直樹の顔にはもう笑みはなかった。真剣なその表情にどくっと心臓が鳴いて慌てる。
こんなの、聞こえちゃったら……まずい。
「嘘なんだろ! わかったって!」
「うん、嘘。でもごめん。聞いて」
慌てて身をよじると、僕の手首にかかった直樹の手に力が籠る。放して、と腕を振ろうとして、僕は口を噤む。
……潤んだ目が僕を見据えていたために。
「同じ部に好きな子がいるって話。あそこだけはね、嘘じゃない」
そろそろと見返すと、彼は困ったように僕の手を握る手とは逆の手で前髪を掻き上げた。
その手の陰に見えた頬の色に目が吸い寄せられる。
それは……雪の中に咲いた梅の花みたいな紅に染まっていた。
「俺ね、お前の小説がすごく好きで」
ぼそぼそと言いながら、言葉を探すように直樹は目を伏せる。
「お前の話って悲しいの多いけど、でもさ、芯にこう、暖かいものがあるんだよな。登場人物もさ、どんな苦難あってもちゃんと自分で乗り越えていく。その強さがすごくいいなって思ってた」
「いつも、ぼろくそ言うくせに」
僕のほうこそもう少し言い方あるだろう。褒めてくれてるのにこの返しはなんだ。
自分で自分にげんなりする。が、直樹は気を悪くした様子もなく、唇の端をちょっと上げた。
「それは愛のムチってやつ。だってもったいないじゃん。原石、そのまんまにしておくの。ってかさ、俺、原作ありの漫画って否定派だったの。話も漫画もどっちもひとりの人間がやってこそって思っててさ、ぶっちゃけ小説家ってやつも馬鹿にしてた。小説じゃ漫画のこの一発でずどんって脳天に響く感情、表現できないだろって」
「お前、小説なめんなよ。大体なあ、そんなどっちがどうとか……」
「うん、ほんとそう。それ、お前の小説で思い知った」
きっぱりと謝られ、僕は文句を言おうとしていた口を閉じる。その僕にちらっと微笑みかけてから、直樹はふうっと小さく息を吐く。
「お前の話、どれもすごくいいんだもん。感情がぐらんぐらん揺さぶられる。なんでこんな話思いつくのかってめちゃくちゃ気になった。だからさ、クリエイティブな興味で最初は一緒にいたんだ。そうしてたら、わかった。お前が周りをすごく優しい目で見てるって」
「……そ、んな、ことは」
「あるよ。たとえば……そう、そのパソコンとか」
「パソコン?」
机の上、まだ直樹の方を向いたままの黒いそれに目をやると、ん、と直樹は小さく頷いて、軽く小首を傾げた。
「綾斗、パソコン使うとき、閉じるとき、こいつの背中? ってのかな、モニターの裏面、撫でるじゃん。指の腹でさらっと。あれがね、なんか見ててほっこりして」
「そ、あ……まあ」
確かにしている。僕にとってこいつは大事な相棒で、一緒に戦う同士だから。だから、あいさつ代わりにちょっと撫でていただけなんだけれど、まさか直樹に気付かれていたとは思わなかった。
なんだか、恥ずかしい。
気付かれていたことも、直樹に……僕の仕草が見られていたことも。
照れて俯きそうになると、手首がくん、と急に引かれた。はっとして顔を上げる僕を見据えるのは、これまで見たことがないくらい真剣な直樹の顔。
「考えてみればお前って人間にもそうなんだよな。俺が元気ないと一番に声かけてくるのお前なの。でも、それ見てたらなんか焦っちゃった」
「あせ、る?」
「うん」
そっと頷いて、直樹は僕の手首を引っ掴んだのとは逆の手でまた髪を搔き上げる。その指先がわずかに震えているのが見え、息を呑む僕の耳を、低い声がなぞる。
「このままだと綾斗に注目するやつ、俺以外にも出てきちゃうから。俺、取られたくないんだよ。お前のこと」
なに、それ。
取られたくない、って。
それって、もしかして。
僕と、同じ、気持ちって、こと?
くらくらする。窓の外で合唱する蝉の声がぐわんぐわんと脳の中で反響する。眩暈に襲われ、椅子にへたり込むと、え、と慌てたような声が降ってきた。
「なに、ちょっと、大丈夫か? 水分……これ、俺の飲めよ」
手首に絡んでいた手が解け、机の上のスポドリをさらう。常になく慌てた様子を見ているうちに、少し落ち着いてきた。
さんざん慌てさせられたし、僕も言っていいだろうか。
「ありがと。あのさ、直樹」
「うん?」
「それ……お前がさっきから飲んでたそのスポドリ、ね」
「は? うん」
きょとんとした顔で直樹が頷く。その彼に僕は言ってやった。
「それ、僕が飲んでたやつだから。お前間違えてずっと飲んでたけど」
「え」
そろおっと直樹が手の中のペットボトルを見る。と同時に頬がみるみる赤くなっていく。
その感情そのままを示す顔色を見たら、さっきの言葉も全部、嘘じゃないってわかってしまった。
……ああ、もう、どうしよう。
僕はふうっと大きく息をつく。そして、嘘、と呟く。直樹が再び瞬きをした。
「は? え、どこが嘘?」
「だから、それはもともとお前の。僕のはこの中」
机に放りだしていた通学バッグを指さして言うと、直樹が数秒固まった。
直後、ずしゃり、と僕より大きな体が机の上で潰れた。
「お前、それはついちゃだめな嘘だろ……」
「直樹だってついちゃだめな嘘ついてた」
「俺のは嘘じゃないから」
そうだ。好きな子が部にって、あれ……。
頬を染めたとき、なあ、と呼びかけられる。
見返す僕の目を捉えたのは、夏の暑さにも負けない熱い、瞳。
「俺の嘘、ついちゃだめってお前が思った理由、教えてくんない?」
「そっ……」
「どこが嫌だった? 練習のキス? それとも部内に好きな子がいるって言ったとこ?」
「いや、あの、だから……」
「お前は俺が練習じゃないキス、お前としたいって言ったら、どうすんの?」
なんだよこいつ。ぐいぐい詰めてきやがる。そもそもあんな嘘話したのだって、僕の気持ち試してやがったんだ。ひどいやつ。
しかもこれ、質問に答えたらずっと隠していた気持ちを全部言うことになっちゃうじゃないか。
それはさすがに怖い。
どうしよう。迷うが、直樹は許してくれそうにない。視線を彷徨わせ見つけたのは、スポドリのペットボトル……。
「え」
驚く直樹を尻目に、無我夢中で手を伸ばす。キャップを開け、躊躇いなく口をつける。
スポドリをがぶ飲みする僕を、呆気に取られたように直樹が見ている。それでも飲むのをやめず、ボトルが空になったところで僕は大きく肩で息をついた。
「よ、よし! 練習終わり!」
「綾斗、なに?」
「だから! キ、キスの練習、してみようって思っただけ!」
「それ……」
すうっと直樹の目が見開かれていく。次いでじわっと滲むみたいに目が柔らかく細められた。
「関節キスで練習ってこと? それ、練習相手、俺でいいの?」
「いいってか……あの」
ヤバい。却って墓穴掘ってるかも。ちらっと窺えば、直樹のわくわく顔がそこにある。
困った。
物語を書いて見せたときも時折見せてくれるその顔に、僕はすごく、弱い。
なにも、ごまかせなく、なる。
「練習も、本番も……直樹じゃないと、ちょっと……」
そこまで言ったときだった。手の中からするっとペットボトルが抜き取られた。まだキャップが開いたままの飲み口に引き締まった唇がすうっと寄せられる。
透明なペットボトル越し、笑みの形を作る唇がはっきりと見え、心臓がどくん、と大きく波打った。
「よし、俺も練習終わり。次は?」
「え、あ……」
ああもう、どうしよう。けれど、直樹はやっぱりわくわく顔をしている。
くそ……。こいつがこんなに恋愛強者だったとは……。
不覚、と肩を落としつつも、僕はぎこちなく唇を動かす。
だって、こいつのこの顔を見たら、言いたくなっちゃうじゃないか。
「本番も、して、みます、か?」
ああ、だめだ。耳が熱くなるのを止められない。両手で顔を覆う僕に、直樹はぷっと吹き出した後、よろしくお願いします、と笑ってそっとこちらに身を乗り出してきた。
こんなの、聞こえちゃったら……まずい。
「嘘なんだろ! わかったって!」
「うん、嘘。でもごめん。聞いて」
慌てて身をよじると、僕の手首にかかった直樹の手に力が籠る。放して、と腕を振ろうとして、僕は口を噤む。
……潤んだ目が僕を見据えていたために。
「同じ部に好きな子がいるって話。あそこだけはね、嘘じゃない」
そろそろと見返すと、彼は困ったように僕の手を握る手とは逆の手で前髪を掻き上げた。
その手の陰に見えた頬の色に目が吸い寄せられる。
それは……雪の中に咲いた梅の花みたいな紅に染まっていた。
「俺ね、お前の小説がすごく好きで」
ぼそぼそと言いながら、言葉を探すように直樹は目を伏せる。
「お前の話って悲しいの多いけど、でもさ、芯にこう、暖かいものがあるんだよな。登場人物もさ、どんな苦難あってもちゃんと自分で乗り越えていく。その強さがすごくいいなって思ってた」
「いつも、ぼろくそ言うくせに」
僕のほうこそもう少し言い方あるだろう。褒めてくれてるのにこの返しはなんだ。
自分で自分にげんなりする。が、直樹は気を悪くした様子もなく、唇の端をちょっと上げた。
「それは愛のムチってやつ。だってもったいないじゃん。原石、そのまんまにしておくの。ってかさ、俺、原作ありの漫画って否定派だったの。話も漫画もどっちもひとりの人間がやってこそって思っててさ、ぶっちゃけ小説家ってやつも馬鹿にしてた。小説じゃ漫画のこの一発でずどんって脳天に響く感情、表現できないだろって」
「お前、小説なめんなよ。大体なあ、そんなどっちがどうとか……」
「うん、ほんとそう。それ、お前の小説で思い知った」
きっぱりと謝られ、僕は文句を言おうとしていた口を閉じる。その僕にちらっと微笑みかけてから、直樹はふうっと小さく息を吐く。
「お前の話、どれもすごくいいんだもん。感情がぐらんぐらん揺さぶられる。なんでこんな話思いつくのかってめちゃくちゃ気になった。だからさ、クリエイティブな興味で最初は一緒にいたんだ。そうしてたら、わかった。お前が周りをすごく優しい目で見てるって」
「……そ、んな、ことは」
「あるよ。たとえば……そう、そのパソコンとか」
「パソコン?」
机の上、まだ直樹の方を向いたままの黒いそれに目をやると、ん、と直樹は小さく頷いて、軽く小首を傾げた。
「綾斗、パソコン使うとき、閉じるとき、こいつの背中? ってのかな、モニターの裏面、撫でるじゃん。指の腹でさらっと。あれがね、なんか見ててほっこりして」
「そ、あ……まあ」
確かにしている。僕にとってこいつは大事な相棒で、一緒に戦う同士だから。だから、あいさつ代わりにちょっと撫でていただけなんだけれど、まさか直樹に気付かれていたとは思わなかった。
なんだか、恥ずかしい。
気付かれていたことも、直樹に……僕の仕草が見られていたことも。
照れて俯きそうになると、手首がくん、と急に引かれた。はっとして顔を上げる僕を見据えるのは、これまで見たことがないくらい真剣な直樹の顔。
「考えてみればお前って人間にもそうなんだよな。俺が元気ないと一番に声かけてくるのお前なの。でも、それ見てたらなんか焦っちゃった」
「あせ、る?」
「うん」
そっと頷いて、直樹は僕の手首を引っ掴んだのとは逆の手でまた髪を搔き上げる。その指先がわずかに震えているのが見え、息を呑む僕の耳を、低い声がなぞる。
「このままだと綾斗に注目するやつ、俺以外にも出てきちゃうから。俺、取られたくないんだよ。お前のこと」
なに、それ。
取られたくない、って。
それって、もしかして。
僕と、同じ、気持ちって、こと?
くらくらする。窓の外で合唱する蝉の声がぐわんぐわんと脳の中で反響する。眩暈に襲われ、椅子にへたり込むと、え、と慌てたような声が降ってきた。
「なに、ちょっと、大丈夫か? 水分……これ、俺の飲めよ」
手首に絡んでいた手が解け、机の上のスポドリをさらう。常になく慌てた様子を見ているうちに、少し落ち着いてきた。
さんざん慌てさせられたし、僕も言っていいだろうか。
「ありがと。あのさ、直樹」
「うん?」
「それ……お前がさっきから飲んでたそのスポドリ、ね」
「は? うん」
きょとんとした顔で直樹が頷く。その彼に僕は言ってやった。
「それ、僕が飲んでたやつだから。お前間違えてずっと飲んでたけど」
「え」
そろおっと直樹が手の中のペットボトルを見る。と同時に頬がみるみる赤くなっていく。
その感情そのままを示す顔色を見たら、さっきの言葉も全部、嘘じゃないってわかってしまった。
……ああ、もう、どうしよう。
僕はふうっと大きく息をつく。そして、嘘、と呟く。直樹が再び瞬きをした。
「は? え、どこが嘘?」
「だから、それはもともとお前の。僕のはこの中」
机に放りだしていた通学バッグを指さして言うと、直樹が数秒固まった。
直後、ずしゃり、と僕より大きな体が机の上で潰れた。
「お前、それはついちゃだめな嘘だろ……」
「直樹だってついちゃだめな嘘ついてた」
「俺のは嘘じゃないから」
そうだ。好きな子が部にって、あれ……。
頬を染めたとき、なあ、と呼びかけられる。
見返す僕の目を捉えたのは、夏の暑さにも負けない熱い、瞳。
「俺の嘘、ついちゃだめってお前が思った理由、教えてくんない?」
「そっ……」
「どこが嫌だった? 練習のキス? それとも部内に好きな子がいるって言ったとこ?」
「いや、あの、だから……」
「お前は俺が練習じゃないキス、お前としたいって言ったら、どうすんの?」
なんだよこいつ。ぐいぐい詰めてきやがる。そもそもあんな嘘話したのだって、僕の気持ち試してやがったんだ。ひどいやつ。
しかもこれ、質問に答えたらずっと隠していた気持ちを全部言うことになっちゃうじゃないか。
それはさすがに怖い。
どうしよう。迷うが、直樹は許してくれそうにない。視線を彷徨わせ見つけたのは、スポドリのペットボトル……。
「え」
驚く直樹を尻目に、無我夢中で手を伸ばす。キャップを開け、躊躇いなく口をつける。
スポドリをがぶ飲みする僕を、呆気に取られたように直樹が見ている。それでも飲むのをやめず、ボトルが空になったところで僕は大きく肩で息をついた。
「よ、よし! 練習終わり!」
「綾斗、なに?」
「だから! キ、キスの練習、してみようって思っただけ!」
「それ……」
すうっと直樹の目が見開かれていく。次いでじわっと滲むみたいに目が柔らかく細められた。
「関節キスで練習ってこと? それ、練習相手、俺でいいの?」
「いいってか……あの」
ヤバい。却って墓穴掘ってるかも。ちらっと窺えば、直樹のわくわく顔がそこにある。
困った。
物語を書いて見せたときも時折見せてくれるその顔に、僕はすごく、弱い。
なにも、ごまかせなく、なる。
「練習も、本番も……直樹じゃないと、ちょっと……」
そこまで言ったときだった。手の中からするっとペットボトルが抜き取られた。まだキャップが開いたままの飲み口に引き締まった唇がすうっと寄せられる。
透明なペットボトル越し、笑みの形を作る唇がはっきりと見え、心臓がどくん、と大きく波打った。
「よし、俺も練習終わり。次は?」
「え、あ……」
ああもう、どうしよう。けれど、直樹はやっぱりわくわく顔をしている。
くそ……。こいつがこんなに恋愛強者だったとは……。
不覚、と肩を落としつつも、僕はぎこちなく唇を動かす。
だって、こいつのこの顔を見たら、言いたくなっちゃうじゃないか。
「本番も、して、みます、か?」
ああ、だめだ。耳が熱くなるのを止められない。両手で顔を覆う僕に、直樹はぷっと吹き出した後、よろしくお願いします、と笑ってそっとこちらに身を乗り出してきた。



