日が暮れた頃、一行はゼリアとの国境近くにあるトルシアの砦へ到着した。
今夜はここで休息を取り、翌朝、王都へ向けて出発する予定になっている。
それぞれ部屋へ案内されると、戦闘や長時間の移動で汚れた体を清めるため、まずは入浴を済ませることになった。
アリス、ウィル、ザイルはそれぞれ来賓用の客間へ、ダリアとジョンは騎士用の個室へと案内された。
女性用の浴室がないため、ダリアはアリスの客間に備えられた浴室を借りることになった。
アリスの後に浴室へ入ったダリアが、髪を拭きながら部屋へ戻ってきた。
「ダリアさん、早くありませんか?」
「仕事柄、手早く済ませるのが癖なんです。それより……姫様、髪が伸びましたね」
アリスは長い黒髪を拭きながらため息をつく。
「えぇ、すっかり。切らないとダメね。乾かすのも大変になってしまって」
「でしたら、お拭きします」
「でも、ダリアさんも乾かさないと」
「私は短いので、すぐ乾きます。それに……」
ダリアは楽しそうに言う。
「姫様の髪に触れる機会なんて、そうありませんから。ぜひ、拭かせてください」
その言葉に、アリスは迷った末、手にしていたタオルを差し出した。
「……では、お願いします」
ダリアはタオルを受け取ると、後ろへ回り込み、優しく黒髪を包む。
「こうしてまたお会いできて、本当に嬉しいです」
「皆さんが助けてくださったおかげです」
「私たち塔の護衛騎士は、皆、助けに行きたくて仕方ありませんでしたから。レオニダスなんて、今回の作戦に選ばれなかったことを、とても悔しがっていましたし」
「レオニダスさんが……」
アリスは思わず目を丸くする。
「戻ったら、改めて皆さんにお礼を言わないと」
「お礼なんて、いいですよ。皆にとっては、姫様がご無事だったことが何より嬉しいことなんです」
そう言ってから、ダリアは不意に何かを思い出したようにフフッと笑う。
「そういえば、先ほどは大変でしたね」
「え?」
「砦へ着いた時のことですよ」
◇◇◇◇◇
ウィルは馬車を降りると、当然のようにアリスを抱き上げたまま客間へ向かおうとした。
「あの……もう歩けますから。先ほど休憩した時は、自分で歩いていましたし」
「しかし、客間は三階だ」
「でも……」
心配してくれるのは、分かっている。
でも……このまま運ばれるのは、さすがに恥ずかしい。
アリスは先ほどまで診察してくれていたザイル医師へと視線を向ける。
困ったようなアリスの視線に、ザイルは苦笑した。
「ウィル殿下。ご様子を見る限り、ご体調は問題ありませんよ」
「……そうか」
少し間を置いてから、ウィルはようやくアリスを地面へ降ろした。
◇◇◇◇◇
その時のことを思い返し、アリスの頬がじんわりと赤く染まる。
「……体調を気遣ってくださっているのは分かっているんです、でも……」
「分かります。皆に見られていると、恥ずかしいですよね」
「……少し」
ダリアはくすりと笑った。
「ですが、しばらくは団長に甘えてください。団長も、その方が安心できるでしょうから」
アリスは恥ずかしそうに視線を伏せる。
「……もう、十分なくらい甘えているのにですか?」
「全然ですから。姫様は遠慮しすぎです」
「そうかしら……」
「そうです」
ダリアは迷いなく言い切ると、冗談めかして笑った。
「私が思うに、団長はもっと甘えてほしいくらいだと思いますけど」
「……?」
――これ以上、どう甘えればいいのかしら?
アリスは内心首を傾げた。
そんなことを考えているうちに、ダリアは髪に残った水気を丁寧に拭き取っていく。
やがて、髪から十分に水気が取れたところで、ダリアはタオルを外した。
「どうですか」
「えぇ、ありがとうございます」
「いえ。姫様のお世話ができて光栄です」
その後、二人は身支度を整え、ウィルやジョン、ザイルと夕食を囲んだ。
食事を終える頃には、就寝時間も近くなっていた。
「後で、少しだけ様子を見に行く」
「はい。……待ってますね」
「遅くなるかもしれないから、眠っていて構わない」
ウィルはこれから、砦を預かる騎士隊長と、ゼリアの情勢や今後予想される動きについて協議する必要があった。
アリスの頭にポンと触れると、そのまま協議の場へと向かう。
アリスはその後ろ姿を見送ってから、ダリアに付き添われて客間へと戻った。
――――――――――――――
寝支度を済ませたアリスは、ベッドの端に腰掛けていた。
ダリアはアリスを部屋まで送り届けると、自身に用意された部屋へ戻っており、扉の外には砦の騎士が一名、護衛についていた。
しばらくはそのままウィルを待っていたが、次第にまぶたが重くなってくる。
アリスは布団の中へ入り、枕に頭を預ける。
――ウィル様が来るまで眠りたくない。今、眠ったら、夢から醒めてしまいそうで……。
けれど、横になると眠気はますます強くなり、いつの間にか浅い眠りに落ちかけていた。
コンコン、と扉を叩く音が響く。
「……!」
アリスははっと目を開いた。
――ウィル様。
慌てて身を起こし、少し乱れた髪を手で整える。
もう一度、扉が叩かれた。
「お入りください」
返事をすると、やがて扉が開き、ウィルが姿を現した。
ベッドの上で身を起こしているアリスを見るなり、ウィルはわずかに眉を寄せる。
「……眠っていたのではないか?」
「いえ、少しウトウトしていただけなので、大丈夫です」
「起こしてしまったか、すまない」
「いえ。あの……」
アリスは少しだけ頭を振ってから、恥ずかしそうにつぶやく。
「眠る前にお顔が見たくて」
「……」
ウィルは一瞬言葉を止め、それからわずかに口元を緩めた。
そして、ベッド脇の椅子へ腰を下ろした。
「明日は朝早く王都へ向かう。到着は夕刻頃になるだろう」
「分かりました」
「今後は、屋敷で暮らしてもらうつもりだ」
アリスはその言葉に目を瞬いた。
「婚姻前ですが、いいのですか?」
「あぁ、了承は得ている。式までは客間で過ごしてもらうことになるが」
「はい」
アリスは嬉しそうに頷いた。
「屋敷の皆も、アリスを待っている」
「クララさんたちにも、会えるのですね」
「あぁ。皆、喜ぶだろう」
クララやテリー、それから屋敷の人々の顔が次々と浮かんでくる。
「婚姻に向けた準備も早急に進めたい。少し慌ただしくなるかもしれないが、大丈夫か?」
「大丈夫です」
アリスはコクコクと頷く。
「あの……婚姻式のドレスはどうなりましたか?」
捨てられていないか心配になり、真っ先にドレスのことが口から出た。
「まだ仕立て屋の手元だ。寸法合わせの途中だっただろう?」
「そういえば、そうでした」
当たり前のように答えられ、アリスはほっとする。
ゼリアへ向かった時には、もう着ることはないと思っていた。
「家具についても、テリーにすぐ進められるよう話してある」
アリスは、途中になっていた家具選びのことも思い出す。
「まだ決めていないものも、ありましたね」
「あぁ。店にも見に行こうと約束していたな」
「はい。楽しみです」
アリスの表情がパッと明るくなる。
そんな話をしているうちに、アリスは眠そうに目をこする。
「もう、寝た方がいい。明日も早い」
「……はい」
アリスは素直に布団の中へ戻った。
「ウィル様も、早くお休みになってください」
「もう少ししたらな」
ウィルはそう言うと、アリスの右手を握った。
その時、アリスの手首に結ばれた守り紐が目に留まる。
「……これは?」
「作ったんです。いただいたネックレスを見本に」
「鈴蘭か」
「はい」
答えながら、アリスはゆっくりと瞬きをする。
ウィルは鈴蘭の守り紐をしばらく見つめていた。
「いつ作ったんだ?」
「ゼリアで……」
そこまで答えたところで、アリスの瞼がまた重たそうに落ちる。
けれど、ふと思い出したように目を開くと、右手を握るウィルの手首へ視線を向けた。
そこには、以前自分が贈った月の守り紐が、今も結ばれている。
「……ずっと、してくださっていたんですね」
「あぁ」
アリスは幸せそうに微笑む。
「あの……お願いを聞いていただけますか」
「何だ?」
「守り紐を交換して欲しくて……」
「構わない」
「……ありがとうございます」
アリスはウィルの手首にある月の守り紐へ、そっと指先で触れた。
「ウィル様は……お月さまみたいだと思って……それで、これを……」
「月?」
ウィルは予想外の言葉に少し困惑した表情を浮かべる。
「はい……」
アリスの瞼が、ゆっくりと閉じていく。
「私には……空に浮かぶ……綺麗な月で……手がとど……」
「……アリス?」
返事はない。
ウィルに手を預けたまま、アリスは穏やかな寝息を立て始める。
「……月、か」
思い返せば、幼い頃には天使だと言われた。
そして今日、目を覚ましたばかりのアリスにも、また天使と間違えられた。
「月に、天使……」
ウィルは何ともいえないため息を吐く。
「どちらも、俺には程遠いんだが」
ふと、アリスの手首へ視線を落とす。
そこには、鈴蘭の守り紐が結ばれている。
小さな白い花を模した飾りを見つめ、ウィルはわずかに口元を緩める。
――アリスのようだ。小さくて可愛いオレの姫。
しばらく、その寝顔を見つめていた。
ようやく、何もかも取り戻せた。
だからこそ……。
――もう二度と、手放さない。



