愛さない契約妃は、龍帝の嘘を暴かない

 地下水路の壁には、赤黒い文字が刻まれていた。

 ――真を奪え。
 ――器を壊せ。
 ――龍を戻せ。

 白藤紗夜は、湿った石壁の前で息を止めた。

 祈祷殿の地下にある水路は、冷たい水音だけが響いている。龍脈に近いせいか、そばに立つ龍瀬暁仁の顔色はいつもより悪かった。

「触れるな」

「はい」

 紗夜は頷いた。

 これは、これまでの呪符とは違う。紙に書かれたものではなく、石に刻まれた古い呪いだ。藤壺の方が一人で作ったものではない。もっと昔から、この後宮の奥に隠されていたものだ。

 その時、朱音が石段を下りてきた。

「帝。藤壺の方が、祈祷殿の前に妃候補と女官たちを集めています」

「何をする気だ」

「龍脈の乱れは、白藤紗夜さまが禁忌に触れたせいだと」

 暁仁の目が冷たくなる。

「紗夜に罪を着せるつもりか」

 紗夜は驚かなかった。藤壺の方が次に打つ手は、それしかないと思っていた。

 紗夜を後宮から消せば、暁仁の嘘に近づく者はいなくなる。

「戻るぞ」

 暁仁は短く言った。

 祈祷殿の前庭には、すでに多くの女たちが集められていた。

 藤壺の方は中央に座り、穏やかな笑みを浮かべている。だが、その目だけは少しも笑っていなかった。

「帝。龍脈が乱れております」

 藤壺の方は、深く頭を下げた。

「白藤紗夜さまが後宮に入ってから、呪符が見つかり、禁呪墨が使われ、龍脈まで乱れました。白藤家は、かつて龍印の祭事を穢した一族。その娘をそばに置くことこそ、龍神の怒りを招いているのではありませんか」

 庭がざわめいた。

 紗夜は黙って藤壺の方を見た。

 言葉の半分は嘘で、半分は人を恐れさせるための真実だった。

 暁仁が低く言う。

「それ以上言えば、不敬では済まぬ」

「私は、帝をお守りしたいだけです」

 嘘。

 紗夜には、はっきりわかった。

 藤壺の方が守りたいのは帝ではない。龍脈を利用し、後宮を支配する仕組みそのものだ。

 だが、ここで紗夜がそれを言えば、暁仁の秘密に踏み込むことになる。

 帝の嘘だけは、暴いてはならない。

 その契約が、まだ紗夜を縛っていた。

 沈黙の後、暁仁が口を開いた。

「白藤紗夜」

 いつもより遠い声だった。

「はい」

「今日をもって、お前との契約を終了する」

 紗夜の胸が、強く痛んだ。

「帝……」

「お前を契約妃より解く。報酬は与える。白藤家には戻さぬ。母の汚名についても、できる限り取り計らう」

「なぜですか」

 暁仁は、紗夜を見なかった。

「お前は、もう不要だ」

 嘘。

 腐った花の匂いが、胸を刺した。

「後宮の嘘を見抜く役目は終わった。これ以上、お前を置く理由はない」

 嘘。

 すべて嘘だった。

 暁仁は紗夜を捨てたいのではない。守るために、遠ざけようとしている。

 藤壺の方は、それを待っていたのだ。

 暁仁が紗夜を庇えば、帝の秘密に迫れる。暁仁が紗夜を捨てれば、帝はまた一人になる。

 紗夜は唇を噛んだ。

 ここで「嘘です」と叫べば、暁仁の本心を暴くことになる。

 契約を破れば、彼をさらに苦しめる。

 だから紗夜は、ゆっくり膝をついた。

「承知しました」

 暁仁の目が、わずかに揺れた。

「契約に従い、私は後宮を去ります」

 庭に沈黙が落ちる。

 藤壺の方だけが、静かに微笑んでいた。

 東の離れに戻ると、朱音が追ってきた。

「紗夜さま。本当にお受けになるのですか」

「受けるしかありませんでした」

「ですが、帝は」

「わかっています」

 紗夜は文机の引き出しを開けた。

 中には、母・沙月の手紙がある。

 ――嘘を暴かず、痛みを分ける者が現れることを祈ります。

 紗夜はその文字を指でなぞった。

「帝は、私を守るために離縁しました」

「では」

「だからこそ、このまま終わらせません」

 紗夜は手紙を懐に入れた。

「私は一度、後宮を出ます。でも、逃げるためではありません」

「では、何のために」

「契約妃としてではなく、白藤沙月の娘として戻るためです」

 朱音は、しばらく紗夜を見つめた後、深く頭を下げた。

「承知しました」

 夕刻、紗夜は後宮の東門へ向かった。

 空は、入宮した夜と同じように薄い金色に染まっていた。

 門の前には馬車が用意されている。見送りに来たのは、朱音、菊乃、そして少し離れたところに立つ千鶴だった。

 千鶴は何か言いたげに唇を動かしたが、結局何も言わなかった。

 紗夜も、今は何も言わなかった。

 馬車に乗ろうとした時、背後から低い声がした。

「紗夜」

 振り返ると、暁仁が立っていた。

 彼は小さな包みを差し出す。

「忘れ物だ」

 中には、銀の簪が入っていた。入宮した朝、朱音が紗夜の髪に挿してくれたものだ。

「これは、後宮のものでは」

「お前のものだ」

 その言葉に、嘘の匂いはなかった。

 紗夜は簪を受け取った。

「ありがとうございます」

「達者でいろ」

 それも嘘ではない。

 けれど、その奥には言えない言葉が沈んでいた。

 行くな。

 戻ってくるな。

 無事でいろ。

 紗夜には、全部わかった。

 けれど、暴かなかった。

「帝」

「何だ」

「私は、今日も帝の嘘を暴きません」

 暁仁の目が揺れる。

「ですが、信じたわけではありません」

 紗夜は深く頭を下げた。

 これ以上言えば、彼の本心に触れてしまう。

 だから、言わなかった。

 馬車の扉が閉まる。

 車輪が動き出す。

 後宮の門が、少しずつ遠ざかっていく。

 紗夜は窓の隙間から、暁仁の姿を見た。彼は門の前に立ったまま、動かなかった。

 契約は終わった。

 離縁も告げられた。

 けれど、紗夜はもう自分に嘘をつけなかった。

 愛さない契約は、紗夜を守る盾だった。

 でも今は、その盾の向こうにいる人を守りたい。

 それは契約には書かれていない。

 だからこそ、紗夜自身の意志だった。

 帝の嘘を暴くためではない。

 その嘘を半分背負うために、紗夜は必ず戻る。