――どういうこと?
ハッと意識が戻ると、私はまた教室の自分の席についていた。一瞬の、本当に瞬きの間の出来ごとである。
え、何? 何があったの?
自分の身体を確認してみても特に変わったところはない。いつも通りの制服を着たいつも通りに自分の席に座る私だ。怪我の一つも、治った痕のようなものすらなかった。階段から落ちた時の感覚は記憶と一緒にはっきりと残ってるのに。あの、ドンッと美緒莉とぶつかった感覚が今も背中にこびりついている――いや、あの時のあれはぶつかったんじゃない。
押されたんだ。背中を、美緒莉に。
だって美緒莉は言ったんだ。
『斗亜。もう大丈夫だよ』
そう、優しく穏やかな声色で、安心した表情をして。階段から落ちて頭から血を流した私に向かって、起き上がれないまま意識が遠のいていく私に向かって。
あれは目の前で突然親友が事故に遭った時に見せる顔じゃない。私が落ちるのを知っていた人の顔だ。願った通りの結末を迎えた人の、私を落とした人の。じゃないと、あんな言葉が出てくるわけがない。
『今度こそきっと、大丈夫』
……今度こそって、どういうこと?
今度こそ、なんて言い方をするってことは、前回があったってことだ。同じことをして失敗した過去がある人が使う言葉だと思うから。
……え、もしかして一回目に階段から落ちたのも美緒莉の仕業ってこと?
だって同じように階段から落ちたのは事実だし……でも、そうなると美緒莉にも同じ記憶がある、ということになる。前回の美緒莉も私と同じように二回目の高校一年生を繰り返していた、ということに……だけど美緒莉にそんな素振りは見られなかった。教室で初めて会った時からずっと一回目と同じように私達は一緒に居たけど、美緒莉から一度も前回の話を聞いたことも、聞かれたこともない。
そんなこと出来ると思う?
――出来ない、と思う。初めて起こった超常現象を前に何も知らない顔で隠し通すなんて……でも、美緒莉は頭が良いからな。絶対にないとも言い切れない……。
「……小山さん?」
「!」
突然の声かけに、ハッと我に返り隣を向くと、そこにはいつも通りの美緒莉が居た。いつも通りの、見覚えのある――
「下の名前は何ていうの?」
――身に覚えのある、このやり取り。
息を呑んだ、と同時に理解した。また戻っているのだと。今ここは三回目の入学初日で間違いないのだと。
だから、
「……っ、」
前回みたいに答えようとして、
「…………」
答えられなかった。声が出なかった。
だって、怖かったから。
この人は本当に何も知らずにここで私と初めて出会った美緒莉なのだろうか。この人は今、どういうつもりで私に声をかけているのだろう。
この人は、あの時何で私を突き落としたの?
疑問と、不安と、警戒と、恐怖。彼女に対して感じたものの中にもう、安心なんてものは見当たらなくなっていて、だから私は、
「……斗亜です」
小さな声で呟くように答えると、ふっと顔を逸らしてこれ以上会話が続かないよう態度で拒絶を表した。すると今度は美緒莉の方で息を呑んだような間があくと、
「……私は桐野美緒莉です、よろしくね」
力なく聞こえてきた自己紹介の声に、胸がズキリと痛んだ。だって、こんなに悲しそうな美緒莉の声は初めて聞いたから。
それはそうだ、今ままで私は一度だって美緒莉にこんな冷たい態度を取らなかったから、緊張する美緒莉を見たことはあっても、傷つく美緒莉を目の当たりにすることは、こうやって自分で美緒莉を傷つけるなんてことは、初めてだった。
……本当に、この美緒莉はあの美緒莉なのかな。
私を突き落とした、あの。
今度こそ、なんて言うから、私と同じように記憶があるんじゃないかと思った。でも――だったら、
「あ……ごめんなさい。迷惑だった、よね。私、全然友達が居ないから作り方がわからなくて……」
こんなわざわざ、同じような言い回しのセリフを口にするだろうか。出会い方も会話の流れも変わらないのは、この美緒莉はあの日の記憶を持った美緒莉じゃなくて、私だけが全く同じ日を繰り返してる証拠になるんじゃないか。
だって記憶があったら同じ対応なんて出来ないはずだ。私みたいに、びっくりして少しずつ何かが変わるはず。でも美緒莉の変化は私の対応による違いだけで、自分から何か新しい全然違う反応を見せることはないし、記憶とか思い出を感じるような人間性?みたいなものの変化も見られない。
だとしたら、結局この美緒莉は誰なの?
「……気にしないで、私もわからないから」
だったら、わかるまで様子を見てみても良いのかもしれない。
一回目の美緒莉と二回目の美緒莉。そして、今の三回目の美緒莉。何が同じで何が違うのか。何よりあの時の美緒莉の言葉はどういう意味だったのか――。
「……よろしくね、桐野さん」
私はこの美緒莉を側で観察することに決めた。今までとは少し違う距離感で。
一回目と二回目の私達はお互いが唯一の親友とも言えるだけあって、だいぶベッタリとした二人きりの世界を生きる関係性だったと思う。でももし今回もそうなると、記憶があろうがなかろうが関係なく前回の繰り返しになってしまう訳だから、今回は仲の良い友達として側に居つつも、客観的な視点で私達を見る自分を意識していくことに決めた。
そうすればもし美緒莉が隠しごとをしていても毎日を過ごす中で何かしらのボロが出るのに気がつけるし、記憶の中にある私が決めつけた美緒莉だけに左右されないで今の美緒莉を判断できると思ったから。
私が知りたいのは今の美緒莉に前回の記憶があるのかと、美緒莉はなんで二回とも私を突き落としたのか、最後の言葉の意味は何なのか、の三つ。それを知らないことには私達は先に進めないし、もしかしたらそれを知るのが私の運命なのかもと思った。じゃないと三回目の今を繰り返す意味なんてないと思ったから。
「斗亜ちゃん、次移動教室だよ」
「あ、うん。わかった、今行くね」
他のクラスメイトと話をしていると、美緒莉が自分の教科書を手にして私を誘いにきてくれたので、私も用意して、「美緒莉ちゃんお待たせ」と、二人で次の生物室へと向かう。
それはいつも通りのやり取りだったけど、なんだか今日の美緒莉は納得がいかないみたいな顔をしていて、「呼び捨てでも良いのに……」と不満そうに呟いて私を見たから、つい苦笑いを浮かべてしまった。だってその返し方が過去の美緒莉そのまんまだったから。
今の私達があの頃とは少し違う距離感の関係性だったとしても、クラスメイトの中で一番仲良くしている相手なのには変わりなかった。だからそうやって美緒莉と関わる中でふとした瞬間、今みたいに身に覚えのある美緒莉が顔を出す時がある。
その度にやっぱり美緒莉は変わらないなと懐かしく感じる心があって、その都度その感情を引き剥がすように線を引かないといけなかった。だって、また前回までと同じようになってしまったら、折角の三回目の今に意味がなくなってしまうから。
今の美緒莉には、今の付き合い方がある。
「でもちゃん付けの方が口に馴染んでて呼びやすいんだもん。私、美緒莉ちゃん以外の子にも呼び捨てしてないでしょ?」
「確かにそうだけど……」
「てか、美緒莉ちゃんこそ私のこと呼び捨てにして良いんだよ?」
「……ううん、いい。私もちゃん付けが馴染んでるから。人を呼び捨てとかしたことないし」
「……そうなんだ」
そう答えながらそっと美緒莉の様子を窺ってみる。人を呼び捨てにしたことがない、そう告げる美緒莉の表情には動揺の色は見えなくて、今の言葉にこれっぽっちも嘘はないように見えた。
じゃあやっぱり、前回の記憶があるって訳じゃないのかな……。
「私も一緒で経験ないかも。呼び捨てって結構勇気がいるよね。みんなどのタイミングで切り替わるんだろう?」
「……わかんない。みんなともあんまり関わったことがないから」
重たくなった声と共に地面へ視線を落としていく美緒莉がしょんぼりと落ち込んでいるのが目に見えてわかった。さすがに可哀想になってどうしようかなと考え始めると、私の心境が伝わったのか、美緒莉は自分の口から出てしまった言葉にハッとしたようで、空気が悪くならないよう一生懸命笑顔を作ってみせる。そして、
「きっとそういうタイミングを掴むとか、むしろ始めから呼んじゃうとか、何かコツがあるんだろうね」
なんて前向きな発言に切り替えて、「そういえば今日観察の日だっけ」と、さらりと話題を変えてみせた。
……健気で真面目で、素直な人なんだよなぁ。
前の美緒莉もそういう所は同じで、親友と呼べるくらい仲良くなるまではすごく気を遣ってるというか、人付き合いに対する自信のなさみたいなものが滲み出ていることが多かった。
それは今のクラス内の美緒莉を見ていてもわかる。前回と違った少し離れた位置から美緒莉を見てみると、今までの私が知ろうともしてなかった美緒莉のクラス内での立ち位置みたいなものが段々と見えてきて、私の隣以外での美緒莉を私は初めて知ったのだ。



