いでもない。
 確実に、そう言っていた。

「うぅぅぅぅぅにゃぁぁぁぁあああ…!」

 布団の上で、腕も足も全身をもばたつかせて悶えるエマ。
 普段は嫌いな、皺が寄ることも、埃が立つことも、今は何一つ考えられない。

 バタバタ。ガタンガタン。

 ガツン!

「っ~~~~~!」

 挙句、足の小指を棚にぶつける始末。

「ンナッ」

 患部を押さえて丸まってようやく落ち着いた主人に、ラピアは呆れたように溜め息を吐いた。

「ラピアさん……」

 無垢な丸い瞳で見上げるラピアには、どうしてエマがそのような痴態を繰り広げているのかいまいち分かっていない。
 ラピアは埃っぽい場所が苦手な為、エマが大図書館へ行く時にははいつも、独り家でゆっくり休んでいるからだ。
 落ち込んでいるようには見えない。
 けれども喜んでいるというわけでもなさそう。

「――ンナッ」

 ま、放っておけばいいか。
 そんな風に短く鳴いて、ラピアはまた丸まった。

「薄情者です……」

「ンナ~……」

 早くも眠そうな声音へと変わっているラピアに、エマは溜め息一つ。
 その豊かな毛並みをひと撫でして、雨の降る窓の外へと目をやった。
 湿気なんて殆どなかった夕刻から一変、大粒という程でもないが、絶え間なくよく降っている。
 今夜は少し冷えそうだ。

「……ラピアさん」

「ンナ」

 窓の外に目をやったままで話しかけるエマに、ラピアも声だけで答える。

「私、どうしたら良いのでしょうか……」

「ンナ?」

「二人きりになるのだって、まだそんなに慣れてないんです……それなのに……」

 エルンと一緒にいる時間は楽しいし、嬉しい。
 でも、いざ誘われてしまった今、どう応えたものか、何をしたものか、いつも通りで良いのか、そもそもいつも通りでさえいられるのか、先のことが何も想像出来なくて、何が何やら分からなくなってしまった。
 自分からエルンを何かに誘うなんてことは出来ない。
 仕事から帰還した日に大図書館で会うのだって、『そうしよう』とどちらが言い出したわけでもなく、自然とそうなってしまった、一種のちょっとした習慣のようなものなのだから。
 予定立てて何かをするなんて、初めてのことだ。

「エルンさんは、どうして私を……」

 家系的に知り合いは多いことだろう。その中に、花屋や庭師が含まれていないとも考えにくい。
 何なら身内の中にさえ、それに明るい者だっているかも分からない。
 お金を掛ければ、新しく雇ったり、持って来させることだって出来るだろう。

「ほんと、どうして……」

 エマ自身、その道に多少の覚えがある自覚はもっている。
 かと言って、自分がその役目に選ばれる予想なんて、したこともなかった。

「うぅ……一緒にお出掛けなんて、できる自信ありませんよぉ、ラピアさん……」

「すぅ……すぅ……」

 それを投げかける相手は早くも、夢の中へと旅立ってしまっている。
 息遣いからそれを察して、視線は未だ窓の外。
 誰に届くでもない弱音は、そのまま空気に溶けるだけ。

「はぁ……」

 そうしてまた、熱の籠った溜め息ばかり。

 カチ、コチ、カチ、コチ——。

 いつもと同じ間隔で動いているはずの針の音が、やけに速く、急かすように聴こえた。