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黒い靄に包まれて、自分が立っているのか座っているのか、寝ているのか起きているのかも分からない空間へやって来た。
知らないうちに気を失っていたらしい。
目を開けると、見覚えのない空間にきょろきょろと辺りを見渡した。
どこかの部屋のようだけれど、分からない。
「ん…ここ、は…?」
「やっと目覚めたのかい。相変わらずノロマね」
「っ…!?」
聞き覚えのある声にビクッと肩を震わせ、体が固まった。
息が浅くなり、呼吸の仕方も忘れてしまいそうだ。
「アンタ…太ったねぇ。家にいた時はガリガリで骨のようで気味が悪かったけど…太ったら太ったで醜い。豚のようじゃないか」
「っ…お…おかあ、様…」
酷い言葉を投げられ、両耳を塞ぎ小さく丸まりビクビクと怯えた。
これほど言われるのは、久しぶりだった。
玲司、朝霧家の腰元、奏斗、これまでの治癒で携わって来た人達、探霊一族の人々ーー思い返すだけで、温かく優しい言葉や態度が溢れ出る。
(そうーー私は最近、皆によくしてもらってたけど…本来私は、そんな綺麗な言葉を言ってもらえるような人間じゃ、ない…)
長年に渡り蓄積された酷い言葉が、この一瞬で澪の全てを埋め尽くすようだ。
「それに最近、先生って呼ばれて調子に乗ってるんだろ? お前は人に崇められるような存在じゃないよ。今は皆、物珍しい術に踊らされてるだけ。すぐ、気味の悪さに気付いて離れていくさ。朝霧家からも追い出されて、行く宛なんてなくなってしまう」
母の言葉が、朝霧家で受けた優しさや温かさをどんどん否定していった。
一層、耳を強く塞いだ。
「やだ…嫌っ…助けて、玲司様っ…」
ぎゅっと強く目を瞑り玲司の名を呼んだが、すぐにハッとした。
(私、どうしてーー今日だって、玲司様の迷惑になりたくなくて、お役に立ちたくて一人で行くと言ったのに…やはり、私はーー)
心が崩されそうになった時、なぜか黒い靄に亀裂が入った。
そこからだんだんと靄が溢れて消えて目の前に玲司の顔が現れた。
「お…み……っ、澪っ! しっかりしろ! 目を覚ませ!」
「玲司…様…?」
「良かった…間に合って。幻術にかかっていましたね……念のため来ていて正解でした」
現状が全く分からないままそう言われると、ただ呆然と彼を見つめていた。
「澪さん。あの依頼は、九条家が仕掛けた嘘だったんです。朝比奈が、改めて連絡をしたら依頼を出した覚えなどない、と。住所を改めて見たら、九条家の近くでもしや、と思ったんです」
安堵した途端、頭の中が真っ白になってしまった。
「それに、彼女から企みは言質を取ってます」
「彼女…? あっ…」
玲司がそう言うと、後方に視線を向けた。
澪も合わせるように見ると、そこには戸の影に隠れた罰の悪そうな顔をしている琴葉が立っていた。
「も…申し訳ありませんっ…お姉様っ」
澪と視線が合うと、慌てて駆け寄り涙を浮かべながら謝罪をした。
「えっ…? えぇ…? どういう、事…?」
現状をいまいち掴めず尋ねると、琴葉が重々しく口を開いた。
「最近、お姉様が食霊術を軸に治癒術も習得して、名が広まっていたのが、お父様達の耳に入って面白くなかったようで…それで、お姉様の心を壊して、二度と人を救えないようにと企んでいたんです…」
「許せない…澪さんが、どれだけの人を助けたと思っているんだ…!」
冷静な玲司が声を震わせ、沸々と怒りが湧いていた。
「私も知っていたのに、どうすれば良いか分からなくて…本当にごめんなさい…」
琴葉が深々と頭を下げて謝ると、澪は困ったように笑った。
「いいのよ。琴葉がいつも、お父様達が私に辛く当たるのを、とても苦しそうに見ていたのは知っているから」
「…へ?」
「なんとかしなきゃって、思ってたんでしょう? 貴女は優しいから」
澪がそう言って琴葉を慰めると、琴葉の目からは大粒の涙が溢れた。
「ごめんなさい…っ、ごめんなさいっ…」
「もう大丈夫だから。私もごめんなさい。うまく立ち回る方法がわからなくて、貴女を苦しめてた」
子どものように泣きじゃくる琴葉の頭を撫で、しばらくして落ち着くと玲司と澪は帰り支度を始めた。
「今回の一件は、次の会議で議題にします。探霊一族の妨害は、おそらく…何かしらの処罰が与えられると思います」
いくら嫁ぐ前に虐げられていたとはいえ、自身の実家に罪が与えられる事を言いにくそうにする玲司。
「それと、琴葉さん。もし、その処罰で不利益を被ることがあれば、朝霧家を訪ねて下さい」
「…え?」
「貴女は、澪さんの妹さんですからーー失礼します」
玲司が精一杯の気遣いを伝えると一礼した。
「お姉様…っ」
「…どうしたの?」
「幸せになって下さい。お姉様の幸せを心よりお祈り申し上げます」
「ありがとう」
最後に挨拶をして、玲司と澪は朝霧家への帰路についた。
しかし、澪は玲司の少し後ろを歩き彼の背中をただぼんやりと眺めていた。
「澪さん」
「はい…?」
「隣を歩いてくれませんか。少し話したくて」
「話…ですか…?」
玲司の言葉に、胸がきゅっと締め付けられた。
頭の中には『離縁』の二文字が浮かんでいた。
朝霧家に泥を塗るような騒動を起こした九条家。その娘である自分を、玲司が許すはずがないと思った。
「玲司様。私ーー受け入れる覚悟、できているつもり…なんですけど、っ…ごめんなさい」
玲司の言う通りに隣に並ぶと、これから始まるであろう話を聞く前に感情が溢れてしまった。
ぼろぼろと溢れる涙を堪えられない。
(玲司様の迷惑になってしまうのに…っ、止まれ、止まって…っ)
彼の目的は、澪が持つ『食霊術』という事は理解している。
当初、それだけでも嬉しかった。
忌み子と両親に蔑まれた力でも、求められてそばに置いてもらえるのが嬉しかった。
優しさや温かさを貰えるのが、心地よかった。
しかし、日々過ごすうちに彼の為にと思っていた気持ちに気づいてしまった。
役に立ちたいという思いだけで、ずっとそばにい続けたいと思ったからだという事に。
「え…っ!? み、澪さん…? どうしたんですか。先程かけられた幻術、それほど心が痛みますか…? どこが苦しいんですか…?」
突然泣き出した澪に、玲司が顔を覗き込みながら尋ねた。
「いえ…っ、それはもう…。玲司様、離縁を申し出るのでしょう…?」
泣きながら、恐る恐る尋ねた。
しかし、彼は眉間にシワを寄せて心底不思議そうにした。
「離縁…? 澪さんは、離縁をしたい…という事ですか」
澪から出た言葉に、玲司が低い声音でそう聞くと澪は首を横に振った。
「したくありませんっ…ずっと、朝霧家にいたい…っ、みんなと…玲司さんといたいですっ…」
「それなら、どうして…?」
「両親が迷惑をかけたから…っ、処罰が下れば…九条家の出である私は、朝霧家にご迷惑をかけてしまいます…っ、だから」
言葉を続けようとしたら、目の前が真っ暗になった。
近くにいた香りが、もっと近くなった。
玲司がぎゅっと澪を抱きしめた。
流れていた涙が、ぴたりと止まった。
「貴女は…本当に、愛おしい。手順を間違えて申し訳ない。けれど、今回ばかりは見逃して下さい」
「…へ?」
玲司の言葉にこてんと小首を傾げていると、少ししてから腕の力を緩めて抱擁から解放された。
「俺が言おうとしたのは、この契約結婚を終わりにしないか、ということです」
「えっ…!? や、やはり…離縁、ですか…?」
「違います。最後まで聞いて下さい。俺と本当の夫婦になってくれませんか」
玲司の言葉にしばらく思考が停止した。
「本当の…?」
玲司の言葉を繰り返すと、彼は優しく頷いた。
「たしかに最初は、貴女なら我が朝霧家を問題なく継げると思って、結婚を申し出ました。俺は寿命が尽きると思っていましたから」
「へ…そう、だったのですか…?」
能力だけを必要とされていると思っていたら、その先の事を考えており澪は目を丸くした。
「でも、貴女が俺の呪いを解いてくれ、今もこうして命を繋いでくれた。もう一度、俺が一族復興のために動けるようにしてくれた。そして、延びた命の中で貴女にどんどん惹かれていきました」
「え…そ、そんな…わ…私はあの日、エネルギー不足で…ただ、自分の為に玲司様から呪物を頂いただけ、ですから…」
未だ慣れない。
玲司に褒められると、恥ずかしくて体中が暑くなってしまう。
「澪さんは、俺とは違って最初から肩書きとか能力とか…そういうのを損得勘定に入れてなかったですね」
「そう…ですね。私、あまりそういうのわからなくて」
「今の俺は、貴女の能力ではなく、貴女自身を愛しています」
まっすぐ見つめる玲司の視線を受け、澪の顔に熱が集まった。
「だから、今ならーー貴女の純真な想いにも胸を張って応えられそうです。澪さん、俺と本当の夫婦になってください」
玲司が改めてそう伝えると、澪は頬を赤らめながらこくりと頷いた。
「よ、よろしくお願い致しますっ…」
「えぇ…必ず貴女を幸せにします」
澪の紅く染まった頬へそっと手を添え、玲司はゆっくりと顔を近付けて唇を重ねた。
「…帰りましょうか」
「…はい」
唇を離すと、玲司の頬も薄らと色付いていた。
玲司の提案にこくりと頷き進む方向に目を向けると、玲司が澪の手を優しくぎゅっと握った。
「れ…玲司様…?」
「これからは本当の夫婦になったのですから。一秒でも長く貴女に触れていたくて…迷惑ですか?」
「っ…」
玲司の言葉に茹蛸のように顔を赤くしながら首を横に振った。
「それでは帰りましょう」
「は、はいっ…」
玲司と手を繋ぎ緊張しながら一歩ずつ歩みを進めた。
「あ、あの…玲司様…」
「どうしました?」
澪が名前を呼べば、柔らかい笑みを浮かべて首を傾げた。
「そういえば、どうやってあの場所まで来て下さったのですか…? 九条家の近くとはいえ、あそこは全く違う敷地でしたから…」
澪がそう尋ねると、「あぁ…」と玲司が視線を逸らしながら言った。
少しすると、言いにくそうに口を開いた。
「あのおまじない、ですよ」
「あぁ…出発前に玲司様が言ってた…?」
そう言うと、澪はまじないをかけられた自身の手の甲を空にかざしてじっと見つめていると、玲司が口を開いた。
「あれ、結界です。澪さんの身に危険があると、俺に知らせてくれ、澪さんの居場所も分かったんです」
玲司の説明に、なるほどと頷く澪。
「そう…だったのですね。玲司様は本当にすごい。あの出来事を見越した采配です」
「…ただの心配、だったんですけどね。そう思って貰えて良かった」
握った手を少し強く握った。
『貴女を守りたかった』という意思が現れた。
「それに、まだあの日の約束を実現していません」
「…約束、ですか?」
澪が小首をかしげると、玲司はくすりと笑った。
「キャラメルの事、覚えてますか?」
「っ…! はい…! 口の中に広がる甘くて、ほわほわする…とても美味しいお菓子です」
玲司の口から出た言葉に、澪の表情がぱぁっと明るくなるとこくこくと何度も頷いた。
「一緒に食べるという約束がまだ果たせていません。今度、買いに行きましょう。ぜひ、ご一緒に」
「はい…! ふふっ。楽しみです」
玲司からの提案に嬉しそうに答えると、歩きながら向かった目的地が見えてきた。
「それなら早速ですが、明日参りましょう。街は色々なものがありますからね、さすがに朝寝坊は…起こしますよ?」
「う…いえ、それは…起こさないで頂けると…」
渋い顔を浮かべる澪。
そんな彼女の表情も、また愛おしいと思える一因となった。
《完》


