愛さない契約妃は、龍帝の嘘を暴かない

 白藤紗夜は、人の嘘がわかる。

 声に色がつくわけでも、文字が浮かぶわけでもない。ただ、嘘を聞いた瞬間、空気が少し濁る。花が腐る前の、甘く重たい匂いがする。

「千鶴どのを、必ず幸せにいたします」

 座敷の上座で、若い男がそう言った。

 今日は、義妹・千鶴の縁談の顔合わせだった。相手は都の薬種商の次男。身なりはよく、笑みも柔らかい。継母の環は朝から機嫌がよく、「これで白藤家も持ち直す」と何度も口にしていた。

 紗夜は下座の端で、湯呑みを運び、酒を注ぎ、誰にも数えられない影のように控えていた。

「私には、千鶴どのだけです」

 また、嘘の匂いがした。

 紗夜は目を伏せる。黙っていればいい。母は昔、よく言っていた。

「真実は、いつも人を救うわけではありません」

 その母は、もういない。父もいない。残ったのは継母と義妹、借金まみれの屋敷、そして紗夜を忌み子と呼ぶ声だけだった。

 けれど、男の手首に結ばれた女物の組紐が見えた瞬間、紗夜の胸が冷えた。

 千鶴のものではない。都で流行っている高価な染め糸。さらに男は、嘘をつくたび右の親指で袖口を撫でていた。

「祝言の後は、都の屋敷へお連れします。妻となる方だけを、生涯大切にします」

 その言葉に、千鶴は頬を染めた。

 紗夜は唇を噛む。

 義妹は意地悪で、何度も紗夜を傷つけてきた。けれど今の千鶴は、ただ未来を信じている娘だった。

「その方は」

 紗夜の声に、座敷中の視線が集まった。

「千鶴を幸せにはできません」

「紗夜!」

 環の声が飛ぶ。

 紗夜は男を見た。

「都に、身重の女がいますね。その人にも同じことを言ったはずです。『お前だけを大切にする』と」

 男の顔から笑みが消えた。

「でたらめを!」

「その組紐は千鶴のものではありません。それに、あなたは嘘をつくたび袖口を撫でています」

 座敷が凍りついた。

 男は怒鳴り、膳を倒し、「この縁談はなかったことに」と言い捨てて屋敷を出ていった。

 門が閉まる音がした直後、紗夜の頬に鋭い痛みが走る。

「この疫病神!」

 環が紗夜を叩いていた。

「お前がいると、いつも家が壊れる!」

 千鶴も泣きながら紗夜をにらんだ。

「お姉さまのせいよ。お姉さまが全部壊したの」

 紗夜は何も言えなかった。

 正しいことを言ったはずなのに、誰も救えなかった。母の言葉が胸に沈む。

 真実は、いつも人を救うわけではない。

 その時、門の外で馬が鳴いた。

「白藤家の者はいるか」

 低い男の声が響く。やがて庭先に現れたのは、黒紋付きの直衣をまとった宮中の使者だった。腰には龍紋の太刀。背後には帝の使いを示す青い旗が揺れている。

「白藤家に、嘘を見抜く娘がいると聞いた」

 環の顔色が変わる。

「何かのお間違いではございませんか。この娘は、何の取り柄もない――」

「帝がお求めなのは、美しい娘でも、家柄のよい娘でもない」

 使者は紗夜をまっすぐ見た。

「嘘を見抜く娘だ。白藤紗夜どの、ただちに後宮へ参られよ」

 紗夜は息をのんだ。

 後宮。

 それは千鶴が夢見ていた場所。環が白藤家再興のために望んでいた場所。そして紗夜には、一生関わりのないはずの場所だった。

 使者は金の龍印が押された封書を差し出した。

「拒むことは許されぬ。今宵中に支度を」

 紗夜は震える手で封書を受け取る。

 封書からは、高貴な香の匂いがした。だが、嘘の匂いはしなかった。

 だからこそ、恐ろしかった。

 人を傷つける真実があるのなら、人を守る嘘もあるのだろうか。

 その答えを、紗夜はまだ知らない。

 ただ一つだけ、わかっていた。

 この日、紗夜は白藤家を出る。

 誰にも望まれなかった娘としてではなく、帝に呼ばれた娘として。

 そしてその先で、自分の力よりも厄介な嘘に出会うことになる。

 龍の座にいる、若き帝の嘘に。