後宮で最も早く広まるものは、花の香ではない。噂である。
「昨夜も帝に呼ばれたそうよ」
「書庫への出入りまで許されたとか」
「本当に寵を受けているのかしら」
白藤紗夜は、御簾の向こうから流れてくる声を聞こえないふりで受け流した。
後宮の悪意は、白藤家のものより柔らかい。けれど、柔らかい絹に包まれているだけで、刃であることに変わりはなかった。
「紗夜さま」
前を歩く朱音が低く告げた。
「帝がお呼びです」
昨日までは夜の密かな呼び出しだった。だが今日は朝、人目のある時間である。
紗夜はすぐに察した。
これは呼び出しではない。見せるための演出だ。
帝の殿舎へ入ると、龍瀬暁仁は庭に面した縁側に立っていた。朝の光を背に受けた横顔は、いつもより少し青白い。
「来たか」
「お召しと伺いました」
「近くへ」
その一言に、控えていた侍従たちの気配が変わった。
紗夜は暁仁のそばへ進む。近づくほどに、彼の衣から雨上がりの杉のような冷たい香がした。
「昨夜は、よく眠れたか」
「……はい」
「そうか」
会話が途切れる。
紗夜は小声で言った。
「帝」
「何だ」
「寵愛しているふりをなさるなら、もう少し自然に会話を続けた方がよろしいかと」
暁仁の眉がわずかに動いた。
「聞こえているぞ」
「聞こえるように申し上げました」
「大胆だな」
「演技が途切れるよりは」
暁仁はしばらく黙った。
「では、どうすればいい」
「まず、眉間のしわをお消しください」
「寄せていない」
「寄っています」
紗夜が答えると、部屋の隅で誰かが息を飲んだ。
「それから、命令ではなく、気遣うように」
「気遣うようにとは」
「たとえば、寒くはないか、と」
暁仁は少し間を置き、硬い声で言った。
「寒くはないか」
「尋問のようです」
暁仁の視線が冷えた。
「お前は本当に命が惜しくないらしい」
「契約中は、ある程度保証されているかと」
「場合による」
それでも暁仁は、声を少しだけ和らげた。
「寒くはないか、紗夜」
名を呼ばれた瞬間、紗夜の胸が小さく跳ねた。
演技だ。
そうわかっているのに、名前の響きだけが妙に残った。
縁側の向こうで、衣擦れの音がした。
誰かが見ている。
暁仁は紗夜の髪に手を伸ばし、こめかみに触れる寸前で止めた。
「糸くずがついている」
彼は白い糸を取り、すぐに手を離した。
たったそれだけの仕草なのに、後宮中に広まるには十分だった。
午後、藤壺の方が花見の席を設けた。
まだ藤の花は咲いていない。枝には色とりどりの造花が結ばれ、遠目には花盛りのように見えた。
偽りの花。
紗夜は、この席にふさわしいと思った。
暁仁は紗夜を半歩後ろではなく、隣に立たせた。妃候補たちの間に、小さなどよめきが走る。
「紗夜が後宮に慣れぬようなのでな」
暁仁が淡々と言う。
紗夜は小声で囁いた。
「もう少し柔らかく」
暁仁は一瞬だけ紗夜を見た。
「……心細かろうと思い、共に来た」
その言葉に、妃候補たちの表情が変わった。
藤壺の方は扇の陰で笑ったが、その目は笑っていなかった。
「紗夜さまは、帝に大切にされていらっしゃるのですね」
嘘。
声の奥には、嫉妬と警戒が混じっていた。
やがて、女官が菓子を運んできた。
紗夜の前に置かれた白い餅菓子。その匂いに、毒も呪符もない。だが、嘘の気配があった。
紗夜は箸で餅菓子を割る。
中から、小さく折りたたまれた紙が出てきた。
庭の空気が凍る。
紙には、一文だけ書かれていた。
――帝の寵を得たければ、帝の嘘を暴け。
暁仁の表情が消えた。
紗夜は紙をたたみ、静かに言った。
「この指示には従いません」
暁仁が紗夜を見る。
「私は、後宮の嘘を見抜くためにここにおります。ですが、帝ご自身の嘘だけは暴きません。誰に促されても、同じです」
藤壺の方の笑みが、一瞬だけ消えた。
暁仁は紗夜の手から紙を受け取る。その指が、紗夜の指に触れた。
冷たい。
けれど今度は、すぐには離れなかった。
「戻るぞ、紗夜」
「はい」
人目がなくなり、殿舎の襖が閉まった瞬間、暁仁は手を離した。
「すまない」
「今、何と」
「手を取ったことだ。必要だった」
帝が謝った。
紗夜は、どう返せばいいかわからなかった。
「帝」
「何だ」
「寵愛の演技としては、先ほどが一番自然でした」
「そうか」
「ですが、謝るのは演技ではなかったように見えました」
暁仁は黙った。
その沈黙に、嘘の匂いはなかった。
その夜、後宮には新しい噂が流れた。
帝は白藤紗夜の手を取った。
帝は、あの異能の娘を信じている。
帝は、本当に寵愛しているらしい。
どれも真実ではない。
けれど、完全な嘘とも言い切れなかった。
紗夜は自分の手のひらを見つめた。
愛さない契約。
愛されないための条件。
偽りの寵愛。
そのはずだった。
けれど紗夜は、この日ひとつだけ嘘をついた。
これは演技だから、何も感じていない。
そう、自分に言い聞かせたことが。
「昨夜も帝に呼ばれたそうよ」
「書庫への出入りまで許されたとか」
「本当に寵を受けているのかしら」
白藤紗夜は、御簾の向こうから流れてくる声を聞こえないふりで受け流した。
後宮の悪意は、白藤家のものより柔らかい。けれど、柔らかい絹に包まれているだけで、刃であることに変わりはなかった。
「紗夜さま」
前を歩く朱音が低く告げた。
「帝がお呼びです」
昨日までは夜の密かな呼び出しだった。だが今日は朝、人目のある時間である。
紗夜はすぐに察した。
これは呼び出しではない。見せるための演出だ。
帝の殿舎へ入ると、龍瀬暁仁は庭に面した縁側に立っていた。朝の光を背に受けた横顔は、いつもより少し青白い。
「来たか」
「お召しと伺いました」
「近くへ」
その一言に、控えていた侍従たちの気配が変わった。
紗夜は暁仁のそばへ進む。近づくほどに、彼の衣から雨上がりの杉のような冷たい香がした。
「昨夜は、よく眠れたか」
「……はい」
「そうか」
会話が途切れる。
紗夜は小声で言った。
「帝」
「何だ」
「寵愛しているふりをなさるなら、もう少し自然に会話を続けた方がよろしいかと」
暁仁の眉がわずかに動いた。
「聞こえているぞ」
「聞こえるように申し上げました」
「大胆だな」
「演技が途切れるよりは」
暁仁はしばらく黙った。
「では、どうすればいい」
「まず、眉間のしわをお消しください」
「寄せていない」
「寄っています」
紗夜が答えると、部屋の隅で誰かが息を飲んだ。
「それから、命令ではなく、気遣うように」
「気遣うようにとは」
「たとえば、寒くはないか、と」
暁仁は少し間を置き、硬い声で言った。
「寒くはないか」
「尋問のようです」
暁仁の視線が冷えた。
「お前は本当に命が惜しくないらしい」
「契約中は、ある程度保証されているかと」
「場合による」
それでも暁仁は、声を少しだけ和らげた。
「寒くはないか、紗夜」
名を呼ばれた瞬間、紗夜の胸が小さく跳ねた。
演技だ。
そうわかっているのに、名前の響きだけが妙に残った。
縁側の向こうで、衣擦れの音がした。
誰かが見ている。
暁仁は紗夜の髪に手を伸ばし、こめかみに触れる寸前で止めた。
「糸くずがついている」
彼は白い糸を取り、すぐに手を離した。
たったそれだけの仕草なのに、後宮中に広まるには十分だった。
午後、藤壺の方が花見の席を設けた。
まだ藤の花は咲いていない。枝には色とりどりの造花が結ばれ、遠目には花盛りのように見えた。
偽りの花。
紗夜は、この席にふさわしいと思った。
暁仁は紗夜を半歩後ろではなく、隣に立たせた。妃候補たちの間に、小さなどよめきが走る。
「紗夜が後宮に慣れぬようなのでな」
暁仁が淡々と言う。
紗夜は小声で囁いた。
「もう少し柔らかく」
暁仁は一瞬だけ紗夜を見た。
「……心細かろうと思い、共に来た」
その言葉に、妃候補たちの表情が変わった。
藤壺の方は扇の陰で笑ったが、その目は笑っていなかった。
「紗夜さまは、帝に大切にされていらっしゃるのですね」
嘘。
声の奥には、嫉妬と警戒が混じっていた。
やがて、女官が菓子を運んできた。
紗夜の前に置かれた白い餅菓子。その匂いに、毒も呪符もない。だが、嘘の気配があった。
紗夜は箸で餅菓子を割る。
中から、小さく折りたたまれた紙が出てきた。
庭の空気が凍る。
紙には、一文だけ書かれていた。
――帝の寵を得たければ、帝の嘘を暴け。
暁仁の表情が消えた。
紗夜は紙をたたみ、静かに言った。
「この指示には従いません」
暁仁が紗夜を見る。
「私は、後宮の嘘を見抜くためにここにおります。ですが、帝ご自身の嘘だけは暴きません。誰に促されても、同じです」
藤壺の方の笑みが、一瞬だけ消えた。
暁仁は紗夜の手から紙を受け取る。その指が、紗夜の指に触れた。
冷たい。
けれど今度は、すぐには離れなかった。
「戻るぞ、紗夜」
「はい」
人目がなくなり、殿舎の襖が閉まった瞬間、暁仁は手を離した。
「すまない」
「今、何と」
「手を取ったことだ。必要だった」
帝が謝った。
紗夜は、どう返せばいいかわからなかった。
「帝」
「何だ」
「寵愛の演技としては、先ほどが一番自然でした」
「そうか」
「ですが、謝るのは演技ではなかったように見えました」
暁仁は黙った。
その沈黙に、嘘の匂いはなかった。
その夜、後宮には新しい噂が流れた。
帝は白藤紗夜の手を取った。
帝は、あの異能の娘を信じている。
帝は、本当に寵愛しているらしい。
どれも真実ではない。
けれど、完全な嘘とも言い切れなかった。
紗夜は自分の手のひらを見つめた。
愛さない契約。
愛されないための条件。
偽りの寵愛。
そのはずだった。
けれど紗夜は、この日ひとつだけ嘘をついた。
これは演技だから、何も感じていない。
そう、自分に言い聞かせたことが。



