愛さない契約妃は、龍帝の嘘を暴かない


 後宮の門は、夜に見ると水底のようだった。

 朱塗りの門に彫られた金の龍が、灯籠の火を受けて揺れている。白藤紗夜はその門を見上げ、そっと息を吸った。

 白藤家を出る時、継母は最後まで見送りに出なかった。義妹の千鶴は「どうせすぐ追い返されるわ」と言った。

 嘘ではなかった。

 千鶴は本気でそう思っていた。

「白藤紗夜さまですね」

 門の内側で待っていた女官が、静かに頭を下げた。

「朱音と申します。帝がお待ちです」

 案内された後宮は、美しかった。白砂の庭、池に映る月、薄絹の御簾。けれど紗夜には、その華やかさの奥に沈む嘘の匂いがわかった。

 香の匂いに紛れて、腐った花のような気配がする。

 ここは、嘘が咲く場所なのだ。

 奥の殿舎に通されると、黒漆の文机の向こうに若い男が座っていた。

 龍瀬暁仁。

 瑞華国の帝。

 深い藍の直衣をまとったその人は、美しいというより、静かな刃のようだった。

「白藤紗夜か」

「はい」

「顔を上げろ」

 紗夜が顔を上げると、暁仁は彼女の擦り切れた袖口を見た。

「ずいぶん粗末な支度だな」

「急なお召しでしたので」

「白藤家は困窮しているのか」

「はい」

 正直に答えると、暁仁の眉がわずかに動いた。

「隠さないのだな」

「隠しても、事実は変わりません」

 暁仁はしばらく紗夜を見ていたが、やがて文机の上から一枚の紙を取った。

「お前の力を試す。俺が三つ言う。嘘を見抜け」

「承知しました」

「一つ。俺はお前に会うのを楽しみにしていた」

「嘘です」

「早いな」

「嘘は匂います。少し腐った花のように」

 暁仁は笑わなかった。

「二つ。俺はお前を妃にしたい」

「真実です」

「三つ。俺はお前を愛するつもりはない」

「真実です」

 答えると、暁仁は紙を紗夜の前へ置いた。

「使えるな」

 その声は、道具の切れ味を確かめるように冷たかった。

「白藤紗夜。お前に契約を命じる。一年間、俺の妃となれ」

 紗夜は瞬きを忘れた。

「妃……でございますか」

「名目上の妃だ。後宮に、俺を害そうとする者がいる。毒か、呪詛か、謀反か。お前は後宮に入り、嘘を見抜け」

「一年後は」

「離縁する。白藤家には金を渡す。お前には離縁後の暮らしを保証する」

 暁仁は淡々と続けた。

「さらに、お前の母の汚名を雪ぐ手立ても考える」

 紗夜の胸が揺れた。

 母はかつて、宮中の祓いに関わり、罪を着せられたと聞いている。母は罪人ではない。紗夜はずっと、そう信じてきた。

 暁仁は契約書を指で押さえた。

「条件は三つ。一つ、白藤紗夜は一年間、龍瀬暁仁の契約妃となる。二つ、後宮内の嘘、呪詛、謀反の兆しを見抜き、帝に報告する。三つ」

 暁仁の声が低くなった。

「帝自身の嘘だけは、決して暴いてはならない」

 紗夜は顔を上げた。

「なぜですか」

「理由を知る必要はない」

 その言葉に、薄墨の影が滲んだ。

 嘘だ。

 けれど紗夜は、口にしなかった。

「私が破れば」

「契約は打ち切る。場合によっては、命も保証しない」

 今度は嘘ではなかった。

 紗夜は契約書を見つめた。

 一年間だけ妃になる。後宮の嘘を見抜く。帝の嘘だけは暴かない。

 危うい契約だ。

 けれど、自由と母の名誉が手に入るかもしれない。

「お受けします」

 暁仁が筆を取ろうとした、その時だった。

「ただし」

 暁仁の手が止まる。

「私からも、条件があります」

「言ってみろ」

 紗夜はまっすぐ暁仁を見た。

「私を愛さないでください」

 室内が静まり返った。

 朱音が息を飲む。

 暁仁の目に、初めてわずかな揺らぎが走った。

「俺は最初から、お前を愛するつもりはないと言った」

「はい。ですから、契約書にも明記してください」

「なぜだ」

「愛という言葉で、女を縛る男を何人も見てきました。愛しているから黙っていろ。愛しているから我慢しろ。愛しているから許せ。そう言われて、身動きできなくなった女を、私は知っています」

 紗夜は膝の上で指を重ねた。

「役目なら果たします。妃のふりもします。けれど、愛を理由に私の自由を奪うことだけは、許しません」

 暁仁はしばらく黙っていた。

 そして、低く言った。

「おかしな娘だな。普通は、帝に愛されたいと願うものだ」

「私は普通ではありません」

「愛されぬ妃になって、何が得られる」

「私自身を失わずにすみます」

 その瞬間、暁仁の視線が変わった。

 道具を見る目ではなく、一人の人間を見る目だった。

「よかろう」

 暁仁は契約書の末尾に一文を書き加えた。

 龍瀬暁仁は、白藤紗夜を愛さず、愛を理由に拘束しない。

「これでよいか」

「はい」

 紗夜は筆を取り、契約書に名を書いた。

 白藤紗夜。

 続いて暁仁も名を書く。

 龍瀬暁仁。

 二つの名が、同じ紙の上に並んだ。

「今日よりお前は、俺の契約妃だ」

「承知しました」

「後宮では、俺がお前を選んだことになっている。妃候補たちは、お前を敵と見るだろう」

「慣れております」

「何に」

「敵意を向けられることに」

 暁仁は返事をしなかった。

 ただ、ほんの少しだけ空気が揺れた。

「朱音。紗夜を東の離れへ」

「承知いたしました」

 立ち上がろうとした紗夜に、暁仁が言った。

「覚えておけ。この後宮では、真実を口にした者から死ぬ」

 その言葉に、嘘の匂いはしなかった。

 紗夜は静かに頷いた。

「でしたら、私はすぐには死にません」

「なぜそう言える」

「私は、真実を全部口にするほど愚かではありません」

 暁仁の口元が、ほんのわずかに緩んだ。

 笑みと呼ぶには短い。けれど紗夜は、それを見逃さなかった。

 帝は、笑うことがある。

 その事実が、契約書よりも不思議だった。

 廊下に出ると、夜風が頬を撫でた。

 朱音が隣でぽつりと言う。

「帝に条件を出した方を、初めて見ました」

「契約なら、双方に条件があるものではありませんか」

「後宮では、そう考える者は少ないのです」

 紗夜は庭の池に映る月を見た。

 私は、あなたを愛さない。

 あなたも、私を愛さない。

 それでいい。

 それが、私を守るはずだった。

 この夜の紗夜は、まだ知らない。

 愛さないと書かれた契約ほど、人の心を試すものはないのだと。