愛さない契約妃は、龍帝の嘘を暴かない

 後宮裁きの翌朝、白藤紗夜は朱音とともに書庫へ入った。

 母・白藤沙月の記録を探すためだった。

 棚の奥に残されていた帳面には、ところどころ墨で消された跡があった。

 ――龍脈祭事、異変あり。
 ――幼き皇子、龍印を受ける。
 ――白藤沙月、禁呪使用の疑い。
 ――以後、沙月、沈黙。

「幼き皇子……」

 紗夜は息をのんだ。

 年を考えれば、それは龍瀬暁仁のことだ。

 さらに帳面の間から、古い紙片が落ちた。そこには母の筆跡で、短くこう記されていた。

 ――龍の嘘は、嘘ではありません。
 ――それは国を沈めぬための沈黙です。
 ――真を暴けば、龍は器を喰らいます。
 ――いつか、嘘を暴かず、痛みを分ける者が現れることを祈ります。

 紗夜の胸が冷たくなった。

 龍の嘘。
 器。
 真を暴けば、龍に喰われる。

 それは、暁仁のことだった。

 その時、帝からの使いが来た。

「祈祷殿へ、とのことです」

 祈祷殿は、後宮の奥にあった。

 中へ入ると、香の煙が白く漂い、中央の祭壇には青白く光る龍玉が置かれていた。その前に、暁仁が立っている。

「読んだのか」

「はい。母の手紙を見つけました」

 暁仁は、しばらく黙っていた。

「瑞華国は龍脈の上にある。帝は代々、龍神と契約し、龍脈を鎮める器となる」

 暁仁の声は低かった。

「俺が幼い頃、龍脈が乱れた。先帝は病で、契約を保てなかった。だから未熟な俺に、龍印が移された」

「それで、帝は……」

「龍神は、器の真を喰う。恐れも、願いも、愛も。強い本心ほど、口にした瞬間に喰われる」

 紗夜は、ようやく理解した。

 暁仁は本心を言わないのではない。
 言えないのだ。

 言えば、命を削られる。

「母は、帝を守ったのですね」

「同時に、俺を呪った」

 暁仁の言葉に、嘘はなかった。

 白藤沙月は、幼い暁仁が龍に喰われきらないよう、禁呪で言葉を封じた。だから暁仁は本心を口にできない。そして、その秘密を守るため、沙月は罪をかぶって沈黙したのだった。

「誰が、母に罪を着せたのですか」

 紗夜が尋ねると、暁仁の喉が苦しげに動いた。

 だが、声は出ない。

 次の瞬間、暁仁は激しく咳き込み、口元を押さえた指の隙間に赤い血が滲んだ。

「帝!」

「聞くな。その名は、言えぬ」

 紗夜は、それ以上問わなかった。

 彼を苦しめたいわけではない。

「私は、暴きに来たのではありません」

 紗夜は母の手紙を握りしめた。

「帝が言えないなら、言わなくていいです。でも、その痛みから目を逸らすことはしません」

「お前に何ができる」

「わかりません。でも、帝が嘘をついた時、私にはわかります。言えない言葉があることも、少しならわかります」

 暁仁の目が揺れた。

「逃げろ」

 彼は突然言った。

「契約は打ち切る。母の名誉は戻す。白藤家にも戻さぬ。だから、後宮を出ろ」

 紗夜は静かに首を横に振った。

「嫌です」

「これは命令だ」

「契約は、帝が一方的に破るものではありません」

「紗夜」

「帝は今、私を守るために遠ざけようとしていますね」

 その言葉に、暁仁の顔が歪んだ。

 紗夜はすぐに続けた。

「今の嘘は、暴きません。ですが、従いません」

 その時、祈祷殿の奥で低い音が鳴った。

 祭壇の龍玉が青く光り、床に描かれた円が淡く浮かび上がる。

 朱音が駆け込んできた。

「帝、北の地下水路で龍脈の乱れが。藤壺の方の殿舎近くです」

 暁仁の表情が変わった。

「動いたか」

 さらに朱音は告げた。

「藤緒の弟君も牢から移されました。行き先は不明です」

 暁仁は低く息を吐いた。

「藤壺め」

 その名には、嘘がなかった。

 だが、紗夜は気づいた。母に罪を着せた者の名は言えず、藤壺の名は言える。ならば黒幕は藤壺一人ではない。もっと奥に、龍脈の秘密を握る者がいる。

 暁仁は紗夜を見た。

「お前は東の離れに戻れ」

「行きません」

「また倒れるぞ」

「倒れないようにします」

「そんな約束があるか」

「帝も、血を吐かないようにしてください」

 暁仁は苦い顔をした。

 だが、今度は拒まなかった。

「俺のそばを離れるな」

「承知しました」

 紗夜は暁仁の隣に並んだ。

 龍帝の呪い。
 母の沈黙。
 後宮の嘘。
 そして、愛さない契約。

 すべてが一つにつながり、後戻りできない場所へ二人を導いていた。

 それでも紗夜は、もう目を逸らさないと決めていた。