愛さない契約妃は、龍帝の嘘を暴かない

 後宮の朝は、鳥の声より先に衣擦れの音で始まった。

 白藤紗夜は、東の離れで目を覚ました。白藤家の薄暗い部屋とは違い、障子には淡い光が差し、畳は青く、衣桁には新しい小袖がかけられている。

 白地に薄青の藤が流れる小袖だった。

「お目覚めですか」

 朱音が湯を運んで入ってきた。

「本日より、紗夜さまには後宮での作法を覚えていただきます」

「私に務まるでしょうか」

「務めていただかねば困ります」

 その正直さに、紗夜は少しだけ安心した。

 朱音に髪を結われ、小袖に袖を通す。鏡の中には、白藤家で忌み子と呼ばれていた娘ではなく、帝に選ばれた妃のふりをする女がいた。

「これから、藤壺の方のお茶会へ参ります」

「私を見定める場ですね」

「はい」

 朱音は否定しなかった。

 後宮の庭は美しかった。池には蓮の葉が浮かび、朱の橋が水面に影を落としている。だが、御簾の陰から届く囁きは甘くない。

「あれが、昨夜召された方?」

「没落した祓い師の娘でしょう」

「帝も変わったお方ね」

 紗夜は黙って歩いた。

 悪意はある。だが、まだ嘘ではない。怖いのは、笑顔の奥に隠された嘘の方だ。

 茶会の座敷には、色とりどりの衣をまとった妃候補たちが集まっていた。その中央にいたのが、藤壺の方だった。

「まあ、あなたが白藤紗夜さま。お会いしたいと思っておりましたの」

 柔らかな声。穏やかな笑み。

 けれど、紗夜の鼻先には、かすかに腐った花の匂いが届いた。

 嘘だ。

 会いたかったのではない。見極めたかったのだ。

「お招きいただき、ありがとうございます」

 紗夜は静かに頭を下げた。

 妃候補たちは次々と笑いかけてくる。

「白藤家は祓いの名家でいらしたとか」

「帝に選ばれるほどですもの、特別なお力がおありなのね」

「わたくしたち、何もかも見透かされてしまうのかしら」

 言葉は華やかだった。けれど、その一つ一つに棘がある。

 後宮は、花で刃を包む場所なのだと紗夜は思った。

 やがて、女官が茶を運んできた。

 紗夜の前に置かれた茶碗からは、よい香りがした。だが膳に手を伸ばした瞬間、紗夜は別の匂いに気づく。

 嘘ではない。

 湿った紙と、焦げた髪のような匂い。

 紗夜は茶碗を持つふりをして、膳の裏を見た。

 そこには、小さな呪符が貼られていた。

 赤黒い墨で書かれた符。口をつけた者の気を乱し、人前で醜態をさらさせる類のものだ。

「どうなさいました?」

 藤壺の方が微笑む。

「お口に合いませんか」

 その言葉に嘘はない。だが、藤壺の方は何かを知っている。

 紗夜は茶を飲まなかった。

 代わりに膳を持ち上げ、裏返した。

「これは、どなたのものでしょう」

 座敷の空気が凍った。

 呪符を見た妃候補たちが、一斉に息を飲む。その中で、黄色の小袖を着た若い娘だけが、香袋を握りしめていた。

「違います」

 娘は、紗夜が何も言わないうちに叫んだ。

 嘘。

「私は何もしていません」

 嘘。

「そんなもの、見たこともありません」

 嘘。

 紗夜は娘を見た。

「あなたですね」

「証拠もないのに」

「嘘をつくたびに、香袋を握っています。その紐に、同じ赤黒い墨がついています」

 女官が香袋を確かめると、紐の内側に墨の染みがあった。

 娘の顔が青ざめる。

「私は……ただ、確かめたかっただけです。帝がなぜ、急にあなたをお選びになったのか。皆、不安だったのです」

 その声に、今度は嘘の匂いがしなかった。

 紗夜は娘の目を見た。そこにあったのは、悪意だけではない。選ばれなければ家に戻される恐れ。後宮で価値のない花として枯れていく恐れ。

「お名前は」

「……菊乃です」

「菊乃さま。この呪符をどなたから受け取りましたか」

 菊乃は震えた。

「朝、文箱に入っていました。これを使えば、新しい妃の本性がわかる、と」

 嘘ではなかった。

 だが、全部の真実でもない。

 藤壺の方の扇が、ぴたりと止まる。

 紗夜はその動きを見逃さなかったが、今は踏み込まなかった。後宮に来たばかりの自分には、まだ誰がどこまでつながっているのかわからない。

「この件は、帝に報告いたします」

 菊乃が床に手をついた。

「お許しください。私、家には戻れないのです」

 紗夜はすぐには答えなかった。

 許すことはできない。だが、ここで菊乃だけを斬り捨てれば、真実はそこで途切れる。

「私は、あなたを見せしめにしたいわけではありません」

 紗夜は静かに言った。

「ただし、文箱は帝に渡してください」

「……はい」

 茶会は、それ以上華やかには戻らなかった。

 妃候補たちは笑みを消し、紗夜を盗み見た。先ほどまでの侮りの代わりに、恐れと計算が混じっている。

 藤壺の方だけが、変わらず微笑んでいた。

「紗夜さまは、不思議な方ね。ご自分を害そうとした方を、すぐには斬り捨てない」

「斬り捨てれば、真実がそこで途切れます」

 紗夜は藤壺の方を見た。

「私は、嘘を見抜くためにここへ来ました。誰かを見せしめにするためではありません」

 藤壺の方の目が、ほんのわずかに細くなった。

 茶会が終わり、東の離れへ戻る途中、朱音が小さく言った。

「なぜ、菊乃さまを庇われたのですか」

「庇ったわけではありません」

「ですが、あの場で強く責めれば、退けることもできました」

「嘘をついた人が、すべて悪い人とは限りません」

 紗夜は池に揺れる蓮の葉を見た。

「けれど、嘘を利用する人はいます。私は、そちらを見つけたい」

 東の離れに戻ると、文机の上に黒い箱が置かれていた。中には紙と筆、そして帝の龍印が入っている。

「帝への報告にお使いください」

 朱音が言った。

 紗夜は筆を取った。

 どこまで書くべきか迷いながら、最初の一行を記す。

 ――後宮の花は、皆、嘘をつきます。

 菊乃の名。呪符。文箱。藤壺の方の反応。妃候補たちの恐れ。

 すべてを書き終え、紗夜は龍印を押した。

 窓の外では、藤棚の蔓が複雑に絡み合っている。花はまだ咲いていない。ただ、どこからどこまでが一本なのかわからないほど、蔓だけが伸びていた。

 後宮も同じだ。

 美しい花の下で、誰かが糸を引いている。

 紗夜は今日、ひとつだけ学んだ。

 後宮の花は、嘘をつく。

 だが本当に恐ろしいのは、花ではない。

 花に嘘を教える、見えない手の方だ。