龍瀬暁仁からの呼び出しは、紗夜が呪符事件の報告書を書き終えた夜に届いた。
朱音に導かれ、紗夜は昨夜と同じ殿舎へ向かった。後宮の廊下は静まり返り、昼間の茶会で聞いた女たちの笑い声が嘘のようだった。
「白藤紗夜さまをお連れいたしました」
「入れ」
低い声が返る。
襖の奥で、暁仁は文机の前に座っていた。机上には紗夜の報告書、菊乃から取り上げた文箱、そして赤黒い呪符が置かれている。
「座れ」
「はい」
紗夜が膝をつくと、暁仁は報告書を指先で軽く叩いた。
「読んだ。短いな」
「必要なことだけを書きました」
「藤壺の名がない」
紗夜は黙った。
「お前は、あの女が何も知らぬと思ったのか」
「思っておりません」
「ならば、なぜ書かなかった」
「確証がないからです」
暁仁の目が細くなる。
「お前は嘘を見抜けるのだろう」
「嘘をついたことと、呪符を仕掛けたことは同じではありません」
紗夜は静かに答えた。
「藤壺の方は、何かを知っていたかもしれません。ですが、呪符を用意したとはまだ言えません」
「慎重だな」
「臆病なだけです」
「昼間、妃候補たちの前で呪符を見破った娘が?」
「怖かったから、声を荒らしませんでした。怖かったから、すぐに誰かを断罪しませんでした」
暁仁は黙った。
その沈黙は、怒りではなかった。紗夜を見極めている沈黙だった。
「この呪符を見ろ」
暁仁が言った。
紗夜は文机の上の呪符を見る。赤黒い墨で書かれた文字は荒いが、込められた力は強い。
「菊乃さまが遊び半分で作れるものではありません」
「そうだ」
「誰かが、彼女に渡したのですね」
「文箱には差出人がない」
暁仁は小さな文箱を開いた。底に削られたような傷がある。
「この傷……紋を消した跡です」
「よく気づいたな」
「白藤家では古い道具ばかり使っていました。傷を見る癖があります」
暁仁の指が、呪符のそばで一瞬止まった。
紗夜はその変化を見逃さなかった。
帝は、この呪符に心当たりがある。
「帝」
「何だ」
「この呪符を、ご存じなのですね」
室内の空気が冷えた。
「契約を忘れたか」
暁仁の声が低くなる。
「俺の嘘を探るなと言った」
紗夜はすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません。今の問いは取り消します」
暁仁はしばらく何も言わなかった。
「お前は、どこまで見えている」
「見えたものすべてを申し上げるつもりはありません」
「なぜだ」
「契約ですから」
暁仁の視線が、紗夜に注がれる。
紗夜は顔を上げた。
「私は、後宮の嘘を見抜くために参りました。帝の嘘を暴くためではありません」
「俺の秘密を盾に、取り入ろうとは思わぬのか」
「私は、帝に愛されない契約を結びました」
暁仁の表情がわずかに動いた。
「だから、取り入る必要がありません」
「では、お前は何が欲しい」
紗夜は少し考えた。
「静かな場所が欲しいです」
「静かな場所?」
「嘘を見抜いても、すぐに叫ばなくていい場所。真実を知っても、それを武器にしなくていい場所。誰かに愛されるために、自分を曲げなくていい場所です」
暁仁はしばらく紗夜を見ていた。
「この後宮に、そんな場所はない」
「ならば、せめて自分の中に作ります」
暁仁が小さく息を吐いた。
「厄介な娘だ」
「よく言われます」
「褒めてはいない」
「存じております」
その時、暁仁が低く咳き込んだ。
紗夜は顔を上げる。
「帝?」
「何でもない」
嘘。
腐った花のような匂いがした。
暁仁は袖で口元を押さえている。指先が白い。何でもなくはない。けれど、紗夜はそれ以上尋ねなかった。
帝自身の嘘だけは、決して暴いてはならない。
それが契約だった。
「何も、お聞きしません」
紗夜が言うと、暁仁は袖を下ろした。
「見えているのに、言わぬのだな」
「契約ですから」
「守れない契約なら、最初から結ばない、か」
昨夜の言葉を覚えていたのだと気づき、紗夜は少し驚いた。
暁仁は文机から一枚の紙を取り、何かを書きつける。
「明日から、後宮の書庫への出入りを許す」
「書庫、ですか」
「白藤沙月に関する記録も、そこに一部ある」
紗夜の胸が強く鳴った。
「母の記録が……」
「ただし、勝手に持ち出すな。朱音を伴え。呪符についても調べろ。過去に似た符が使われていないか、記録を当たれ」
「承知しました」
紗夜は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。契約の一部だ」
その言葉には、わずかに嘘の匂いがした。
紗夜は気づいた。
けれど、言わなかった。
帝の嘘だけは暴かない。
それが、自分の役目だから。
「下がれ」
「はい」
襖の前まで進んだ時、暁仁が言った。
「紗夜」
「はい」
「真実を伏せる優しさは、時に毒になる。覚えておけ」
紗夜は小さく頷いた。
「はい。まだ、知っている途中です」
部屋を出ると、夜の風が頬を撫でた。
朱音とともに東の離れへ戻りながら、紗夜は暁仁の咳と、白く強張った指先を思い出していた。
何でもない。
あれは嘘だった。
だが、紗夜は暴かなかった。
契約だから。
そう思う一方で、胸の奥に別の問いが生まれていた。
帝の嘘だけは暴かない。
その一文は、いったい誰を守るためのものなのだろう。
暁仁か。
紗夜か。
それとも、この後宮そのものか。
まだ答えは見えない。
けれど紗夜は知ってしまった。
帝の嘘の奥には、冷たさだけではない。
誰にも見せられない痛みがある。
朱音に導かれ、紗夜は昨夜と同じ殿舎へ向かった。後宮の廊下は静まり返り、昼間の茶会で聞いた女たちの笑い声が嘘のようだった。
「白藤紗夜さまをお連れいたしました」
「入れ」
低い声が返る。
襖の奥で、暁仁は文机の前に座っていた。机上には紗夜の報告書、菊乃から取り上げた文箱、そして赤黒い呪符が置かれている。
「座れ」
「はい」
紗夜が膝をつくと、暁仁は報告書を指先で軽く叩いた。
「読んだ。短いな」
「必要なことだけを書きました」
「藤壺の名がない」
紗夜は黙った。
「お前は、あの女が何も知らぬと思ったのか」
「思っておりません」
「ならば、なぜ書かなかった」
「確証がないからです」
暁仁の目が細くなる。
「お前は嘘を見抜けるのだろう」
「嘘をついたことと、呪符を仕掛けたことは同じではありません」
紗夜は静かに答えた。
「藤壺の方は、何かを知っていたかもしれません。ですが、呪符を用意したとはまだ言えません」
「慎重だな」
「臆病なだけです」
「昼間、妃候補たちの前で呪符を見破った娘が?」
「怖かったから、声を荒らしませんでした。怖かったから、すぐに誰かを断罪しませんでした」
暁仁は黙った。
その沈黙は、怒りではなかった。紗夜を見極めている沈黙だった。
「この呪符を見ろ」
暁仁が言った。
紗夜は文机の上の呪符を見る。赤黒い墨で書かれた文字は荒いが、込められた力は強い。
「菊乃さまが遊び半分で作れるものではありません」
「そうだ」
「誰かが、彼女に渡したのですね」
「文箱には差出人がない」
暁仁は小さな文箱を開いた。底に削られたような傷がある。
「この傷……紋を消した跡です」
「よく気づいたな」
「白藤家では古い道具ばかり使っていました。傷を見る癖があります」
暁仁の指が、呪符のそばで一瞬止まった。
紗夜はその変化を見逃さなかった。
帝は、この呪符に心当たりがある。
「帝」
「何だ」
「この呪符を、ご存じなのですね」
室内の空気が冷えた。
「契約を忘れたか」
暁仁の声が低くなる。
「俺の嘘を探るなと言った」
紗夜はすぐに頭を下げた。
「申し訳ありません。今の問いは取り消します」
暁仁はしばらく何も言わなかった。
「お前は、どこまで見えている」
「見えたものすべてを申し上げるつもりはありません」
「なぜだ」
「契約ですから」
暁仁の視線が、紗夜に注がれる。
紗夜は顔を上げた。
「私は、後宮の嘘を見抜くために参りました。帝の嘘を暴くためではありません」
「俺の秘密を盾に、取り入ろうとは思わぬのか」
「私は、帝に愛されない契約を結びました」
暁仁の表情がわずかに動いた。
「だから、取り入る必要がありません」
「では、お前は何が欲しい」
紗夜は少し考えた。
「静かな場所が欲しいです」
「静かな場所?」
「嘘を見抜いても、すぐに叫ばなくていい場所。真実を知っても、それを武器にしなくていい場所。誰かに愛されるために、自分を曲げなくていい場所です」
暁仁はしばらく紗夜を見ていた。
「この後宮に、そんな場所はない」
「ならば、せめて自分の中に作ります」
暁仁が小さく息を吐いた。
「厄介な娘だ」
「よく言われます」
「褒めてはいない」
「存じております」
その時、暁仁が低く咳き込んだ。
紗夜は顔を上げる。
「帝?」
「何でもない」
嘘。
腐った花のような匂いがした。
暁仁は袖で口元を押さえている。指先が白い。何でもなくはない。けれど、紗夜はそれ以上尋ねなかった。
帝自身の嘘だけは、決して暴いてはならない。
それが契約だった。
「何も、お聞きしません」
紗夜が言うと、暁仁は袖を下ろした。
「見えているのに、言わぬのだな」
「契約ですから」
「守れない契約なら、最初から結ばない、か」
昨夜の言葉を覚えていたのだと気づき、紗夜は少し驚いた。
暁仁は文机から一枚の紙を取り、何かを書きつける。
「明日から、後宮の書庫への出入りを許す」
「書庫、ですか」
「白藤沙月に関する記録も、そこに一部ある」
紗夜の胸が強く鳴った。
「母の記録が……」
「ただし、勝手に持ち出すな。朱音を伴え。呪符についても調べろ。過去に似た符が使われていないか、記録を当たれ」
「承知しました」
紗夜は深く頭を下げた。
「ありがとうございます」
「礼を言うな。契約の一部だ」
その言葉には、わずかに嘘の匂いがした。
紗夜は気づいた。
けれど、言わなかった。
帝の嘘だけは暴かない。
それが、自分の役目だから。
「下がれ」
「はい」
襖の前まで進んだ時、暁仁が言った。
「紗夜」
「はい」
「真実を伏せる優しさは、時に毒になる。覚えておけ」
紗夜は小さく頷いた。
「はい。まだ、知っている途中です」
部屋を出ると、夜の風が頬を撫でた。
朱音とともに東の離れへ戻りながら、紗夜は暁仁の咳と、白く強張った指先を思い出していた。
何でもない。
あれは嘘だった。
だが、紗夜は暴かなかった。
契約だから。
そう思う一方で、胸の奥に別の問いが生まれていた。
帝の嘘だけは暴かない。
その一文は、いったい誰を守るためのものなのだろう。
暁仁か。
紗夜か。
それとも、この後宮そのものか。
まだ答えは見えない。
けれど紗夜は知ってしまった。
帝の嘘の奥には、冷たさだけではない。
誰にも見せられない痛みがある。



