朝の空気はとてもすがすがしい。
アリスはじょうろを持って塔の外へ出ると、花壇の前で足を止めた。
夕食会から数日。
昨日の夜、ウィルは、いつもと変わらず林の中のベンチに現れた。
その姿を見たとき、アリスは気づけば口元を緩めていた。
今日もいらっしゃったのだと、それだけで少し嬉しくなった。
花壇に水をやりながらも、つい昨夜のウィルの姿が頭に浮かぶ。
アリスは手を止め、朝の風に揺れる花々をしばらく眺めていた。
それから再びじょうろを傾け、花壇の花へ水をやり終えると、そのまま隣の菜園へ視線を向ける。
菜園には葉物野菜や小ぶりの根菜が植えられていて、どれも順調に育っていた。
「おはようございます、姫様」
明るい声がして顔を上げると、塔の入口に立っていた本日の護衛騎士の一人であるダリアがこちらへ歩いてくるところだった。
「おはようございます」
アリスが返すと、ダリアは花壇を覗き込みながら笑う。
「今日も元気ですね。姫様のお世話がいいんでしょうね」
「そんなことないわ。ただ水をあげているだけだもの」
「それが一番大切なんですよ」
ダリアは気さくにそう言って、アリスから空になったじょうろを自然な動作で受け取り、水道をひねって水を入れる。
ダリアは26歳で、アリスより1つ年下だという。明るくて、人懐っこくて、思ったことをそのまま口にする。塔の警備に来る騎士の中で、最も話しやすかったのが彼女だった。
「姫様、今日は菜園の方の手入れもしますか?」
「ええ。そのつもり」
「じゃあ、私も手伝います」
「護衛のお仕事は大丈夫ですか?」
「部隊長が見てくれてますし、近くにいれば護衛は十分行えますから」
そう言ってダリアが入口の方へ目をやると、そこにはジョンが立っていた。
50代の落ち着いた騎士で、塔警備の責任者でもある。多くを話す人ではないが、穏やかな雰囲気があって、アリスも自然に安心できた。
ジョンは軽く会釈した。
「おはようございます、姫様」
「おはようございます、ジョンさん」
「朝はまだ冷えます。お体を冷やされませんよう」
「ありがとうございます」
アリスは気遣いに笑みを浮かべる。
菜園に移り、水をやりながら土の様子を確かめる。
葉を1枚持ち上げると、虫食いはない。順調だった。
その後、雑草取りを行う。
「こういうの、姫様は本当に慣れてますよね」
ダリアも雑草取りを手伝いながら、感心したように言う。
「塔にいた頃からずっとしていたもの。料理も、手芸も、庭いじりも、嫌いじゃないから」
「何でもできるんですね」
「何でもは、さすがに無理だわ」
アリスは首を振る。
「一人でできることが増えただけなの」
その言葉に、ダリアは少しだけ表情を変えたが、すぐにいつもの調子に戻った。
「でも助かりますよ。姫様は偉そうにしませんし」
「それ、褒めているんですか?」
「もちろん」
間髪入れずに返されて、アリスは少し笑った。
そうして朝の作業を続けていた時だった。
ダリアが思い出したように言う。
「そういえば、もうすぐウィル団長のお誕生日ですね」
アリスの手が止まった。
「そうなんですか?」
思ったより早く言葉が出た。
ダリアは頷く。
「ええ。もう10日もないですよ」
アリスは迷ってから、そっと尋ねる。
「……そういえば、おいくつになられるんですか?」
ダリアは一瞬きょとんとしたあと、笑った。
「姫、そこ知らなかったんですね」
「ええ……聞く機会がなくて」
「団長は30ですよ」
アリスは目を見開いた。
「そうなんですね……」
「騎士団では、毎年、軽くお祝いするんです。まあ、団長は迷惑そうですけど」
ダリアは楽しそうに話す。
アリスはじょうろを持ったまま、視線を落とした。
ウィル様の誕生日。
そういうことを今まで一度も考えたことがなかった。考える立場でもないと思っていたからだ。
けれど、知ってしまうと気になってしまう。
何かしたい、と思うのはおかしいだろうか。
すぐに自分で打ち消す。
お祝いの席に呼ばれるわけでもない。そもそも、形だけの婚約者だ。余計なことをして困らせるだけかもしれない。
「姫様?」
ダリアの声に、アリスは我に返った。
「ごめんなさい。少しボーっとしていました」
「考え事ですか」
「え、あ、はい」
アリスが少し慌てる様子に、ダリアは笑みを浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。
ジョンが少し離れたところから二人を見ていて、その視線に気づいたダリアは肩をすくめる。手をぱんぱんとはたいて、土を落としてから続ける。
「怒られそうなので、私は持ち場に戻ります」
「怒ってはいない」
すぐにジョンの声が飛んでくる。
そのやりとりが可笑しくて、アリスはまた小さく笑った。
菜園での作業を終えるころには、朝の空気は少しやわらいでいた。
アリスは空になったじょうろを持ち直し、塔の方へ歩き出す。
ウィル様の誕生日。
その言葉だけが、なぜか胸の中に残っていた。
何もしない方がいい。迷惑になるだけだ。そんなことは分かっている。
それでも。
――何か、渡せたらいいのに。
そう思った瞬間、アリスは困ったように眉を下げた。
きっと、迷惑よね……
そう思いながらも、その考えはなかなか消えてくれなかった。
そのまま、ジョンが開けてくれた塔の扉をくぐった。



