そうして私は三人に避けられるようになり、いつの間にかクラスで一人ぼっちになってしまった。
移動教室だと誘ってくれる人なんていないし、昼休みはずっと楽しそうなクラスメイトの声を聞きながら一人で席に座ってる。
三人は変わらず中庭に行ってくれるからまだ助かったけど、でも、
「お昼ご飯、一緒に食べてもいい?」
最近、隣から美緒莉が私に声をかけてくるようになった。
少し前までの私なら当然の顔をして無視してたと思う。でも今はクラス中が私のことを間違った対応を取らないか監視してる気がして、「いいよ」と頷くことしかできなかった。
だって私には味方が居ないから。常にみんなの正解を探らなくちゃならなくて、そんな世界はとても息苦しかった。
――このままじゃ一番ダメな方に進んでる。
美緒莉と関わるわけにはいかないのに関わらないといけない。わかってるのに変えられない。
だってみんなに嫌われて居場所がない。私は誰にも認められてない。
私にはこの人しか残ってない。
なんで?
私には価値がないから?
美緒莉にはあるのに?
何回目であっても美緒莉には美緒莉と関わりたい人間が居る。でも私にはいない。
美緒莉にはたとえ傷つけたとしても人を選んで環境を変える権利がある。でも私にはない。だって私が私の本音を言った瞬間今まであったはずの幸せで楽しかった環境はあっという間に壊れてしまったから。
私には私らしく存在する権利がない。
私には何かよりも選びたいと思ってもらえる価値がない。
私には私のことだけを考えて選び取れる選択肢がない。
なんで? なんでなの? 私の方が普通なのに。
ずっとずっとおかしいのは美緒莉の方なのに、なんでいつも美緒莉が世界の中心に居るの?
こんな現実最悪だ。こんな世界嫌だ。なんでこんなことになったの? なんで私はいつも美緒莉の影響を受けないといけないの? なんで美緒莉はずっとここに居るの?
……ここに居る?
そうか、美緒莉が居るからだ。
美緒莉が私の隣に居るから。この学校に居るから。この世に存在するから――だから、いけない。
そうだよ、特別な人なくせにこっちの普通の世界に来ないで欲しい。普通じゃないんだから、普通の人間の生活を乱さないで欲しい。
美緒莉が居るだけで基準が変わるんだよ、幸せの基準が変わって、普通でいられなくなる。美緒莉を意識した世界が生まれて、だから辛い思いをすることになる。だって美緒莉がいなきゃ八木ちゃんって普通だったし、私もこんなことになってなかった。
全部美緒莉のせいだ、それなのになんで誰もわかってくれないの?
本当に誰もわかってないの? 同じ感情を抱いてる人はいないの? 誰にも言えないって、私と同じように悲しんでる人は――……あ、それってもしかして!
そうだ、そうだった!
あるじゃないか、それが許される世界が!
この画面の向こう側に!
それに気づくといてもたってもいられなくなって教室を飛び出した。クラスメイトが居る場所だとどこで見られるかわからないから、本当は行きたくなかったけど仕方なく、確実に誰にも見られないとわかってる屋上へと向かう。
そしてドキドキと高鳴る心臓を落ち着かせて、私はSNSを開いた。
ここになら居るはずだ。過去に私と同じ思いをしている人が。だってここはそういう場所なんだから。
そういう、表で受け入れられない可哀想な感情がここでなら存在するのを許してもらえる。
誰か居ないの? 私はここに居る。私の思いを誰か、少しで良いから共感して……!
必死な思いで、初めて投稿してみた。
美緒莉のことだと知ってる人ならわかる程度に匂わせて、そのせいで酷い目にあっているのだと被害を訴える。
美緒莉ってそういう人で、私達は被害者だよね?と。
――でも、
『現実生きなよ。もはや厨二病だよ』
返ってきた言葉に打ちのめされた。
それで思い知る。そうだ、ここに残ってるのは中学生の頃の美緒莉についてやり取りしていた、その美緒莉と同じ中学生の子どもの言葉だったのだと。
一度ネットに残した言葉は時間を越えてもこの世に残されている。
デジタルタトゥーと呼ばれるような、一度拡散されてしまった内容は削除したとしても別の形で知らない誰かが手元に保存していればこの世から完全に消し去ることがほぼ不可能になる、ということだけでなく、普通の流れて埋もれた誰の目にもつかなくなった言葉でも、検索すれば何年前のものだとしても今のものと同じ顔をして現れたりなんかするところも、消えない言葉が生まれる原因の一つだと思う。
声と違って目に見える形で残るから、いつでも戻って来られるというか、忘れ去られる方法がないというか。きっかけがあれば今と昔が交錯して、偽物の永遠がそこに生まれてしまうのだ。
SNSの基本。そういう理屈がわかってないような奴は使うなって、自分の言葉に責任を持てって、そう思ってたのに。
高校生になった今はもうそんなことをこんなところに書く人間は居ないんだと、何で気づかなかったんだろう。今はもう落ち着いてるみたいだ、くらいで、まだまだそういう人間はここに存在するんだと思ってたのに、クラスのみんなの美緒莉の肩を持つ空気を感じてわかるべきだったのに、私は気づかないでこんなことして、ここですら受け入れられない人間になってしまった。
もう、どうしようもない。
慌てて投稿を削除して、スマホの画面を消した。
真っ黒な画面に自分の顔が写って、最悪な自分と目が合った。
私、こんな顔してたんだ――……。
とんでもなく醜い私の顔。美緒莉とは正反対の、紛れもない私の顔。
ぷつりと何かが切れてしまった気がした。
もう心は真っ黒で、消えてしまいたいと本気で思った。
もうこんな自分はおしまいにしたいって。
「小山さん」
――そんな私を呼びかける声がした。
驚くほどの力ももうなくて、ゆっくりと顔をあげる。
目の前には、その声を聞いた瞬間から顔が思い浮かんでいた人物がそのまま立っていた。
美緒莉――……美緒莉だ。
いつも通りの、うっすらと微笑みを浮かべた顔で私を見つめている。何も問題のない、困ってないし悩んでない、傷ついても悲しんでもいない顔。
世界を自分のために回して、自分のために生きてる人の顔。
綺麗で、余裕があって、何考えてるのかわからない、嘘ばっかりの――!
「……全部、お前のせいだ」
憎くて憎くてたまらなくなって、胸が重くて気持ち悪くて、どろりと口からそれが溢れ落ちた。
「お前のせいでこうなったんだ、全部、全部お前の……っ!」
涙が出る。ぼたぼたと、次々に溢れてくる。
苦しい。胸が苦しい、息が苦しい、頭の中が苦しくてたまらない。
すると背中に手が触れた。それは私の苦しみを宥めようとする美緒莉の手で、嫌悪感から反射的に振り払うと、美緒莉は悲しい顔をして私を見た。そして、
「ごめんね、全部私のせいだね」
そう言って、悲しい顔のままニコリと笑って私に寄り添ってみせる。
……は?
「何? それ」
「うん?」
「バカにしてんの……?」
こっちは本気なのに。
「バカにしてないよ」
なのに受け入れる姿勢を少しも崩そうとしない美緒莉に、とてつもなく腹が立った。
そうやっていつも私のことを見てないんだって、都合よく使えるパーツくらいにしか思ってないんだって。だって、突然そんなことを言われたら普通嫌な気持ちになるはずでしょ?
それなのに、私にはそうなる価値もないっていうの?
「だったら傷ついてよ、私ぐらい辛くなってよ、ごめんねって何? 簡単に受け入れて慰めないでよ! なんでいつもそう上からなの?」
「上からだったことなんて一度もないよ」
「ずっと、ずっとそうじゃん! 今だってそう、何しにきたの? なんで来るの? いつもいつも、毎回そうやって私の前に現れてさ、何がしたいの?」
苦しい。苦しいことばかりだ。ずっとずっと、美緒莉が居るとずっと、この世界はずっと!
「もういい! もう放っておいてよ!」
全部全部、
「もう終わりにしてよ……!」
「いいよ」
――その瞬間、世界の音が消えた気がした。
頭の中がピタリと静かになって、そのタイミングを待っていたかのようにその言葉だけがもう一度耳に入ってくる。
「そのために私はここに居るんだよ」
呆然と見つめる先の美緒莉は笑っていた。
とても、嬉しそうに。
「ごめんね小山さん、私のせいでこんなことになって。小山さんが毎日すごく楽しそうだったから私、少しでも小山さんの世界の仲間に入れてもらえたらなって思っただけだったんだけど、上手くいかなかったね」
「…………」
「私ね、小山さんと隣の席になった時、嬉しかったんだ。やっぱり運命だったんだって思ったの。だけどさ、小山さんは覚えてなかったみたいだから……私ももう忘れようと思ったの。もう違う人なんだって。でもやっぱりそんなのできなくて、せめて普通の友達になれたらって思って……でもさ、やっぱり小山さんは私の知ってる斗亜ちゃんなんだね」
「!」
斗亜ちゃん、と呼ばれてスッと背筋が凍りついた。
だってその呼び方をするのは、その証明のようなもの。
「……美緒莉」
冷たくなった息を吐き出すように思わず呟いたその呼び方に、「やっぱり! 思い出したんだね!」と、美緒莉はその大きな目がこぼれ落ちそうなほど見開いて興奮すると、喜びを露わにした。
「だって私達の約束だもんね? 屋上に居たのもそういうことでしょ? 私全部覚えてるよ、あの頃話したままで嬉しい!」
そう言って、どろりと溶けたような視線を私に送ると、
「だから斗亜ちゃん、もう大丈夫。私が居るからもう大丈夫だからね。私はそのためにここまで生きてきたの、全部斗亜ちゃんのために。斗亜ちゃんは一人じゃないよ」
そう言って、私をぎゅっと抱きしめた。
――怖い。
何? 何なの?
わからない、わからないけど、
『もう大丈夫だよ』
その言葉が何も大丈夫じゃないことを、私は知っている。
だから思い切り美緒莉を突き飛ばした。
突き飛ばして、言ってやらなきゃと思った。
思ったのに、
「っ、」
口を開いても、何も言葉が出て来なかった。喉元につかえて出てこないというか、頭の中がごちゃごちゃで何から言えば良いかわからないというか。
だっておかしい。
ずっとずっと、前回も今回も話がおかしい。
わかるようでわからない。繋がってるようで繋がってない。
美緒莉の言う私は私じゃないと思う。美緒莉の妄想の中で作り上げられた美緒莉の理想の私、みたいな。だから美緒莉は私を否定しないし、私の全てを受け入れたがるのかもしれないと思った。
でも美緒莉は今の私の言葉を聞いて、私が思い出した、なんて言う。まるで過去の出来ごとがあったみたいに。
私みたいに繰り返してるみたいに。
覚えてるなんて言い方をするってことはそういうことだよね? だけど聞いてる限り私の記憶と内容が違ってる。約束なんて覚えがないし、私のために生きてきた、なんて考え方も初めて聞いたし……なのに、全部が違うって否定できない部分がある。
例えば、なんで美緒莉は私が屋上に居るってわかったの?とか、なんで関わってもいないのに運命だなんてあの日と同じことを言ったの?とか……妄想だと切り捨てられない繋がりを感じる何かがあるのだ。
この感じは何? 美緒莉には美緒莉だけの私と関わった記憶が別であるってこと?
それは私みたいに別の世界の美緒莉の記憶ってこと?
でもそうだとしたら繰り返してることも今言うんじゃないかな、覚えてる?の他に、繰り返してる?とも訊く方が自然というか……じゃあ結局美緒莉は繰り返してないってこと?
確かに美緒莉はずっと変わらない。一回目から四回目まで出会いの言葉だって全く同じだ。
でも関わり方を変えても最終的に同じになるところが他の人達と違うところだった。今回なんて関わってすらなかったんだから、依存から生まれた妄想なんて生まれるわけがないのに……そうなるとこれはやっぱり元々の美緒莉の中にある確かな記憶ってことになるのかな。頭がおかしい人だったとかじゃなくて美緒莉の中で私に対してもともと決まっていたこと、というか。
美緒莉が何度も言うそういう約束の記憶。
美緒莉にあって、私にない記憶――……。
「!」
ハッとした。もしかして、って。
だって私には記憶の中にない部分がある。すっぽり抜けた、過去のいじめられていた頃の記憶が。
もしかして、そこで美緒莉と関わってた可能性がある……?
そうだとすると、美緒莉が私と違う記憶をもっていてもおかしくないんじゃないかと思った。私が忘れてて美緒莉がそれを覚えてても何も変じゃない。
毎回の変わらない事実として世界に存在していてもおかしくない。
そうなると――美緒莉の言葉は全部正しいってことになるよね? 美緒莉の言う約束だって存在したことになるし、美緒莉しか居ない一人ぼっちの私だって、美緒莉に殺して欲しいと頼んだ私だって――いや、何それ。
そんなわけない。そもそも美緒莉とは小学校も中学校も違うんだから、そんなことあり得ないはず。それは絶対に間違いない。関わりあいになる要素がないし……でも、私には記憶がないから。だからちゃんと否定できる私が居ない。
そう、私には何もない。繰り返す前の私にも、今の私にも、私を私とするものが何も。自分のものとして生まれてくるのはいつも嫌な感情だけで、見つかるのはバカな自分ばかりだ。
こんな人間、私だけなんじゃないかな。
だから殺してくれなんて、バカみたいなこと頼んだのかな。
私って本当にどうしようもないな。
「辛そうだね」
ハッとして意識を目の前の美緒莉に向けると、美緒莉は心配そうに私を見ていた。
……他人ごとみたいな顔してさ、私が今こんなことになってるのは全部美緒莉のせいなのに。
言わないと。私の思いを伝えないと。じゃないときっと、美緒莉の中の私は何も変わらないだろう。この人が見てるのは今の私じゃなくて過去の私から得た、自分の理想の私なんだろうから。
覚えてないから過去に何があったかなんてわからない。もしかしたら私が本当に頼んだのかもしれない。でも今ここでこのまま殺されてたまるかと思うんだ。怖いのもあるけどそれ以上に、今の私を見ろと思うから。
だってこの人は今だけじゃない、仲が良かった時ですら目の前に居る私を見てなかったってことでしょ?
これで死んだら今の私の思いはないものになって、この人間の中に過去の私しか残らなくなるんでしょ? 階段から落ちた私を見て願いを叶えられたって、毎回嬉しそうに笑ってたもんね。
そんなの嫌だ。悔しい。こんなに振り回されてきたのにそんなの、私のことなんて何にも見てない人間に殺されて、私の中に何もないまま終わるなんて、そんなの嫌だ。
おしまいにしてしまいたいと思ったけど、居なくなってしまいたいくらい辛いと思ったけど、でも今ここに居る私はあなたに殺されたいなんて望んでない。
望んでないのがずっとあなたの目の前に居る私だ!
「辛いよ。あなたが何を言ってのるか私にはわからない。きっと私はあなたの言う私じゃないから」
「斗亜ちゃんだよ。いつか一緒に屋上からの景色を見ようねって話したよね?」
「してない。記憶にない。私には記憶にない部分があるからもしかしたらその時に何かあったのかもしれないけど、でもその私と私は別人だって言い切れる。だって私、あなたと関わりたいと思ってないし、殺されたいとも思ってないから」
ハッとした美緒莉がピタリと動きを止めた。じっと何かに警戒する生き物のように。
だから私は言い聞かせるように、はっきりと美緒莉に伝える。
「あなたの中に居る私は私じゃない。もしかしたら昔は居たかもしれない。だからそのまま居て欲しいとあなたは願ったのかもしれない。でもここに居る私は違うの。違う小山斗亜で、今の違う考え方がある。私はもう、あなたに殺してほしいと願い続ける、あなたの理想の私じゃないの」
だから、
「ここでおしまいにしよう。それがきっと私達のためだよ」
そう、面と向かってしっかりと美緒莉に告げた。
もう嫌だとか、怖いとか、関わりたくないとか、そういう昂ったままに発した感情の話じゃないし、ただ美緒莉を否定するためだけの言葉でもなかった。
だって今の私と美緒莉の関係は間違ってると思うんだ。
美緒莉は始めからここに居る私なんて見てないし、私はちゃんと美緒莉という人間を受け入れられる余裕のない最悪な人間だ。そんな二人がこのまま仲直りしたとしてもその先でお互いに悪い方へしか向かえないと思う。だってお互いを必要とする私達はもうここに居ないんだから。
勘違いと思いこみとかけ間違いとすれ違い。それがお互いを特別な人間にしていた、ただそれだけのことだったから、もう私達のあれこれはここまでにして、これからは別々の人生を生きていこう、そういう意思をはっきりと伝えなければならなかったんだ。それが今までの私では気づけなくてできなかったこと。
四回目の私だからできる決断。
「今回の私は全部失敗したと思う。最悪な私になっちゃったし、そういう人間なんだって自分の悪いところにも気がついて、もうおしまいにしたいって思うくらいには絶望したよ。だけどね、殺されたいなんて思ってないんだよ。特に私のことを見てないあなたになんて殺されたくない。あなたを喜ばせるだけの存在で終わりたくないから、だから私は今の私を証明するためにこの人生を生きていきたい」
そう。だって今ここに私は居る。この苦しみだって私が私である証明だ。過去の私が経験して感じたものはあったはずだけど、記憶と共に全部なくなったから今の私には経験も感情も足りてなくて、そんな何もない私は嫌だって気づいたから、私はもう辛くて苦しくてもこの人生を生きていきたいと思う。
そうじゃないと、何度やり直したってどうせ私は私のままだと思うんだ。きっと元に戻ったって美緒莉のことは認められないし、こんなことがあった過去があれば八木ちゃん達とももう同じようには関われない、嫌な感情だけを増やした私が同じスタートに立つだけ。そんなダメな私が目に見えているから、もうやり直しに意味はないと思った。
今の私に必要なのはきっと、嫌で辛くて苦しい思いをしてもその自分の人生を生きていく覚悟。そうして立ち向かった先の何かを手に入れて、いつか自分に自信を持てるようになりたいと思う。
そう。私は自分に自信を持ちたい。人から選ばれる価値のある人間になりたい。
「今までありがとう。美緒莉のおかげで私は私だって思う自分に気がつけた。美緒莉と向き合うことは私を知ることと繋がってたんだね。こうやって決断してきちんと自分の意思に気づけた私はこれでまた新しい私になれたと思う。だから次は一人で生きていく私として明日から頑張ろうと思う」
なんか、すごくスッキリした。
だって私の中に何もなかったのは記憶がないからってだけで、これからの私は今ここから始まるってことでしょ?
単純な話だったんだ。ここからが私の番。
だからもういいんだよ。
「……私はもう、いらないってこと?」
もういいの、大丈夫。だって昔の私ももう居ないんだし。
「いらないよ」
『私の人生に美緒莉はいらない』
それはもっと早い段階で出ていたけれど、あの時と違って今は前向きの答えとしてそれを口にすることができていた。
「美緒莉もずっと囚われて辛かったでしょ? 何がどうなってそうなったのかさっぱりわかんないんだけど、今までごめんね、私のこと殺させようとして。もう良いんだよ、解放されて」
美緒莉だってずっと縛られてきた可哀想な被害者だったんだって、自分の答えが見つかったら、自然とそう思える余裕が心に生まれたから、お互いこれで自由だよって、これが今の私達にとって最善の選択だと思って告げた言葉だった。
「もうお互いに囚われない普通の人生を歩んでいこう」
私のその言葉で、美緒莉は黙り込むと俯いたまま顔を上げなかった。何かの反応が返ってくるまで待とうかと思ったけど、それも期待を持たせるみたいでダメかなと思い直し、階段に向かったその時だった。
「……いいよね、普通に生きられる人は」
後ろから聞こえてきたのは、恨めしさを持つ美緒莉の声。
「それで? もう斗亜ちゃんはそっち側だって? 無理でしょ。斗亜ちゃんだって結局斗亜ちゃんなんだし」
その言葉が私の足を止めた。
「……どういうこと?」
振り返った私を見て、美緒莉は笑顔を浮かべる。
「斗亜ちゃんみたいな人が普通に生きてみんなの中に馴染めるわけがないって言ってる。その証拠にほら、今回だってこうやって一人ぼっちになったでしょ? いくら忘れたって根っこの部分は変わらないんだからさ、きっとまた同じことになると思うな」
それは初めて私に向けられた、美緒莉からの意地の悪い言葉。
「でもいいな、斗亜ちゃんは自分のそういう部分を忘れられて。記憶がなくなったから別人としてやり直せるなんてずるいな。それで私をいらないもの扱いするなんてずるい。簡単に捨てられるなんてずるい。斗亜ちゃんには私が必要だったのに、必要だって言ったのは斗亜ちゃんなのに。だから私はそのために生きてきたのに」
そして、じろりと私を睨みつける美緒莉は泣き喚きたいのを押し殺したような顔をしていて、縫い付けられたみたいに動けなくなっている私のそばまでやって来た。
「ぜーんぶ嘘になっちゃったってことなんだね。いいね、一般的な地味な人間はいつでもなかったことにできて。誰の目にも止まらないし、大勢の中に紛れて忘れられるのも早いから間違えた証拠なんて残らないもんね。でもさ、私はそれができないんだよ? どこに居たって何をしたってずっと誰かに見つかってるから、忘れても周りが掘り起こしてくる。ずっと過去が張り付いてるの」
そうして美緒莉は言う。「ずっとずっと辛くて苦しいのが私の普通なんだよ」と。
「ちょっと辛いことも経験してみたい、程度の気持ちで続けていこうなんて格好つけた言葉は言えないんだよ。斗亜ちゃんの辛いのは続いたとしてもクラス替えまでの一年間とかかもね。でも私、こんなのがずーっと続いてるの。想像できる? できないよね? だって頭の中に経験がないんだもんね!」
そして美緒莉は勢いよく私に掴み掛かると、グッと押し潰すような距離まで近づいて叫ぶように吐き捨てる。
「全部捨てちゃった斗亜ちゃんにはわかんないと思うけどさ、私みたいな人間には毎日が辛過ぎて生きる理由が必要なんだよ! それなのに何で私からそれを奪うの? 捨てないでずっと大事にしてきた私がなんで捨てられなきゃなんないの? 酷い! 斗亜ちゃんだって私しか居ないくせに普通の人間の顔するな!」
こんなになりふり構わない必死な美緒莉は初めてで、私はそのお腹の底から晒された言葉を真正面から浴びせられて――一番嫌な部分に触れられて、カッと頭に血が上った。
「は? じゃあそんな大事なもん地味でしょぼい大勢の中に紛れて忘れられるような人間に託すなよ! あんたみたいな恵まれた特別な人間の気持ちなんてわかるわけないし、やっぱり私のこと上から見てたんじゃん!」
ずっと格好つけてたのはどっちだよ、本当はそう思ってたくせに! やっぱり隠してたんじゃん!
「別に上から見てない! ずるいと思ってただけ! 何も考えないで生きられて羨ましいって! 私だって普通にみんなに馴染んでその他の人間として生きていきたいって言ってるだけ!」
「その何も考えないとかその他って言葉が私を何もない私だって言ってるってわかんないかな! 何もないのにずっとひとりぼっちで誰にも覚えられない人間なんて存在価値ないじゃん、そんな酷いことよく被害者の顔して言えるね!」
「そんな斗亜ちゃんだから私が必要で、私が居るからそれでいいんじゃん! 昔の斗亜ちゃんにはその自覚あったし。なのに何? 忘れたって。私が居なくなったら何も残らないなんて目に見えてるのに大丈夫? これからの自分ちゃんと想像できてるの?」
「できてるよ! できてて頑張るって言ってんの! 乗り越えないと新しい自分になれないじゃん!」
「あーもう、頭の中お花畑過ぎる。大して苦しんだことも悩んだこともないし、そういうものに触れてこなかった人間の言葉過ぎて無理。新しい自分って何? 結局自分は自分でしか居られないことから目を逸らしてるだけ。多分忘れるのと一緒に深く物ごとを考えられなくなっちゃってるんだな、あの頃の斗亜ちゃんは格好良かったのに。経験が人を作るって本当なんだね」
「でもそんな物ごとを深く考えられないバカでしょぼい私だってわかってても私に構うのは美緒莉でしょ? しかもウダウダなんか言ってるけど結局のところただ寂しいってだけで。そんな人間にしか縋れない自分をまず恥ずかしく思いなよ。新しい自分に変わりたいと思わないの? あ、頼まれたら人を殺せる頭のおかしい人にはない感覚なのか。そしたらしょうがないね」
「親友に自分を殺すよう頼む人間も大概頭おかしいと思うけどね!」
「そうだね、それはほんとそう。でも今の私はそんなこと思ってないし、もう美緒莉の言うあの頃の私っていうのとは全然違う人間なんだよね」
美緒莉の目がハッと瞬くと、掴まれていた手の力抜けたのがわかった。
そうだった、と、思い出したような顔だ。我に返った顔というか。
だから、
「あのね、美緒莉。美緒莉は今急なことで寂しくて訳わかんなくなってるかもしれないけど、でもこれが正解だと思うの。だって今の私はもう寂しくないし、ずるいとか言われても美緒莉のないものねだりにしか思えないし、ずっと私は美緒莉に付き合わされて利用されてるだけにしか思えないから」
冷静になって、もう一度これでおしまいにする理由をきちんと説明した。お互いの思ってる全てを晒した心は今、とても近い距離にあると思ったから。
「だからね、もう今の美緒莉に今の私は必要ないし、今の私に今の美緒莉は必要ないと思うんだ。ねぇ美緒莉。私と違って頭の良い美緒莉なら、言ってる意味わかるよね?」
その言葉に、傷ついた顔をした美緒莉が眩暈を起こしたみたいによろけると、ぐらりと身体が傾いた。お互いに掴み合って揉み合いになる中でいつの間にか足元まで迫っていた階段から足を踏み外したのだ。
「! 危なっ、」
ハッとした時にはすでに遅くて、倒れ込む美緒莉の体に押されるように私の身体も階段を転がり落ちていく。
――あぁ、またこうなった。
痛みで動けなくなるこの感覚を私は知っていた。でも今回は私だけじゃない。隣にもう一人、同じように横たわる美緒莉が居る。
地面に倒れる私の耳に、微かにその声は聞こえてきた。
「……そうだね」
そして、「ごめんね」という言葉を最後に声は聞こえなくなって、私の意識もぷつりと途切れた。



