最強食霊術師の契約結婚 〜旦那様、朝は起こさないでください〜


☆☆☆

澪が朝霧家へ嫁いで一月が経とうとした頃。
彼女にとってまだここは、慣れることがない異様な空間だった。

(このお屋敷は、本当に変…)

そんな事を思いながらむくりと布団から起き上がったのは、陽が傾き始めた昼過ぎ。
眠い目を擦りながら伸びをして、布団を畳むと押し入れに片付けた。

部屋の隅に置かれた鏡台の前へ座り、腰元に教えてもらった手順で化粧を始めた。
というのも、屋敷に来て数日経つ頃の事だった。

『澪様。よろしければ、こちらをお使いください』

そう言って、腰元は澪に朱色を基調とした花柄模様のある箱を差し出した。

『これは…?』
『お化粧をするための道具でございます。先日、玲司様が奥方様を迎え入れたという事で何人かの美装員が贔屓にしてほしいと申しておりまして』

そのための試供品である事を説明されると、綺麗な化粧箱に入った宝石のような化粧用品をじっと見つめた。

『…お気に召しませんか?』
『い、いえ…ただ、私が頂くなんて、そんな…』
『遠慮なさらないで下さい。全て澪様のものですから』
『それに私…化粧なんて…』

した事が無かった。
そんな物を与えてももらえなかった。

『えぇっ…! あまりにもお綺麗だから、てっきりお好きなのかと思っていました。私でよろしければ、お手伝いさせてもらえませんか?』

そう言ってくれた腰元にこくりと頷いて、手順を教えてもらったのだ。

「これでよし、と…」

最後に紅を引いて紙を唇の間に挟み、色味や仕上がりを鏡で確認した。
化粧箱へそっと手を添えると、初めて化粧を教わった日のことを昨日のように思い出した。
化粧を終えると着替えた。
着物は全て、祖母がくれたもの。
破れたりすると、自分で直す為お世辞にも綺麗とは言えない着物。
しかし、澪にとっては大切な着物だ。
両親からつまはじきにされていたが、祖母が健在の頃は妹の琴葉と平等に愛情を注いでくれた。
澪は祖母の事が大好きだった。
そんな祖母の形見の着物を今も大事に着ている。
髪を結い、部屋の外へ出た。
外にはいつもと違う甘い匂いが漂っていた。

「何…この匂い…」

嗅ぎ慣れない匂いに眉間に皺を寄せた。
しかし、嫌な臭いではない。
むしろ、心躍るような幸せな匂い。
その香りに釣られると、足は台所へ向いていた。
中では、腰元達が楽しそうに話していた。

「奥様っ。おはようございますっ」

何をしているのだろうと前傾姿勢で見ていると、それに気付いた腰元の一人が口の端に餡子を付けたまま元気に挨拶をした。

「お…おはようございます…」

澪がよそよそしくしていると、他の腰元達はテーブルに並べてあった団子、おはぎ、羊羹などの甘味をそそくさと片付け始めた。

「奥様っ。まだ何も召し上がっていませんよね? よろしければ、どうですか? おはぎ、羊羹、ぜんざい、団子ーーなんでも…ってあれ…?」

腰元の一人が楽しそうにそう申し出て、ずらりと甘味が並んでいたテーブルを紹介した。
しかし、既に甘味は腰元達によって片付けられていた。
そんな状況に、紹介した本人は瞬きを繰り返して驚きを隠さなかった。

「おやめなさい。奥様は召し上がれないの」
「昨日来たばかりだから知らなかったわね。でも、奥様に突然勧めるだなんて…無礼だわ」

二人がかりで澪のそばから新人の腰元を引き剥がし、ヒソヒソと話した。

「申し訳ありません…この者は昨日から来たばかりで…きちんと言って聞かせますから…!」

一人がぺこぺこと澪に頭を下げる。

「い、いえ…あの」
「はい? なんでございましょう?」

謝られる事に慣れていなくて、ただ小さく首を横に振った。
二人の腰元に軽く説教されている新人の腰元を見ると、ちくりと胸が痛んだ。
彼女は決して、悪気があったわけではない。
普段なら絶対口にしないが、恐る恐る申し出た。

「わ…私も…どれか、頂けませんか…?」

そう尋ねると、腰元達は驚いてお互いに顔を見合わせた。

「え、えぇ…奥様が召し上がると仰るなら…」

腰元の一人がそう答えると、先ほどまでのようにテーブルにはずらりと甘味が並んだ。

見たことのない料理が物珍しく、じっと眺めた。

「あの…どれを…?」
「どれでも、お好きな物を召し上がってください」

好きな物をと言われると、選べなかった。
これまで、与えられるとしても一つの選択肢しかなかった。
たくさんある和菓子の中で一つを選ぶというのは澪にとって難しいことだった。
しばらくじっとテーブルの上を眺めていると、新人の腰元がひょいっと一つのおはぎを頬張った。

「奥様なら、ぜーんぶ食べてもよろしいんですよ? 全部、私が一通り毒見をしております」
「ちょっと貴女…! まだ食べるの!?」
「いやぁ、美味しくて…奥様。このおはぎ、おすすめですよ」

新人の腰元にそう言われると、澪は恐る恐るおはぎに手を伸ばした。
手のひらより一回り小さく、たっぷりの餡子が使われたおはぎ。
甘い香りで無害そうな物体。
しかし、一度も食べた事がない物を口に入れるのは怖かった。
おはぎをじっと見つめてから、おはぎを勧めた新人の腰元の顔を見た。
新人の腰元は「食べて!」と言わんばかりに何度も頷いていた。
そんな表情を見て、澪は小さな一口を頬張った。

「…?」

口内に広がる甘さ控えめで上品な餡子。
何度か咀嚼をするが、飲み込むのが惜しいと思うほど。
言葉に表現できなくて澪は小首を傾げた。

「ど…どうですか、奥様?」

自信があったものの、澪の反応を見て途端にしょんぼりとする新人の腰元。
十分過ぎるほど味を堪能すると、飲み込み口を開いた。

「申し訳ありません…私、初めて食べて…。その、何だか温かくて、嬉しい気持ちになる、というか…あの、もう一口食べても…?」
「っ、もちろんですっ。奥様、それを食べたら羊羹やみたらし団子…あっ! 柏餅や桜餅もございますよ…!」

それが美味しいという感情なのかは分からない。
しかし、彼女の反応は間違いなく「美味しい」を体現している。
それだけで、新人の腰元は嬉しそうにぱぁっと表情を明るくした。

「こら。そんなに急かさないの。奥様が驚くでしょう」
「奥様、お茶をお淹れしますね。和菓子とよく合うんですよ」

おはぎを食べていると、澪の表情には自然と笑みが溢れていた。
そんな様子を見て、腰元の一人が茶を入れる準備をすると言うと、澪は「申し訳ありません…ありがとうございます」と伝え、小さく頭を下げた。
すると、背後からパサっと何かが落ちる音が聞こえ、皆がそちらへ目を向けた。

「え…み、澪…さん…? えっ…」

澪がおはぎを頬張る横顔を見て、手にしていた書物を落としたのだ。
くるりと振り返った彼女はおはぎを頬張ったまま、ぺこりと頭を下げた。

「玲司様、おはようございます」
「え…えぇ、おはようございます。えっと、それは…?」

玲司も挨拶を返すと、改めて澪が手にしている物を尋ねた。

「? おはぎ、というそうですが…玲司様も召し上がった事がないのですか?」
「いえ。聞き方が悪かったですね。澪さんが召し上がっているのを見るのが初めてで…甘い物、お好きですか?」
「好き…なのかは分からないです。でも、飲み込むのが惜しくて…口の中からなくなってしまえば、また口の中に入れたくなります」

そう言いながら澪がまたおはぎを頬張ると玲司が顎に手を当てて少し考える素振りを見せた。

(食べられないのではなく、食べる機会がなかっただけか…?)

そう思うと、彼は納得したようにこくりと頷いた。

「なるほど…申し訳ない。俺の部屋にも、茶を嗜める用意をしてくれないか」
「はい。かしこまりました。奥様の分とご一緒に、お部屋へお待ちしますね」
「頼むーー澪さん。茶請けが一人では味気ないから、付き合ってもらえませんか?」

玲司の提案に、澪はこくりと頷いた。
残っていたおはぎを食べ終えると、彼の後ろをついて部屋へと向かった。

「それでは失礼致します」

玲司の部屋へ招かれて数分後、腰元が茶と和菓子を持ってくると部屋から出た。
玲司の部屋へ入るのは初めてだ。
ちゃぶ台の上にずらりと並んだ和菓子。
幸せを運ぶような甘い香りに、澪は自然と笑みをこぼした。

「澪さん。遠慮せず、どれでも食べて下さい」
「は…はい…頂きます」

玲司からそう言われると、またおはぎに手を伸ばした。
他の和菓子も気にならない事はないが、食べた物の方が次も食べ易い。

「おはぎ、美味しいですよね。俺もおはぎを頂こうかな」

二人で向かい合い、おはぎを頬張った。
今、この空間はまるで他愛ない夫婦そのもののようだ。

「そうだ…澪さん。キャラメルはご存知ですか?」
「きゃらめる…?」

言いにくい言葉に小首を傾げながら返すと、玲司が文机の引き出しから手のひらサイズの箱を出した。
さらにその中には紙に包まれた長方体の物が入っていた。
澪の隣に座り、それを彼女の手のひらに乗せると口を開いた。

「それ、紙を剥がして下さい。その中にある物が食べられます」
「なるほど…思ったより硬いんですね…い…頂きます」

指二本で摘み、じっとそれを見つめてからそっと口に含んだ。
どんなものか分からず、きゅっと目を閉じて緊張していたが、その面持ちはすぐに解れた。

「わ…何、これ…」

口の中いっぱいに広がる甘み、乳の味。
舌で転がせば、溶けながら口全体を幸福感で包み込む。
きゅっと閉じた目を開くと、驚いて目を見開いた。

「お気に召しましたか?」
「これも…すごい。とても嬉しくて…ふふっ。ごめんなさい」

あまりの幸せな感情に自然と笑みが溢れた。
そんな澪の手に自身の手を重ねた。

「玲司様…?」

不思議そうにしている彼女が、愛おしいと思っていた。
彼女の顔に自身の顔を近付けるが、「っ…」と彼女が小さく息を漏らしたのが聞こえると、理性の方が強く働いた。
彼女の耳元にそっと顔を近付けた。

「今度、街へ行った時に買ってきます。今度は二人で食べましょう」

そう呟けば、彼女はぽかんとしたままだったがこくりと頷いた。

「…申し訳ない。そろそろ作業を再開しないといけなくて」
「こちらこそ、申し訳ありません…長居してしまいまして…ありがとうございました」

澪がそそくさと襖を開けると、小さく頭を下げて廊下へ出た。

「いえ、俺から誘ったんです。また、付き合って下さい」

玲司もそう答えると、澪は襖を閉めた。

「ったく…俺は、何をやってるんだ」

自分はある程度、理性があり落ち着いている方だと思っていた。
しかし、彼女の無邪気な笑みを見た時ーーその感情を抑えられなくなっていた。