後宮の書庫は、祈祷殿の北側にあった。
古い紙と墨の匂い。その奥に、かすかな血のような匂いが沈んでいる。昨日見つけた呪符の墨に似ている、と白藤紗夜は思った。
「こちらが、白藤家に関する記録です」
朱音が棚の前で足を止める。
紗夜は古い帳面を開いた。紙をめくる指先が、自然と強張る。
やがて、母の名を見つけた。
――白藤沙月、後宮祈祷殿にて龍脈の異変を報告。
――同日、禁呪使用の疑いあり。
――白藤家、祓い役より退けられる。
――沙月、沈黙。
「母は……なぜ黙ったの」
紗夜は小さく呟いた。
母は罪人ではない。そう信じてきた。けれど、なぜ弁明しなかったのか。何を守るために沈黙したのか。
その時、書庫の奥で紙が擦れる音がした。
「誰かいますか」
返事はない。
紗夜は棚の陰へ進み、床に落ちていた小さな紙片を見つけた。白い紙に、赤黒い墨。
呪符の切れ端だった。
そこには、文字の一部だけが残っていた。
――真を口にせし者、龍に喰われる。
紗夜の背筋が冷えた。
暁仁の、言えない本心。母の沈黙。龍脈の異変。
それらが一瞬でつながりかける。
けれど、考えてはいけない。
帝の嘘だけは暴いてはならない。
そう思った瞬間、紙片から黒い煙のようなものが立ち上った。
「紗夜さま!」
朱音の声が遠くなる。
耳元で、誰かが囁いた。
――帝の嘘を暴け。
違う。
紗夜は唇を噛む。
――暴け。暴け。暴け。
嘘の気配が、無理やり胸の内へ流れ込んでくる。千鶴の声、菊乃の泣き声、藤壺の方の笑い声、そして暁仁の声。
――何でもない。
――望みなどない。
嘘。
嘘。
見たくないものまで見えてしまう。
紗夜は膝から崩れ落ちた。
倒れる直前、書庫の奥に女官の影が見えた。袖口には、藤の刺繍。
それだけを見届けて、紗夜の意識は闇に落ちた。
次に目を開けた時、紗夜は東の離れにいた。
額には冷たい布。部屋には薬草の匂い。寝台のそばには、龍瀬暁仁が座っていた。
「気がついたか」
「帝……」
「起きるな」
暁仁の顔色は悪かった。だが、その目は紗夜をまっすぐ見ている。
「書庫で倒れた。呪符の墨がお前の力に反応したらしい」
「紙片は」
「俺が預かった」
「見ては、いけません」
言いかけて、紗夜は咳き込んだ。喉が焼けるように痛い。
暁仁は水差しを取り、布に水を含ませて紗夜の唇に当てた。
「飲め」
「帝が、そのようなことを」
「薬師が来るまでの処置だ」
かすかに、嘘の匂いがした。
それだけではない、と紗夜にはわかった。けれど、暴かなかった。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない」
嘘。
暁仁はすぐに言い直した。
「いや、迷惑だ。契約妃が倒れれば、計画に支障が出る」
それもまた、少しだけ嘘だった。
紗夜は弱く笑った。
「帝は、嘘がお下手ですね」
「今のは暴いたのか」
「感想です」
「なお悪い」
その声には、本気の怒りはなかった。
紗夜は、書庫で見た影を思い出す。
「書庫に、誰かいました。女官です。袖口に藤の刺繍が」
「藤壺の周りの者か」
「おそらく。祈祷殿の香もしました」
「朱音に調べさせる」
暁仁は短く言った。
紗夜は、もう一つ言うべきか迷った。
紙片の文字。
真を口にせし者、龍に喰われる。
けれど、それは暁仁の嘘に近すぎる。
「何が書いてあった」
暁仁が問う。
紗夜は目を伏せた。
「申し上げません」
「なぜ」
「契約に触れるかもしれません」
暁仁は黙った。
「倒れるほどの呪詛を受けても、契約を守るのか」
「守ります」
「なぜそこまで」
紗夜は少しだけ息を整えた。
「帝が、言いたくないのではなく、言えないのだと思ったからです」
暁仁の顔色が変わった。
次の瞬間、彼は口元を押さえて咳き込んだ。指の隙間に、赤いものが見える。
「血が」
「見るな」
それは命令だった。
けれど、懇願にも聞こえた。
暁仁は袖で口元を拭い、何事もなかったように座り直す。
「お前には関係ない」
嘘。
「契約妃が知る必要はない」
嘘。
「俺は、ただ……」
そこで、言葉が途切れた。
暁仁は苦しげに喉を押さえる。何かを言おうとしているのに、言えない。見えない力が、その言葉を奪っているようだった。
「帝」
紗夜は、寝台からそっと手を伸ばした。指先が暁仁の袖に触れる。
「言わないでください」
暁仁が紗夜を見る。
「言えないなら、言わなくていいです」
紗夜は静かに続けた。
「私は、言葉だけを真実だとは思いません。帝がここに来てくださったこと。水を飲ませてくださったこと。それだけで、今は十分です」
暁仁は何も言わなかった。
だが、その沈黙に嘘の匂いはしなかった。
しばらくして、彼は紗夜の手首を取り、脈を確かめるようにそっと触れた。
「お前は、本当に厄介だ」
「また、それですか」
「他に言いようがない」
「でしたら、無理に言わなくていいです」
暁仁はわずかに目を伏せた。
「そうだな」
その声は、これまでで一番静かだった。
やがて薬師が来て、紗夜はしばらく安静にするよう命じられた。呪符の墨が異能を無理に開かせたのだという。
「同じものに触れれば、次は危ういでしょう」
薬師の言葉に、暁仁の目が険しくなる。
「今後、呪符はすべて俺のところへ運べ。紗夜には触れさせるな」
「でも、それでは契約が」
「契約より命が先だ」
その言葉に、嘘の匂いはなかった。
紗夜は胸の奥が小さく揺れるのを感じた。
「帝」
「何だ」
「今の言葉は、契約妃に向けたものですか」
暁仁は答えなかった。
紗夜も、それ以上は問わなかった。
「聞かなかったことにします」
「お前は、そうやって俺を逃がすのか」
「逃がしてはいけませんか」
「わからない」
その返事は、驚くほど正直だった。
暁仁は立ち上がる。
「今夜は休め」
「帝も、ご無理はなさらないでください」
「お前に言われたくない」
「それもそうですね」
紗夜が答えると、暁仁はほんのわずかに目元を緩めた。
彼が去ったあと、部屋には薬草の匂いだけが残った。
真を口にせし者、龍に喰われる。
あの文字は、暁仁の呪いに関わっている。きっと、母の沈黙にも。
知りたい。
けれど、暴いてはいけない。
紗夜は、暁仁が触れた手首にそっと指を重ねた。
愛さない契約は、まだ破れていない。
けれど契約書には書かれていない何かが、二人の間に生まれ始めていた。
古い紙と墨の匂い。その奥に、かすかな血のような匂いが沈んでいる。昨日見つけた呪符の墨に似ている、と白藤紗夜は思った。
「こちらが、白藤家に関する記録です」
朱音が棚の前で足を止める。
紗夜は古い帳面を開いた。紙をめくる指先が、自然と強張る。
やがて、母の名を見つけた。
――白藤沙月、後宮祈祷殿にて龍脈の異変を報告。
――同日、禁呪使用の疑いあり。
――白藤家、祓い役より退けられる。
――沙月、沈黙。
「母は……なぜ黙ったの」
紗夜は小さく呟いた。
母は罪人ではない。そう信じてきた。けれど、なぜ弁明しなかったのか。何を守るために沈黙したのか。
その時、書庫の奥で紙が擦れる音がした。
「誰かいますか」
返事はない。
紗夜は棚の陰へ進み、床に落ちていた小さな紙片を見つけた。白い紙に、赤黒い墨。
呪符の切れ端だった。
そこには、文字の一部だけが残っていた。
――真を口にせし者、龍に喰われる。
紗夜の背筋が冷えた。
暁仁の、言えない本心。母の沈黙。龍脈の異変。
それらが一瞬でつながりかける。
けれど、考えてはいけない。
帝の嘘だけは暴いてはならない。
そう思った瞬間、紙片から黒い煙のようなものが立ち上った。
「紗夜さま!」
朱音の声が遠くなる。
耳元で、誰かが囁いた。
――帝の嘘を暴け。
違う。
紗夜は唇を噛む。
――暴け。暴け。暴け。
嘘の気配が、無理やり胸の内へ流れ込んでくる。千鶴の声、菊乃の泣き声、藤壺の方の笑い声、そして暁仁の声。
――何でもない。
――望みなどない。
嘘。
嘘。
見たくないものまで見えてしまう。
紗夜は膝から崩れ落ちた。
倒れる直前、書庫の奥に女官の影が見えた。袖口には、藤の刺繍。
それだけを見届けて、紗夜の意識は闇に落ちた。
次に目を開けた時、紗夜は東の離れにいた。
額には冷たい布。部屋には薬草の匂い。寝台のそばには、龍瀬暁仁が座っていた。
「気がついたか」
「帝……」
「起きるな」
暁仁の顔色は悪かった。だが、その目は紗夜をまっすぐ見ている。
「書庫で倒れた。呪符の墨がお前の力に反応したらしい」
「紙片は」
「俺が預かった」
「見ては、いけません」
言いかけて、紗夜は咳き込んだ。喉が焼けるように痛い。
暁仁は水差しを取り、布に水を含ませて紗夜の唇に当てた。
「飲め」
「帝が、そのようなことを」
「薬師が来るまでの処置だ」
かすかに、嘘の匂いがした。
それだけではない、と紗夜にはわかった。けれど、暴かなかった。
「ご迷惑をおかけしました」
「迷惑ではない」
嘘。
暁仁はすぐに言い直した。
「いや、迷惑だ。契約妃が倒れれば、計画に支障が出る」
それもまた、少しだけ嘘だった。
紗夜は弱く笑った。
「帝は、嘘がお下手ですね」
「今のは暴いたのか」
「感想です」
「なお悪い」
その声には、本気の怒りはなかった。
紗夜は、書庫で見た影を思い出す。
「書庫に、誰かいました。女官です。袖口に藤の刺繍が」
「藤壺の周りの者か」
「おそらく。祈祷殿の香もしました」
「朱音に調べさせる」
暁仁は短く言った。
紗夜は、もう一つ言うべきか迷った。
紙片の文字。
真を口にせし者、龍に喰われる。
けれど、それは暁仁の嘘に近すぎる。
「何が書いてあった」
暁仁が問う。
紗夜は目を伏せた。
「申し上げません」
「なぜ」
「契約に触れるかもしれません」
暁仁は黙った。
「倒れるほどの呪詛を受けても、契約を守るのか」
「守ります」
「なぜそこまで」
紗夜は少しだけ息を整えた。
「帝が、言いたくないのではなく、言えないのだと思ったからです」
暁仁の顔色が変わった。
次の瞬間、彼は口元を押さえて咳き込んだ。指の隙間に、赤いものが見える。
「血が」
「見るな」
それは命令だった。
けれど、懇願にも聞こえた。
暁仁は袖で口元を拭い、何事もなかったように座り直す。
「お前には関係ない」
嘘。
「契約妃が知る必要はない」
嘘。
「俺は、ただ……」
そこで、言葉が途切れた。
暁仁は苦しげに喉を押さえる。何かを言おうとしているのに、言えない。見えない力が、その言葉を奪っているようだった。
「帝」
紗夜は、寝台からそっと手を伸ばした。指先が暁仁の袖に触れる。
「言わないでください」
暁仁が紗夜を見る。
「言えないなら、言わなくていいです」
紗夜は静かに続けた。
「私は、言葉だけを真実だとは思いません。帝がここに来てくださったこと。水を飲ませてくださったこと。それだけで、今は十分です」
暁仁は何も言わなかった。
だが、その沈黙に嘘の匂いはしなかった。
しばらくして、彼は紗夜の手首を取り、脈を確かめるようにそっと触れた。
「お前は、本当に厄介だ」
「また、それですか」
「他に言いようがない」
「でしたら、無理に言わなくていいです」
暁仁はわずかに目を伏せた。
「そうだな」
その声は、これまでで一番静かだった。
やがて薬師が来て、紗夜はしばらく安静にするよう命じられた。呪符の墨が異能を無理に開かせたのだという。
「同じものに触れれば、次は危ういでしょう」
薬師の言葉に、暁仁の目が険しくなる。
「今後、呪符はすべて俺のところへ運べ。紗夜には触れさせるな」
「でも、それでは契約が」
「契約より命が先だ」
その言葉に、嘘の匂いはなかった。
紗夜は胸の奥が小さく揺れるのを感じた。
「帝」
「何だ」
「今の言葉は、契約妃に向けたものですか」
暁仁は答えなかった。
紗夜も、それ以上は問わなかった。
「聞かなかったことにします」
「お前は、そうやって俺を逃がすのか」
「逃がしてはいけませんか」
「わからない」
その返事は、驚くほど正直だった。
暁仁は立ち上がる。
「今夜は休め」
「帝も、ご無理はなさらないでください」
「お前に言われたくない」
「それもそうですね」
紗夜が答えると、暁仁はほんのわずかに目元を緩めた。
彼が去ったあと、部屋には薬草の匂いだけが残った。
真を口にせし者、龍に喰われる。
あの文字は、暁仁の呪いに関わっている。きっと、母の沈黙にも。
知りたい。
けれど、暴いてはいけない。
紗夜は、暁仁が触れた手首にそっと指を重ねた。
愛さない契約は、まだ破れていない。
けれど契約書には書かれていない何かが、二人の間に生まれ始めていた。



