不吉を呼ぶ姫は愛されないはずだった ―王弟が望んだのは、ただ一人の婚約者―



馬車はゆっくりと街道を進んでいた。

「……ケホッ、コホッ」

喉が乾燥しているのか、軽く咳き込む。

「今、水を」

ウィルは座席の脇へ置いていた水筒を手に取り、蓋代わりのコップへ水を注ぐと、アリスへ差し出した。

「ありがとうございます」

アリスは受け取った水をゆっくりと飲み干す。

乾いていた喉が潤い、ようやく人心地ついた。

「もう少し飲むか?」

「いえ、もう大丈夫です」

コップを返すと、アリスは再びウィルの体へもたれようとして、ふと動きを止めた。

――そういえば……。

一度「降ろしてください」とお願いしてから、もうかなり時間が経っていた。

――ずっと私を膝に抱えたまま……。ウィル様だって、お疲れのはずなのに。

――私ったら、甘えすぎだわ。

「あの……」

「なんだ」

「もう体は何ともありませんから、降ろしてください。その……ずっとこのままだと、ご負担になりますから」

実際、体の気だるさもほとんどなくなっていた。

ウィルはじっとアリスを見つめ、それからきっぱりと口を開く。

「このままでいい」

「……重いですし。それに……その、少し太ってしまった気がして……」

恥ずかしそうに呟く。

「全く重くない」

即答だった。

「そんなことは……」

アリスが言葉を続けようとした、その時だった。

「降ろすつもりはない」

炎の中でアリスを失いかけた光景がまだ脳裏から離れず、ウィルは身体に回していた腕を引き寄せ、再び自分へともたれさせた。

「……っ」

アリスは瞳を瞬かせて、ウィルを見上げる。

けれど、その表情がどこか張り詰めていることに気づいた。

――とても心配をかけてしまったのね。

「……ご負担でなければ……その……」

――本当はもう少しこのままでいたい。

それは言葉にはならなかった。

しばらくは、馬車の揺れと規則正しい蹄の音だけが続く。

ウィルにもたれ、その温もりに身を委ねながら、アリスはその音へ耳を傾けていた。

ふと、今さらながらあることに思い至る。

「……ウィル様?」

ウィルが視線を向ける。

「私……何も言わずにゼリアを出てしまって、大丈夫だったのでしょうか」

「問題ない」

ウィルは頷いた。

「セシリオ殿下とは、アリスに危害が及ぶようなことがあれば、すぐに連れ帰る約束になっていた」

アリスは目を丸くする。

「……このような事態だけは絶対に避けたかった」

ウィルはわずかに目を伏せた。

「本来なら、火に巻き込まれる前に助け出さなければならなかった」

しばらく黙ったあと、低い声で続ける。

「……すまない」

「そんな……謝らないでください」

アリスの視線はウィルの左手へと向く。

アリスの膝の上に置かれたその手は、固く握り締められていた。

――きっと、ご自分を責められているんだわ……。

ウィルの握り締められた指に触れ、一つずつ優しくほどいていく。

そして、その手を自分の頬へそっと当てた。

ウィルは何も言わず、そのまま好きにさせていた。

アリスは少しだけ考えてから、ゆっくりと口を開く。

「あの時はとても怖かったです……」

「でも、ウィル様が助けてくださったから、私はこうしてここにいられます」

アリスはふわりと笑った。

「……そうか」

ウィルは頬へ添えていた親指で、そっとその肌を撫でた。

しばらくアリスを見つめていたウィルが、やがて口を開く。

「……何があったか、話そう」

ウィルは、一つひとつ事情を話し始めた。

ゼリアでセシリオが起こした政変。

トルシアとミルバーグが密かに協力していたこと。

ウィルがゼリアに来ることになった経緯。

アリスは時折驚いたように目を見開きながら、耳を傾けていた。

初めて知ることばかりだった。

けれど、話の端々から、自分を守るために動いてくれていたことが伝わってきた。

――最初からずっと、守られていたのね。


――――――――――――――


夕方近く、馬車はセシリオが休憩地点として用意していた貴族の邸宅へと近づいていた。

御者台ではダリアが手綱を握り、その隣にはザイル医師が座っている。

馬車の傍らでは、ジョンが馬を進めていた。

救出に加わった他の騎士たちは、大人数での移動を避けるため、先にそれぞれ帰路についていた。

エリオットだけは一足先に邸宅へ到着している。この休憩を終えれば、彼もミルバーグへの帰路につく予定だ。

やがて馬車が速度を落とし、邸宅の前で止まった。

アリスはウィルに支えられながら、馬車を降りる。

「姫様、お久しぶりです」

ダリアが明るい笑みを浮かべた。

以前と何も変わらない様子に、アリスも思わず頬を緩める。

「ご無事で安心いたしました」

ジョンも安堵したように頭を下げる。

「お二人とも……助けていただいて、本当にありがとうございます」

感謝を込めて、アリスは頭を下げた。

「おやめください」

「そうですよ」

二人は慌てたように声をそろえる。

ウィルはそっとアリスの背へ手を添えた。

「ダリア、アリスを中へ案内してくれ」

「姫様、行きましょうか」

休憩のため、アリスがダリアと共に屋敷へ入ろうとした時だった。

邸宅の扉が開き、バスケットと紅茶のティーポットを載せたワゴンを押しながら、エリオットが姿を現した。

「邸宅の主人からの差し入れです」

そうウィルへ告げると、アリスへ向き直る。

「アリス様、ご無沙汰しております」

「エリオットさん。お久しぶりです」

思いがけない再会に、アリスは目を丸くしたが、すぐに感謝を伝える。

「助けていただいて、ありがとうございます」

エリオットは首を横へ振る。

「とんでもないです」

「あの、他の騎士の皆さんにも、お礼をお伝えいただけますか?」

「ええ、必ず。皆、喜びます」

アリスはほっと息を吐く。

「それから、リリスとご結婚されたと、お兄様から伺いました」

「はい」

「リリスは、元気にしていますか?」

「ええ。元気にしております」

エリオットが頷く。

「実は、リリスからアリス様へお願いを預かっております」

「私に、ですか?」

「アリス様がご結婚されるまでの間、もう一度お傍でお世話をさせていただけないでしょうか、と」

アリスは思わず目を見開いた。

「そんな……」

「リリスは、まだ結婚したばかりなのに……」

嬉しさと申し訳なさが入り混じる。

「私はとても嬉しいですけど……エリオットさんは、本当にいいんですか?」

「ええ」

エリオットは穏やかに微笑んだ。

「リリスにとってアリス様は、家族のように大切な方ですから」

その言葉に、アリスも思わず微笑む。

「私にとってもリリスはかけがえのない家族です」

そして、隣に立つウィルへと話しかける。

「あの……婚姻式まで、リリスに来てもらってもいいでしょうか?」

ウィルは迷うことなく頷く。

「あぁ、もちろん」

――リリスに、また会えるのね!

「あの、リリスへ。楽しみにしていると伝えてくださいますか」

「承知いたしました。大喜びするのが目に浮かびます」

エリオットは柔らかな笑みを浮かべた。

「リリスは、アリス様の婚姻の準備をお手伝いできなかったら、一生悔いが残るとも申しておりましたので」

「……リリスらしいです」

アリスはくすりと笑う。

それから、エリオットの目を真っすぐに見つめる。

「エリオットさん、リリスをどうかよろしくお願いいたします」

「リリスは、いつも私のことばかり優先してきたので……これからは、誰より幸せでいて欲しいんです」

「はい」

その言葉に込められた想いを、しっかりと胸に刻むように、エリオットは力強く頷いた。

アリスはそっとウィルを見上げた。

もう失ってしまったと思っていた時間が、少しずつ自分のもとへ戻ってきているような不思議な感覚がした。

――こんなに幸せでいいのかしら。