白藤紗夜が書庫で倒れてから三日後、藤壺の方から使いが来た。
「後宮裁きの場へお越しくださいませ」
招きではない。呼び出しだった。
朱音は顔を曇らせた。
「本来、後宮裁きは帝の許しなく開くものではありません」
「では、帝はご存じないのですね」
使いの女官は、わずかに目を伏せた。
嘘の匂いがした。
祈祷殿の前庭には、妃候補と女官たちが集められていた。中央には藤壺の方。紫の衣をまとい、いつも通り優しく微笑んでいる。
「紗夜さま。お体はもうよろしいの?」
「お気遣いありがとうございます」
「本当はお呼びするのも心苦しいのですけれど、皆が不安がっておりますの」
嘘。
紗夜は静かに膝をついた。
「私に何の申し開きをお求めでしょうか」
藤壺の方は扇を開いた。
「あなたが、後宮に呪符を持ち込んだのではないかという疑いが出ています」
庭がざわめいた。
女官が黒い盆を差し出す。そこには焦げた呪符の紙片と、紗夜の部屋に置かれていた香袋が載っていた。
「昨夜、東の離れ近くで見つかったそうですわ」
「私が自分で呪符を仕掛け、自分で見破ったと?」
「帝の信頼を得るために。そう考える者もおります」
紗夜は藤壺の方を見た。
美しい笑みの奥に、冷たい刃がある。
「根拠はそれだけですか」
「いいえ。白藤家から証人を呼んでおります」
前に進み出たのは、義妹の千鶴だった。
「お姉さまは、昔から人を不幸にします」
千鶴の声は震えていた。
「縁談も壊しました。母も私も、何度も恥をかきました。お姉さまは真実を言っただけだと言うけれど、いつも家を壊すのです」
その言葉に嘘はなかった。
だからこそ、紗夜の胸に刺さった。
「千鶴。あの縁談を、まだ恨んでいるのですね」
「当たり前でしょう! あの人と結婚すれば、私は白藤家を出られたのに!」
「彼には、身重の女性がいました」
「そんなの、知らない!」
嘘。
千鶴は、知りたくなかったのだ。
幸せになれるかもしれない夢を、壊されたくなかった。
「ごめんなさい」
紗夜は言った。
千鶴が目を見開く。
「あなたにとって、あの縁談がどれほど大事だったか、私は考えきれていませんでした。でも、私はあなたを呪ってはいません。後宮で呪符を使ってもいません」
藤壺の方が静かに笑った。
「美しい姉妹愛ですこと。でも、疑いは晴れておりませんわ」
「では、お尋ねします。その香袋を見つけたのはどなたですか」
「女官の藤緒です」
女官の列から、一人の娘が進み出た。
細い顔。伏せた目。袖口に藤の刺繍。
書庫で紗夜が倒れる直前に見た影と同じだった。
「藤緒と申します。東の離れの裏手で、焦げた匂いに気づきました」
嘘。
「その時、誰かを見ましたか」
「いいえ」
嘘。
「私の部屋に入ったことは?」
「ございません」
嘘。
紗夜は静かに言った。
「あなたは嘘をついています」
藤緒の顔が青ざめた。
「袖口に祈祷殿の香が残っています。書庫で私が倒れた時、そこにいたのもあなたですね」
「違います!」
嘘。
その時、菊乃が立ち上がった。
「私、見ました。最初の呪符が入った文箱を私の部屋の前に置いたのも……たぶん、その方です。顔は見えませんでした。でも、袖に藤の刺繍がありました」
藤緒は崩れるように膝をついた。
「私は……私は、ただ……」
「誰に命じられたのですか」
紗夜が問うと、藤緒の視線が一瞬、藤壺の方へ向いた。
だが、すぐに床へ落ちる。
「誰にも命じられておりません。私一人でやりました」
強い嘘だった。
藤壺の方は、静かに扇を閉じる。
「罪を認めたのですもの。藤緒を罰するしかありませんわね」
「お待ちください」
紗夜は黒い盆の呪符を見た。
「この呪符に使われた墨は、祈祷殿の奥に保管される禁呪墨です。通常の女官が一人で持ち出せるものではありません」
庭がざわめく。
「禁呪墨を扱える者は限られています。藤緒さんは実行役です。ですが、呪符を用意した者が別にいます」
藤壺の方の笑みが消えた。
「それは推測ですわ」
「はい。ですから、祈祷殿の出入り記録を帝に調べていただくべきです」
その瞬間、庭の入口から低い声が響いた。
「その必要はない」
龍瀬暁仁が立っていた。
妃候補も女官も、一斉に頭を下げる。
「祈祷殿の出入り記録はすでに調べた」
暁仁の背後にいた官吏が帳面を開く。
「三日前の夜、禁呪墨の保管箱が開かれている。管理者の印は藤壺のもの。実際に鍵を受け取ったのは、女官藤緒」
藤緒が泣き崩れた。
「弟が……弟が牢に入れられていて……言う通りにすれば助けると……」
「誰に言われた」
暁仁が問う。
藤緒は藤壺の方を見た。けれど、名は出せなかった。
紗夜は藤緒の前に膝をついた。
「今、無理に名を言わなくていいです」
庭が静まる。
「あなたは罪を犯しました。菊乃さまを利用し、私を陥れました。でも、あなたの恐れまで罪だとは思いません」
藤緒の目から涙が落ちた。
藤壺の方が冷たく言う。
「後宮は優しさで保てる場所ではありませんわ」
「そうかもしれません」
紗夜は藤壺の方を見返した。
「ですが、恐怖で保つ場所でもないはずです」
暁仁が一歩前に出た。
「藤緒は拘束する。ただし弟の件も調べる。菊乃は謹慎を解く。白藤千鶴は保護しろ。利用された者をすぐ家へ返せば、口封じに遭う恐れがある」
千鶴の顔が白くなった。
紗夜は小さく頭を下げる。
「千鶴に、乱暴な扱いはしないでください」
「当然だ」
その言葉に嘘はなかった。
藤壺の方は深く頭を下げた。
「後宮の秩序を乱したこと、お詫び申し上げます」
「詫びは後で聞く」
暁仁の声は冷たかった。
「今後、俺の許可なく裁きの場を開くな」
裁きの場は解かれた。
人が去った後、暁仁は紗夜のそばへ来た。
「倒れるなと言ったはずだ」
「今日は倒れていません」
「顔色が悪い」
「帝もです」
暁仁は黙った。
少しだけ、空気が緩む。
「なぜ藤緒に名を言わせなかった」
「恐怖で言わされた名は、あとから簡単にひっくり返されます。それに、弟君を守らなければ、藤緒さんは本当のことを話せません」
「お前は、裁くのに向かぬ」
「そうでしょうか」
「罪だけを見ない」
紗夜は、藤緒が連れていかれた方を見た。
「嘘は一人では育ちません。誰かが土を用意し、水をやり、怖がる人に握らせるのです」
暁仁はしばらく黙っていた。
「その甘さに救われる者もいる」
紗夜は驚いて顔を上げた。
「今のは、褒めてくださったのですか」
「聞かなかったことにしろ」
「なぜですか」
「慣れぬ」
紗夜は、思わず少し笑った。
祈祷殿の屋根に夕日が差し、龍の飾り瓦が赤く染まっている。
後宮裁きは終わった。
けれど真実は、まだ裁かれていない。
藤壺の方は残っている。
母の沈黙も、帝の呪いも、まだ霧の中だ。
それでも紗夜は、今日一つだけ確かめた。
真実を暴くことだけが、嘘を見抜く力ではない。
嘘をつかざるを得なかった人の手を、離さないこと。
それもまた、自分にできることなのだと。
「戻るぞ」
暁仁が歩き出す。
紗夜が半歩後ろを歩こうとすると、彼は足を止めた。
「隣だ」
「まだ演技を?」
「後宮中が見ている」
「承知しました」
紗夜は、暁仁の隣に並んだ。
手は取られなかった。
けれど、距離は近かった。
偽りの寵愛。
契約上の信頼。
そのはずなのに、隣を歩くことが少しずつ自然になっていく。
それが一番、恐ろしかった。
「後宮裁きの場へお越しくださいませ」
招きではない。呼び出しだった。
朱音は顔を曇らせた。
「本来、後宮裁きは帝の許しなく開くものではありません」
「では、帝はご存じないのですね」
使いの女官は、わずかに目を伏せた。
嘘の匂いがした。
祈祷殿の前庭には、妃候補と女官たちが集められていた。中央には藤壺の方。紫の衣をまとい、いつも通り優しく微笑んでいる。
「紗夜さま。お体はもうよろしいの?」
「お気遣いありがとうございます」
「本当はお呼びするのも心苦しいのですけれど、皆が不安がっておりますの」
嘘。
紗夜は静かに膝をついた。
「私に何の申し開きをお求めでしょうか」
藤壺の方は扇を開いた。
「あなたが、後宮に呪符を持ち込んだのではないかという疑いが出ています」
庭がざわめいた。
女官が黒い盆を差し出す。そこには焦げた呪符の紙片と、紗夜の部屋に置かれていた香袋が載っていた。
「昨夜、東の離れ近くで見つかったそうですわ」
「私が自分で呪符を仕掛け、自分で見破ったと?」
「帝の信頼を得るために。そう考える者もおります」
紗夜は藤壺の方を見た。
美しい笑みの奥に、冷たい刃がある。
「根拠はそれだけですか」
「いいえ。白藤家から証人を呼んでおります」
前に進み出たのは、義妹の千鶴だった。
「お姉さまは、昔から人を不幸にします」
千鶴の声は震えていた。
「縁談も壊しました。母も私も、何度も恥をかきました。お姉さまは真実を言っただけだと言うけれど、いつも家を壊すのです」
その言葉に嘘はなかった。
だからこそ、紗夜の胸に刺さった。
「千鶴。あの縁談を、まだ恨んでいるのですね」
「当たり前でしょう! あの人と結婚すれば、私は白藤家を出られたのに!」
「彼には、身重の女性がいました」
「そんなの、知らない!」
嘘。
千鶴は、知りたくなかったのだ。
幸せになれるかもしれない夢を、壊されたくなかった。
「ごめんなさい」
紗夜は言った。
千鶴が目を見開く。
「あなたにとって、あの縁談がどれほど大事だったか、私は考えきれていませんでした。でも、私はあなたを呪ってはいません。後宮で呪符を使ってもいません」
藤壺の方が静かに笑った。
「美しい姉妹愛ですこと。でも、疑いは晴れておりませんわ」
「では、お尋ねします。その香袋を見つけたのはどなたですか」
「女官の藤緒です」
女官の列から、一人の娘が進み出た。
細い顔。伏せた目。袖口に藤の刺繍。
書庫で紗夜が倒れる直前に見た影と同じだった。
「藤緒と申します。東の離れの裏手で、焦げた匂いに気づきました」
嘘。
「その時、誰かを見ましたか」
「いいえ」
嘘。
「私の部屋に入ったことは?」
「ございません」
嘘。
紗夜は静かに言った。
「あなたは嘘をついています」
藤緒の顔が青ざめた。
「袖口に祈祷殿の香が残っています。書庫で私が倒れた時、そこにいたのもあなたですね」
「違います!」
嘘。
その時、菊乃が立ち上がった。
「私、見ました。最初の呪符が入った文箱を私の部屋の前に置いたのも……たぶん、その方です。顔は見えませんでした。でも、袖に藤の刺繍がありました」
藤緒は崩れるように膝をついた。
「私は……私は、ただ……」
「誰に命じられたのですか」
紗夜が問うと、藤緒の視線が一瞬、藤壺の方へ向いた。
だが、すぐに床へ落ちる。
「誰にも命じられておりません。私一人でやりました」
強い嘘だった。
藤壺の方は、静かに扇を閉じる。
「罪を認めたのですもの。藤緒を罰するしかありませんわね」
「お待ちください」
紗夜は黒い盆の呪符を見た。
「この呪符に使われた墨は、祈祷殿の奥に保管される禁呪墨です。通常の女官が一人で持ち出せるものではありません」
庭がざわめく。
「禁呪墨を扱える者は限られています。藤緒さんは実行役です。ですが、呪符を用意した者が別にいます」
藤壺の方の笑みが消えた。
「それは推測ですわ」
「はい。ですから、祈祷殿の出入り記録を帝に調べていただくべきです」
その瞬間、庭の入口から低い声が響いた。
「その必要はない」
龍瀬暁仁が立っていた。
妃候補も女官も、一斉に頭を下げる。
「祈祷殿の出入り記録はすでに調べた」
暁仁の背後にいた官吏が帳面を開く。
「三日前の夜、禁呪墨の保管箱が開かれている。管理者の印は藤壺のもの。実際に鍵を受け取ったのは、女官藤緒」
藤緒が泣き崩れた。
「弟が……弟が牢に入れられていて……言う通りにすれば助けると……」
「誰に言われた」
暁仁が問う。
藤緒は藤壺の方を見た。けれど、名は出せなかった。
紗夜は藤緒の前に膝をついた。
「今、無理に名を言わなくていいです」
庭が静まる。
「あなたは罪を犯しました。菊乃さまを利用し、私を陥れました。でも、あなたの恐れまで罪だとは思いません」
藤緒の目から涙が落ちた。
藤壺の方が冷たく言う。
「後宮は優しさで保てる場所ではありませんわ」
「そうかもしれません」
紗夜は藤壺の方を見返した。
「ですが、恐怖で保つ場所でもないはずです」
暁仁が一歩前に出た。
「藤緒は拘束する。ただし弟の件も調べる。菊乃は謹慎を解く。白藤千鶴は保護しろ。利用された者をすぐ家へ返せば、口封じに遭う恐れがある」
千鶴の顔が白くなった。
紗夜は小さく頭を下げる。
「千鶴に、乱暴な扱いはしないでください」
「当然だ」
その言葉に嘘はなかった。
藤壺の方は深く頭を下げた。
「後宮の秩序を乱したこと、お詫び申し上げます」
「詫びは後で聞く」
暁仁の声は冷たかった。
「今後、俺の許可なく裁きの場を開くな」
裁きの場は解かれた。
人が去った後、暁仁は紗夜のそばへ来た。
「倒れるなと言ったはずだ」
「今日は倒れていません」
「顔色が悪い」
「帝もです」
暁仁は黙った。
少しだけ、空気が緩む。
「なぜ藤緒に名を言わせなかった」
「恐怖で言わされた名は、あとから簡単にひっくり返されます。それに、弟君を守らなければ、藤緒さんは本当のことを話せません」
「お前は、裁くのに向かぬ」
「そうでしょうか」
「罪だけを見ない」
紗夜は、藤緒が連れていかれた方を見た。
「嘘は一人では育ちません。誰かが土を用意し、水をやり、怖がる人に握らせるのです」
暁仁はしばらく黙っていた。
「その甘さに救われる者もいる」
紗夜は驚いて顔を上げた。
「今のは、褒めてくださったのですか」
「聞かなかったことにしろ」
「なぜですか」
「慣れぬ」
紗夜は、思わず少し笑った。
祈祷殿の屋根に夕日が差し、龍の飾り瓦が赤く染まっている。
後宮裁きは終わった。
けれど真実は、まだ裁かれていない。
藤壺の方は残っている。
母の沈黙も、帝の呪いも、まだ霧の中だ。
それでも紗夜は、今日一つだけ確かめた。
真実を暴くことだけが、嘘を見抜く力ではない。
嘘をつかざるを得なかった人の手を、離さないこと。
それもまた、自分にできることなのだと。
「戻るぞ」
暁仁が歩き出す。
紗夜が半歩後ろを歩こうとすると、彼は足を止めた。
「隣だ」
「まだ演技を?」
「後宮中が見ている」
「承知しました」
紗夜は、暁仁の隣に並んだ。
手は取られなかった。
けれど、距離は近かった。
偽りの寵愛。
契約上の信頼。
そのはずなのに、隣を歩くことが少しずつ自然になっていく。
それが一番、恐ろしかった。



