嫌な予感通り、美緒莉は外の非常階段から屋上へと向かっていて、ついに三回目の今回、ずっと避けてきた初めての屋上にやって来ると、そこには記憶の中と何も変わらない見慣れた風景が広がっていた。
本当は入っちゃいけない場所なんだけど、美緒莉に誘われるがまま通うようになった一回目と二回目では、気付けば私達の居場所として二人だけの秘密基地のようになっていた特別な場所。
ここに立つと頭の上に広々と広がる青空が気持ち良くて、風が身体を通り抜けて心がまっさらになる感じがする。その清々しさを感じながら二人で話す時間が私は好きだった……でも、そんなのはもう過去の話だ。
目の前に立つ美緒莉が身に染みついた過去のシーンと重なると、心臓がドクドクと気持ち悪い。
ここはもう、怖い場所だ。
「屋上って気持ち良くて良いよね」
そう口にしたのは私じゃない、美緒莉だった。
「特別な感じがしない? 青くて広くて清々しくてキラキラしてて、なんかこう、青春っぽいっていうか」
「…………」
それは屋上に立つ私が抱いてきた感覚と似た感想だったけど、今の美緒莉の口から聞くと私と同じだと感動するよりも、誰でも抱くありきたりな感想だなと感じる私が居た。
だって孤独感が漂う美緒莉とは随分不釣り合いな感想だし、頭の良い美緒莉から自然に生まれた言葉とは到底思えない。きっと私にあわせて世間一般論みたいなものを考えたんだと思う。警戒しきっている私の気が少しでも緩むようにって。
目の前の美緒莉はニコニコと、さっきまでとはころっと変わって機嫌が良さそうにしている。きっとその裏側に何かを隠しているはずなのに。
「……話って何?」
だから、美緒莉から振られた世間話に答えることなく、なるべく距離を取りながらそう訊ねていた。
心が張り詰めてるから気遣ったり取り繕うような余裕もなくて、早く本題を終えてしまわないとと思っての行動だった。決して美緒莉の何かに触れようとしているわけでも、思い切り突き放すために発したわけでもなかったんだけど……でも、その対応は間違えだったらしい。
途端にサッと抜け落ちた表情はまるで、美緒莉の何かのスイッチが入ったよう。
美緒莉の目が、私を見つめる。
「斗亜ちゃんさ、最近変だよね?」
そして、まっすぐに迷うことなく美緒莉から投げかれられた、その問い。
「……変、かな」
ど真ん中に直接ぶつけられたそれに反射で目をそらすと、私のそんな態度が余計に美緒莉を鋭く尖らせる。
「変だよ。なんで私にだけそんな態度なの?」
こっちを見ろと言われているような芯の強い口調だった。誤魔化すなよと、全部わかってるぞと。
「八木ちゃんと仲良しなのは良いと思うよ。でもさ、私を避ける必要はないよね?」
きちんと弱点に鋭く突き刺さる指摘。
確かに、離れないとと必死だった私はあからさまだったから美緒莉に隠すつもりもない態度だったと思う。避けているのは明白で、それを問われるのは当然だ。
責められて当たり前。そういう態度を取ったのは私の方。悪いのは私。だって関係を切ろうと思っての行動なんだから。美緒莉の気持ちなんてお構いなしにこのまま終わってしまえと思ってたんだから。
私の態度で思惑は伝わったんだ。だったら今はっきり本心を伝えてしまえばそれでいい。それで終わるはず。
それなのに、
「あー……まぁ、そうだよね。ごめん」
正面切ってそう言われると、圧の強さに耐えられない弱い自分が内側から現れた。美人の怒った顔が怖い。無表情で瞬きもせず突き刺す視線が怖い。美緒莉の高くて優しい声が鋭く脳内に埋まっていくと、言われた通りにしか動けなくなる気がした。
責められてる、私が悪い、謝らないと、怖い。
……情けない。
なんて臆病で汚い自分なんだろう。こんな自分、初めて出会った。
自分からこんなことをしておいて私は、怒られたから逃げようとしてる。
ぶつかることを避けて、なあなあにしておさめようとしている。自分が傷つかない選択肢を探して。
そんな私の怖気付いた弱い心は美緒莉にお見通しだったのだろう。「謝って欲しいわけじゃないんだよ」と聞こえてきた美緒莉の声は今までと違って上から慰めるような声をしていた。
「ただね? なんで急にそうなったのか教えて欲しいんだよ。だって斗亜ちゃんはそういうことする人じゃないよね?」
「…………」
美緒莉の、いつも通りに私を肯定するその言葉。
「私のせいかな。私、斗亜ちゃんに何かしちゃった?」
「…………」
そう問われて、考える。この美緒莉はこの美緒莉だ。前回までの記憶はないし、始めに戻ったなら二回の現実はなかったことになってるといって良いと思う。並行世界みたいな、パラレルワールドみたいな。だから突き落としたのは他の世界の美緒莉が私にしたことで、この美緒莉にはまだ直接何かされたわけでもない。
……でも、
「じゃあ何か別の原因があるのかな」
私はもう、知ってしまっている。
原因を知ってしまった。わかってる。それが原因なのだと同じスタートを繰り返した三回目の今回、私は理解しまった。
だからもう、仕方ないのだ。
「ねぇ、黙ってちゃわからないよ。何も話せないままじゃ何もわからないし、何も変わらないよ」
そうだよね、何も変わらないよね。だって、
「美緒莉ちゃんは美緒莉なんだから」
だから仕方ないんだよ。こうなって当然なんだ。
だって悪いのは美緒莉だ。全部の世界でそれは変わらない事実。だって繰り返すのは私だけ、自分から変わるのは私だけで、私の影響がない限り他の登場人物は変わらない。
「全部全部、美緒莉のせいだったんだよ」
だからこの美緒莉は知らないし、私に何もしてない。
でも、ずっと一緒に居たらいつかこの美緒莉も私を殺すんだ。だって私と出会う前からずっと美緒莉は普通とは違う感覚を持った変な人なんだから。
この美緒莉はあの美緒莉じゃないけど、私の知らない美緒莉で、それが初めて出会ってから今日まで変わらない美緒莉の真実。
それを美緒莉はずっと隠してた。
ずっと秘密にされていた。ずっと騙されていた。そのせいでこんなことになった。それなのに、
なんで私が美緒莉に慰められて、諭されなきゃならないの?
「私はちゃんと変わってるよ。変わってるし、変えようと努力してる。それでも結末が変わらないのは美緒莉のせいでしょ?」
急に恨めしさが募ってじろりと美緒莉を睨みつけると、
「……どういうこと?」
美緒莉の声が、その瞳に宿る強さとと共に僅かに震えた。
どういうこと?だって。
「話さないとわからないって言ってたけどさ、今の時代、こうやって面と向かって話さなくても相手のことがわかるんだよ。美緒莉ちゃん、自分が有名なのはわかってる?」
ハッと、美緒莉が息を呑むのがわかった。ここだと思った。
「美緒莉ちゃんはさ、私に言ってないことがあるよね。美緒莉ちゃんってずっと有名人で、色んな人と関わってきて大変だったんだって、私知らなかったな。だってずっと友達の作り方もわからない、初めての友達だ、みたいなこと言ってる人のことそういう風には思わないじゃん?」
「…………」
ジッと口を閉じた美緒莉は体温が引いたように凍りつく。そんな美緒莉を見るのは初めてで――なんだか、気分が良かった。
ネタバラシをする時のような高揚感。
ずっと手のひらの上で転がされてきた相手を逆に転がしてやった、みたいな。
「嫌なことがたくさんあったんでしょ? だからもう人と関わりたくないんでしょ? それなのに私と関わるのはなんで? 美緒莉ちゃんのことわからない人間だったから? そういう世間知らずで頭空っぽで地味でバカな人間は扱いやすかった?」
「っ、違う!」
「違うの? じゃあなんで、」
“私はいつも殺されるの?”
喉元まできたそれは私しか知らない真実だからグッと飲み込んだ。でも、あんなに仲良かったのに、信じてたのに、何でいつも裏切られるの? そう叫ぶ感情に、気付かされる。そうか、私は傷ついてるのだと。
殺される怖さが勝って気づいていなかったけど私、ずっと騙されてたのを知ったのが辛かった。知ってた美緒莉が、信じてた美緒莉が存在しなかったことが、悲しかった。
じゃないと裏切られたなんて思わない。
突き落とされたあとなのにその本人と関わろうなんて、思えない。
美緒莉は、私の一番の友達だった。
でも違った。
「……美緒莉は普通じゃないって、変だって、もう私、わかったから。だからもう関わりたくないの」
美緒莉が変な人で良かった。
だって私が何かを間違えたんじゃないんだから。
美緒莉が悪いならこのまま私と美緒莉の今までが全部なくなっても後悔はない。新しい明日も今の私のまま自分を信じて歩いていけるから。
そう。裏切られてショックだった。傷ついた。私はきっとこの人に扱いやすい相手として利用されてただけだったんだ。だから利用されてた今までを全部なくしてしまえば、次こそは本当の私の人生を歩める。
それを知るための三回目の人生だったんだと思えば全てに納得できたし、今この場で関わりたくないのだときちんと断れた自分は変われたのだと思った。神様はいつだって弱い者の味方なんだから、これがきっと繰り返した私のハッピーエンドへの道筋なのだろう。
関わりたくないという私の言葉を受けて、俯いた美緒莉は何も言わなかった。
だけど、
「……そっちを信じるの?」
俯いたまま表情の見えないそこから低い声が聞こえてきた。
何を言い出すのかと思ったら、そっち信じるの?だって。毎回裏切るのはそっちなのに。
「信じるよ、みんなそう言ってるんだから」
だからこの話はもうおしまいのつもりでいたのに、
「みんなって誰?」
美緒莉は食い下がってくる。
「美緒莉のことを知ってる周りのみんなだよ」
「八木さんってこと?」
「そうは言ってないじゃん。みんなはみんなだよ、SNSでもすごい言われてたし」
「じゃあそのSNSって全部本当のことを書く人が集まる場所なの?」
ギクリとした。美緒莉の指摘はいちいち鋭くて、例を挙げた私の言葉の弱い部分をついてくる。
美緒莉は顔を上げていて、私はその美緒莉と目が合った。確信を持ったような強さが私を照らす。
「あのさ、SNSの言葉を鵜呑みにするのは危ないんだよ。法律と監視の目が行き届いてない場所だから人のモラル頼りになるんだけど、そういう場所だからこそそのモラルが欠けやすくなるんだよね。人を騙す言葉だっていくらでもあるってわかってるはずだよね? 私はSNSって利益のために誰かと何かを利用するのが誰にでも許される世界だなと思うんだけど、違う? そうなるとそこで出会った人の言葉って本当に真実の言葉なのか判断するのはすごく難しいと思うんだけど」
「…………」
美緒莉は頭が良い。だからいつも私の考えてること、求めてることを見抜いたみたいに私が正しいと思える考え方を教えてくれる。美緒莉のそういうところを尊敬して、他の人と違う自分の感性に似ている部分だと、そんな素敵な友達なのだと、今までずっと信じてきた。
でも、その正しさは操るための道具として使ってきただけなのだと知った。そんな見せかけの正しさに騙されて流されたらいけない。間違ってないことなんて、誰にでもなんとでも言えるんだから。
「だけどさ、目の前で言えない本音が晒される場所だからこそ、そこに真実があるんじゃないの? 誰にも現実では言えない裏側の真実をここでなら口に出せる。面と向かって言えないことがあって、訊きたいけど訊けないことがあって、吐き出せない気持ちとか情報をここに出すなら、それはその人の何にも左右されない本当の姿じゃん。それなのに同じ意見が多いならそれはもう現実では隠されてた真実ってことになるじゃん。誰かに決められたり縛られたりしない自由な意見が交わされる場所だからこそ多数決が強いんじゃないの?」
色んな意見があるはずなのに、そこで同じ意見ばかり目にするのなら、それはもう隠されてきた真実として受け取れるはずだと思う。表では言えない秘密を言える特別な場所なんだから。それが正しさのフィルターを取り除いた現実世界の正解だと思った。
それなのに、
「でもそんな人の悪口を書く人間の集まりやすいところで取った多数決なんて正しいのかな」
美緒莉は私の出した正解を否定する。さらに正しい美緒莉の見解で。
「そもそも後ろめたい悪意を外に出さない正しい判断ができる人はそんなところで呟かないと思うんだよね。SNSをしている人間の数はわかっていてもしてない人間の数はわかってないんじゃない? 実際全員がやってる体で話をされることが多いけどそうじゃないんだよね。やってない普通の人もいるの。更に言うならSNSの中でも全員がそこに集まってるわけじゃなくてそういう人間が集まりやすいコミュニティに顔を出してるってだけで、その人達をみんなって言葉でまとめて正しい意見だって受け取るのはとっても危ないことなんだよ」
「…………」
正論だった。正しく一歩離れた場所から世界が見られている人の視点の意見だ。
「つまり、今斗亜ちゃんはそういうことをする人間が集まる場所の偏った意見を真実としての受け取ってるってことになるんだけど、大丈夫かな。私の何をどうそこで知ったのかしらないけど、斗亜ちゃんは本人の言葉よりそんな人達の言葉を信じるような人なの?」
「!」
そして、美緒莉は言った。
「私はそんな斗亜ちゃん、知らないなぁ」
――そんな言い方ってないと思った。
「なんで私の人間性を否定する話になるの……?」
気づけばおかしいのは私の方だと言われている。変なのは私だと。私に自分を隠してたのはそっちなのに。
あなたに騙されてずっと知らないまま付き合ってきたのはこっちなのに!
「ずっと何もかも隠して私のこと騙してたくせに、綺麗ごとばっかり言うな!」
何でもない顔して人を階段から突き落とせる人間のくせに!
「悪口って誰かの感情なんだよ、つまりあなたはたくさんの誰かを悪い気持ちにさせていて、その被害者が場所を求めて集まってくるほどいるのに正論を盾にして自分の悪さから目を晒してるんだよ。だってあなたは私を殺すような頭のおかしい人なんだから!」
口に出してハッとした。私を殺す頭のおかしい人、だなんて、頭大丈夫?と思われるだけだ。それこそ本当におかしくなってしまったのは私の方ですと自分から白状したみたいな……でも、それってどういうこと?って訊かれても説明なんてできない……っ、絶対に間違った対応だった、バカだ私は! 本当にもう、
「斗亜ちゃん、覚えてるの?」
「覚えてるよ! だから言ってんじゃん!」
――……え?
今、なんて言った?
「お、覚えてる……」
もしかして、美緒莉、
「……覚えてるの?」
何それ。まさか、そんな、じゃあ、
「もしかして、始めからずっと……?」
美緒莉も、私と同じ記憶を持ってるの……?
それは唐突に、呆気なく知らされた真実だった。
「覚えてるよ、ずっと」
美緒莉のその言葉に、その瞳に――ゾッと全身が粟立つ。
「忘れたことないよ、忘れるはずない。そのために私は生きてきたんだから」
美緒莉のそれは沼の底から這い出てきたような重さを持っていて、
「斗亜ちゃんは覚えてるのに私にこんなことするの?」
どろりと恨めしく、私を睨みつけた。
……どういうこと?
「お、覚えてるからこうするんでしょ! 当たり前じゃん!」
何言ってんだろう。ていうか記憶があるなんて聞いてないし、あるなら何で言ってくれなかったんだろう。
「何が目的? こんなことしたってどうせまた繰り返すなら意味ないでしょ? もうやめて、」
「あなたがそう私に願ったのに?」
遮るように言われて口を噤むと、美緒莉は底が見えない瞳で「あぁ、わかった」と笑った。
「怒ってるんだ、怒ってるんだよね? 私が上手くできなかったから」
「は? 何言って、」
「だってそうだよ。斗亜ちゃんには私しか居なくて、私だから斗亜ちゃんは頼ってくれたのに、私にだけ言ってくれたのに、私は上手くできなかったから。だからもう、私はいらなくなったってこと……?」
ゆらりゆらりと傾くように一歩、一歩とこちらに近づいてくる美緒莉は足がとられたような重い足どりで、纏う異様な空気はまるで幽霊のようだった。
「嫌だ……そんなの嫌!」
カッと目を見開いた美緒莉が一気に距離を詰めてくるのをいち早く察して走り出す。逃げ場は階段しかないから先に下りてしまわないとと思った。
でも、それは一番ダメな選択だった。
「今度こそちゃんとやるから……!」
鈍臭い私の本気と何でもできる美緒莉の本気。比べるまでもなく答えは目の前に現れて、あっという間に追いつかれると、どんと背中を押されていた。
――あぁ、私、なんてバカで鈍臭いんだろう。
落ちて地面に転がった身体が悲鳴をあげている。
霞む視界の中に美緒莉が居る。
美緒莉は泣いていた。泣きながら笑って、
「大丈夫。今度こそ、大丈夫だからね」
そう言って、私の頭を撫でた。



