後宮を出た夜、白藤紗夜は眠れなかった。
帝が用意した屋敷は静かで、清潔で、誰にも叱られない場所だった。白藤家にいた頃なら、それだけで救いだったはずだ。
けれど今、紗夜の胸を占めているのは安堵ではなかった。
文机の上には、母・沙月の手紙と、龍瀬暁仁から返された銀の簪がある。
――嘘を暴かず、痛みを分ける者が現れることを祈ります。
紗夜はその一文を、何度も読み返した。
契約は終わった。
離縁も告げられた。
だからもう、紗夜は帝の妃ではない。
それでも、暁仁が一人で嘘を抱えていることだけはわかっていた。
夜明け前、戸を叩く音がした。
立っていたのは朱音だった。
「紗夜さま。龍脈が乱れました。帝はお一人で祈祷殿に籠もられています」
紗夜は銀の簪を髪に挿した。
「行きます」
「ですが、離縁された方が後宮へ戻ることは……」
「契約妃として戻るのではありません」
紗夜は母の手紙を懐にしまった。
「白藤沙月の娘として、戻ります」
祈祷殿の前庭には、女官や妃候補たちが集められていた。
その中央に、藤壺の方が立っている。
「まあ。離縁された方が、なぜこちらへ?」
「祈祷殿に用があります」
「あなたには、もう何の権限もありませんわ」
「はい。私はもう契約妃ではありません」
紗夜は一歩進んだ。
「けれど、白藤沙月の娘です」
庭がざわめいた。
「母は罪人ではありません。幼い皇子を龍に喰われることから守り、そのために禁呪を使った罪を背負ったのです」
藤壺の方の笑みが消える。
「そのようなことを口にすれば、帝の秘密を暴くことになりますよ」
「いいえ」
紗夜は首を横に振った。
「私は、帝の嘘を暴きに来たのではありません」
その時、祈祷殿の奥から激しい咳が聞こえた。
「開けてください!」
官吏たちはためらった。
藤壺の方が鋭く言う。
「開けてはなりません。その娘が龍脈を乱しているのです」
「乱しているのは私ではありません」
紗夜は藤壺の方を見た。
「帝を器として縛り続けようとする、あなたです」
藤壺の方は、低く笑った。
「帝は器です。国を守るための器。帝が本心など持てば、国は乱れる」
「人を器にして守る国など、いつか必ず壊れます」
紗夜の声は震えなかった。
「嘘で人を縛れば、最後には誰も救えません」
朱音が前へ出た。
「私も証言します」
菊乃も続いた。
「私も、呪符のことを話します」
さらに、藤緒が震えながら頭を下げた。
「呪符も、香袋も、藤壺さまに命じられました」
藤壺の方が叫んだ。
「黙りなさい!」
その声に、もう優雅さはなかった。
官吏たちは祈祷殿の扉を開いた。
青白い光があふれる。
紗夜は中へ駆け込んだ。
祭壇の前で、暁仁が膝をついていた。龍玉には大きなひびが入り、床の紋様が激しく光っている。暁仁の口元には血が滲んでいた。
「暁仁さま」
初めて、紗夜は名を呼んだ。
暁仁が顔を上げる。
「来るな。お前は、もう……」
「契約妃ではありません。だから、命令には従いません」
「俺は、お前を守るために」
そこで言葉が途切れた。
龍が、彼の本心を喰おうとしている。
紗夜は暁仁の前に膝をついた。
「言えないなら、言わなくていいです」
「紗夜……」
「私は、あなたの嘘を暴きません。でも、あなたが一人で嘘を抱えることも、もう許しません」
紗夜は母の護符を取り出し、暁仁の手を握った。
「私は、あなたの妃ではなく、あなたの嘘を半分背負う者になります」
護符が白く光った。
その瞬間、胸を裂くような痛みが紗夜を貫いた。
暁仁が幼い頃から飲み込んできた恐れ。孤独。怒り。願い。言葉になる前に龍に喰われてきた本心が、紗夜の中へ流れ込んでくる。
苦しい。
けれど、一人で背負うよりは軽い。
暁仁が、紗夜の手を強く握り返した。
「紗夜」
声が出た。
血は吐かなかった。
「俺は、お前を手放したくなかった」
紗夜の目に涙が浮かぶ。
「守るためだと言いながら、ただ怖かった。お前が傷つくことが。お前が俺を、人として見てくれることが」
龍玉が低く鳴った。
暁仁は、苦しげに、それでもまっすぐ紗夜を見た。
「愛さない契約だった。だが、俺はお前を愛している」
祈祷殿がまばゆく光った。
痛みは走った。けれど龍は、暁仁を喰わなかった。紗夜も喰わなかった。
二人で分けた痛みは、少しずつ静まっていく。
暁仁は立ち上がり、祈祷殿の外へ向いた。
「藤壺。禁呪墨の不正使用、女官への脅迫、龍脈を乱した罪により、そなたを拘束する」
藤壺の方は叫んだ。
「その娘が、帝を弱くしたのです!」
紗夜は首を横に振った。
「弱さを隠す嘘を、少し減らしただけです」
藤壺の方は連れていかれた。
龍玉は、ひびを残したまま静かに光っている。
紗夜は懐から契約書を取り出した。
そこには、あの一文がある。
――龍瀬暁仁は、白藤紗夜を愛さず、愛を理由に拘束しない。
「この契約は、私を守るためのものでした」
紗夜は契約書を祭壇の火に近づけた。
「でも今はわかります。愛がすべて、人を縛るわけではありません」
紙に火が移る。
文字が燃えていく。
「人を縛る愛もある。人を自由にする愛もある」
暁仁は静かに尋ねた。
「俺は、お前を愛してもよいのか」
それは帝の命令ではなかった。
一人の人の問いだった。
紗夜は微笑んだ。
「愛を理由に私を閉じ込めないなら」
「閉じ込めない」
その言葉に、嘘の匂いはしなかった。
「なら、私も自分の意志で、あなたの隣にいます」
数日後、後宮の藤棚には花が咲いた。
白藤沙月の汚名は、少しずつ宮中の記録から改められていった。菊乃は後宮を去り、藤緒の弟は解放された。千鶴とは、まだすぐに姉妹に戻れたわけではない。それでも、嘘を挟まない沈黙が二人の間に生まれた。
藤の花の下で、暁仁が紗夜に言った。
「契約ではなく、俺の隣にいてほしい」
紗夜は少し笑った。
「では、私からも条件があります」
「またか」
「はい。私を、愛を理由に閉じ込めないでください」
「ああ」
「帝が嘘をついた時、私はすべてを暴くとは限りません。でも、見なかったことにも限界があります」
暁仁の口元が、わずかに緩んだ。
「厄介な妃だ」
「よく言われます」
紗夜は差し出された手を取った。
契約妃は、帝の嘘を暴かなかった。
代わりに、その嘘の半分を、自分の意志で背負った。
愛さない契約は、そこで終わった。
そして二人は、契約ではない夫婦として、もう一度始まった。
帝が用意した屋敷は静かで、清潔で、誰にも叱られない場所だった。白藤家にいた頃なら、それだけで救いだったはずだ。
けれど今、紗夜の胸を占めているのは安堵ではなかった。
文机の上には、母・沙月の手紙と、龍瀬暁仁から返された銀の簪がある。
――嘘を暴かず、痛みを分ける者が現れることを祈ります。
紗夜はその一文を、何度も読み返した。
契約は終わった。
離縁も告げられた。
だからもう、紗夜は帝の妃ではない。
それでも、暁仁が一人で嘘を抱えていることだけはわかっていた。
夜明け前、戸を叩く音がした。
立っていたのは朱音だった。
「紗夜さま。龍脈が乱れました。帝はお一人で祈祷殿に籠もられています」
紗夜は銀の簪を髪に挿した。
「行きます」
「ですが、離縁された方が後宮へ戻ることは……」
「契約妃として戻るのではありません」
紗夜は母の手紙を懐にしまった。
「白藤沙月の娘として、戻ります」
祈祷殿の前庭には、女官や妃候補たちが集められていた。
その中央に、藤壺の方が立っている。
「まあ。離縁された方が、なぜこちらへ?」
「祈祷殿に用があります」
「あなたには、もう何の権限もありませんわ」
「はい。私はもう契約妃ではありません」
紗夜は一歩進んだ。
「けれど、白藤沙月の娘です」
庭がざわめいた。
「母は罪人ではありません。幼い皇子を龍に喰われることから守り、そのために禁呪を使った罪を背負ったのです」
藤壺の方の笑みが消える。
「そのようなことを口にすれば、帝の秘密を暴くことになりますよ」
「いいえ」
紗夜は首を横に振った。
「私は、帝の嘘を暴きに来たのではありません」
その時、祈祷殿の奥から激しい咳が聞こえた。
「開けてください!」
官吏たちはためらった。
藤壺の方が鋭く言う。
「開けてはなりません。その娘が龍脈を乱しているのです」
「乱しているのは私ではありません」
紗夜は藤壺の方を見た。
「帝を器として縛り続けようとする、あなたです」
藤壺の方は、低く笑った。
「帝は器です。国を守るための器。帝が本心など持てば、国は乱れる」
「人を器にして守る国など、いつか必ず壊れます」
紗夜の声は震えなかった。
「嘘で人を縛れば、最後には誰も救えません」
朱音が前へ出た。
「私も証言します」
菊乃も続いた。
「私も、呪符のことを話します」
さらに、藤緒が震えながら頭を下げた。
「呪符も、香袋も、藤壺さまに命じられました」
藤壺の方が叫んだ。
「黙りなさい!」
その声に、もう優雅さはなかった。
官吏たちは祈祷殿の扉を開いた。
青白い光があふれる。
紗夜は中へ駆け込んだ。
祭壇の前で、暁仁が膝をついていた。龍玉には大きなひびが入り、床の紋様が激しく光っている。暁仁の口元には血が滲んでいた。
「暁仁さま」
初めて、紗夜は名を呼んだ。
暁仁が顔を上げる。
「来るな。お前は、もう……」
「契約妃ではありません。だから、命令には従いません」
「俺は、お前を守るために」
そこで言葉が途切れた。
龍が、彼の本心を喰おうとしている。
紗夜は暁仁の前に膝をついた。
「言えないなら、言わなくていいです」
「紗夜……」
「私は、あなたの嘘を暴きません。でも、あなたが一人で嘘を抱えることも、もう許しません」
紗夜は母の護符を取り出し、暁仁の手を握った。
「私は、あなたの妃ではなく、あなたの嘘を半分背負う者になります」
護符が白く光った。
その瞬間、胸を裂くような痛みが紗夜を貫いた。
暁仁が幼い頃から飲み込んできた恐れ。孤独。怒り。願い。言葉になる前に龍に喰われてきた本心が、紗夜の中へ流れ込んでくる。
苦しい。
けれど、一人で背負うよりは軽い。
暁仁が、紗夜の手を強く握り返した。
「紗夜」
声が出た。
血は吐かなかった。
「俺は、お前を手放したくなかった」
紗夜の目に涙が浮かぶ。
「守るためだと言いながら、ただ怖かった。お前が傷つくことが。お前が俺を、人として見てくれることが」
龍玉が低く鳴った。
暁仁は、苦しげに、それでもまっすぐ紗夜を見た。
「愛さない契約だった。だが、俺はお前を愛している」
祈祷殿がまばゆく光った。
痛みは走った。けれど龍は、暁仁を喰わなかった。紗夜も喰わなかった。
二人で分けた痛みは、少しずつ静まっていく。
暁仁は立ち上がり、祈祷殿の外へ向いた。
「藤壺。禁呪墨の不正使用、女官への脅迫、龍脈を乱した罪により、そなたを拘束する」
藤壺の方は叫んだ。
「その娘が、帝を弱くしたのです!」
紗夜は首を横に振った。
「弱さを隠す嘘を、少し減らしただけです」
藤壺の方は連れていかれた。
龍玉は、ひびを残したまま静かに光っている。
紗夜は懐から契約書を取り出した。
そこには、あの一文がある。
――龍瀬暁仁は、白藤紗夜を愛さず、愛を理由に拘束しない。
「この契約は、私を守るためのものでした」
紗夜は契約書を祭壇の火に近づけた。
「でも今はわかります。愛がすべて、人を縛るわけではありません」
紙に火が移る。
文字が燃えていく。
「人を縛る愛もある。人を自由にする愛もある」
暁仁は静かに尋ねた。
「俺は、お前を愛してもよいのか」
それは帝の命令ではなかった。
一人の人の問いだった。
紗夜は微笑んだ。
「愛を理由に私を閉じ込めないなら」
「閉じ込めない」
その言葉に、嘘の匂いはしなかった。
「なら、私も自分の意志で、あなたの隣にいます」
数日後、後宮の藤棚には花が咲いた。
白藤沙月の汚名は、少しずつ宮中の記録から改められていった。菊乃は後宮を去り、藤緒の弟は解放された。千鶴とは、まだすぐに姉妹に戻れたわけではない。それでも、嘘を挟まない沈黙が二人の間に生まれた。
藤の花の下で、暁仁が紗夜に言った。
「契約ではなく、俺の隣にいてほしい」
紗夜は少し笑った。
「では、私からも条件があります」
「またか」
「はい。私を、愛を理由に閉じ込めないでください」
「ああ」
「帝が嘘をついた時、私はすべてを暴くとは限りません。でも、見なかったことにも限界があります」
暁仁の口元が、わずかに緩んだ。
「厄介な妃だ」
「よく言われます」
紗夜は差し出された手を取った。
契約妃は、帝の嘘を暴かなかった。
代わりに、その嘘の半分を、自分の意志で背負った。
愛さない契約は、そこで終わった。
そして二人は、契約ではない夫婦として、もう一度始まった。



