癒術師見習いと氷の君

 バーランド魔術院附属大図書館。
 その四階は、歴史書コーナーの一番奥の席。
 エマはいつもそこで本を読みながら、その時を待っている。

 今日手にしているのは、王都の歴史。
 分厚く重い、普段なら絶対に手にしない類の本。

 そう。普段なら、絶対に手にしないもの。
 それを手にしている気まぐれは、読むためではなく、手持ち無沙汰なのを避けるだけのため。
 一応目を通している文字も、内容らしい内容なんて、これっぽちも頭に残っていない。
 精々、へえそんなことがあったのか、と思った記憶くらいだ。

「ふぅ……」

 何をどこまで読んだのか、章変わりの空白ページに差し掛かった。
 自然と手が止まる。
 自分の吐息が思いがけず大きかったことに、慌てて周囲を見回した。

 誰も居ない。
 足音一つ響かない。
 壁に掛かった大時計の針が進む音、そればかりが響いている。

 カチ、コチ、カチ、コチ——。

 規則正しいその音に、心は落ち着くどころか、今か未だかと気が逸る。
 本を閉じて、窓の外に目をやった。
 見渡す限りの遠くまで、少しの雲を抱えた青空が広がっている。

 風は穏やか。
 雲はゆっくりとそれに運ばれている。
 そんな中で、自分の鼓動ばかりが速くなってゆく。

 少し、頬も熱くなって来た。
 未だ、その人と再会出来たわけでもないのに。

「はぁ……」

 溜め息ばかり。
 自分はこんなに卑しい人間だったろうか、と。

 ギィ…………ガタン。

(あっ……)

 遠くの方で、入口の扉が開き、閉まる音が聞こえた。

 誰か来た。
 誰だろう。

 どこかへ、と思った足音は、間違いなくこちらへと向かってきている。
 どうしよう。

 なんて声をかけよう。
 ——そんなことを、思いかけていた時。

「あっ……」

 待ち望んでいたその顔が、本棚の影から現れた。

「……エルン、さん」

 見慣れた学院の制服だが、その人が着ていると、どうにも他とは違い煌びやかに見える。
 エルネスト・バーランド。
 この学院の名前にもなっている、歴史ある騎士の家系、バーランド家の人間で、銀色の髪が夕陽に眩しい、スラっと背の高い三年の生徒だ。
 学院に籍を置いていながら、王国騎士団第一部隊へも所属している。
 偶にしか会えないのは、その為だ。
 騎士団での働きが評価され、幼い頃より卓越していた戦闘技術、涼し気な目元も手伝って、今では広く『氷刃公』の名で知られているが――

「ただいま、エマ。ちょっと背伸びた?」

 涼しい顔で、涼しい声で、けれどもちょっと優しい笑顔で。
 エルンは、噂を聞くばかりだった当時からは考えられない程、思ったよりも色んな表情を見せてくれる。

「いえ、寧ろ全く変わらないと言いますか……」

「そう? まあ、エマはこれからだもんね」

「うぅ……」

 その優しさが痛い。
 自分とエルンとでは、実に頭三つ分は身長に差がある。
 エルンが特別に高いこともあるが、並んで立とうものなら、文字通り見上げる形でないと、顔を合わせることさえ出来ないのだ。

「わ、私のことはいいんです…! それより、今回はまた随分と長い遠征でしたね」

 エマの言葉に、エルンはうんと頷いた。
 前回顔を合わせてからすぐに発ち、今こうして再会するまで、実にひと月半が経っている。
 長旅になるという話は聞いていたけれど、まさかこんなに会えない日が続くなんて。

「遠征の途中で、来る予定の無かった団長までやって来たんだ。ちょっとトラブルがあってね」

「トラブル……大丈夫だったんですか?」

「うん。殆ど団長一人でね。俺たちは、ただの簡単な小競り合いばかりだったよ」

「小競り合い……」

 その言葉が、胸にチクりと突き刺さる。
 エルンは以前から、戦闘になったら無理を押してでも前線へと出ようとする性格だった。
 全ては護るものがあるから、というただそれだけのシンプルな理由かららしいが、だからといって自分の肉体を蔑ろにはして欲しくない。
 二人が出会ったのも、それに関連した偶然の出来事からだった。

「……身体、悪いところはありますか?」

「大丈夫。いつも心配ばかりかけてごめんね。ありがとう、エマ」

「そんな、こと……」

 ない、とは言えなかった。
 事実、会える喜びと同等かそれ以上に、心配だって強いのだ。
 日が空けば空く程、それは眠りを妨げる程の動悸を誘うこともある。

 もし何かあれば。
 ひょっとしてこんなことがあったのでは。

 いつもそれは杞憂に終わるけれど。
 いくらエルンに実力があるとは言っても、無いとは言い切れないことなのだから。

「……お会い出来て、良かったです。また」

「うん。俺も」

 エルンは間髪入れずに頷いた。
 そうして、エマのすぐ向かいの席へと、腰を落ち着けるのだった。
 いつもは見上げるばかりの顔が、今は正面に――。
 それをまじまじ、いやチラリと窺うことも出来ない。
 エマは、分厚い本に乗せた手元へと視線を下ろしたまま。

「エマは? 癒術の勉強は楽しい?」

「楽しい、と言いきってしまうと、語弊を生むこともあるかも分かりませんけれど――はい、楽しいです。一つ一つ出来ることが増えて、また一つ誰かの……エルンさんの役に立てるのかもって思うと、楽しくて、嬉しくて、もっともっと勉強したいって思えるんです」

「いいね、それ。友達は? 増えた?」

「い、いえ、それは……」

「そうなんだ。それは残念だね」

 エルンがそう言うのは、エマと出会った当初、エマ本人が『友達100人作りたい』と口にしていたからなのだけれど、実のところ、それは会話の間を埋める為に咄嗟に口から出たもので、100人も欲していたわけではなかった。

 初めての土地、初めての環境。
 不安が強くあった。だから、友達は欲しかった。
 けれど、誰でも良いわけではなかった。
 ここへの入学を決めた時から、祖母にずっと『友達は、少ない数でもいいから、自分が大好きになれる人を見つけなさい』と言われて来た。
 それが何を間違ってか、エルンには100人などと言ってしまったのだ。
 以来、エルンはそう思い込むのと同時に、自分からそうではないとは訂正することも出来なくて、けれども別段訂正することでもないからな、と放り投げたままなのだ。

「俺の心配をするエマは、どうなの?」

「どう、というのは……?」

「身体。病気とか、怪我とか」

「わ、私は、全然――」

 思わず上げた視線は、

「ん、知ってる」

 頬杖をついてふわりと微笑むエルンの視線と、しっかりと交錯してしまった。
 逸らさないと――そう思う頭とは裏腹に、縫い付けられたみたいに視線は動いてくれない。
 白銀の髪と、それと同じくらい薄く透き通った肌と――そんなものを観察する余裕もないくらい、綺麗な瞳を、ただ見つめることしか出来なかった。

「楽しそうに話すのを見てたら、分かるよ。それに、前に言ってたことも覚えてるからね。病気も怪我も、全然したことないんです、って」

「は、はい……」

 はい、と相槌を打ってしまった。
 何て言ったんだろう。
 思い出せない。
 変な返答してないよね。

 ——頭の中では今、そんなことばかりがグルグルしていた。

「元気なエマに、一つ頼みがあるんだけど、構わないかな?」

「た、たのみ、ですか……?」

「うん。今度、花屋に行こうと思うんだけど、それに同行してくれないかな?」

「おはなやさん……どうして、わたし……?」

「お花、詳しかったでしょ? たしか、癒術の勉強を教えてくれたおじい様から、古い薬学も教えてもらって、そのお陰で色々と知ってるんです、って言ってた」

「あ、はい……それ、私が言いました、ね……」

 もう、何を聞いて、何を返しているのか、分からなくなってきた。

「うん。だから、エマに選んで欲しいんだ。家に飾るお花を」

「家に……? ご自分の……?」

「あ、今、騎士団にも所属するような男なのに、とか思った?」

 エルンは、少し悪戯っぽい顔で言う。

「えっ…!? い、いえいえ、そんなことは…! ただ、お母様とか、恋人とか、そういう人の為なのかなとか思っただけで…!」

 エマは、慌てて両手をぶん回してかぶりを振る。

「エマは面白いことを言うね。母上はまだしも、恋人はいないし、三男の僕には許嫁もいないのにさ。あーあ、傷ついちゃった」

「す、すみません…! あぁもう、私は何をッ…!」

「――ぷっ。あはは、冗談だよ、冗談」

 小さく吹き出したエルンは、しかしそのまま暫く、クスクスと笑い続ける。
 暫くしてからようやくエマも、揶揄われたのだと遅れて気が付いた。

 しかし――エルンに恋人がいないのは、知っている。
 以前、そう言っていたから。

(こんなに親しくしてもらってるけど……)

 恋人がいないということは、自分がそうでもないということ。
 そう。恋人じゃない。

(私は……)




 エマ・ロランド。17歳。
 バーランド魔術院癒術科二年。
 エルネスト・バーランドに、絶賛片思い中。