不吉を呼ぶ姫は愛されないはずだった ―王弟が望んだのは、ただ一人の婚約者―


ゼリア王国、王宮に近い、協力貴族の屋敷。

応接室には、協力する貴族や軍の幹部たちが集まっていた。机の上には王宮の見取り図が広げられ、張りつめた空気が部屋を包んでいる。

セシリオは一同をゆっくりと見渡し、口を開いた。

「最終確認を行う。目的は国王の身柄を確保することだ。不要な戦闘は避けろ。我々が争う相手は同胞の兵ではない」

全員が無言で頷く。

「決めたとおり、戦闘となった場合のみ識別用の赤布を巻く。この場にいない者にも徹底させろ」

赤布は、すでに全員が懐へ忍ばせていた。

使わずに終われるのなら、それが一番いい。

セシリオ自身も、そう願っていた。

しかし、その願いは次の瞬間、打ち砕かれる。

応接室の扉が勢いよく開き、息を切らした兵が飛び込んできた。

「殿下! 申し上げます! 陛下が、アリス王女がおられる塔へ火を放つよう命じられました!」

室内の空気が凍りつく。

「……何だと」

「重臣方もお止めになりました。しかし、お聞き入れにはならず、すでに三十名ほどが塔へ向かっております」

セシリオは思わず目を閉じた。

父の判断は、ついにここまで狂ってしまったのか。

「他国の姫へ火を放つなど……正気の沙汰とは思えない」

絞り出すように呟くと、部屋にいた誰もが息を呑んだ。

やがてセシリオは顔を上げる。

その瞳から迷いは消えていた。

「予定を繰り上げる。今から王宮へ向かう。塔は協力者に対応を任せる」

一拍置き、全員を見渡す。

「行くぞ」

誰一人として異論を口にする者はいなかった。

いよいよ決行の時だった。


―――――――――――――


王宮正門では、突然姿を現したセシリオたちに門番の兵たちが戸惑いを隠せずにいた。

第二王子自ら兵を率いて王宮へ現れるなど、予想していなかったからだ。

セシリオは足を止めることなく正門へ歩み寄る。

「私は戦いに来たのではない。国王に話がある。道を開けてくれ」

揺るぎない声だった。

兵たちは互いに顔を見合わせるだけで、剣を抜く者もいない。

ただ、突然の出来事に判断を迷っていた。

その時だった。

「殿下!」

奥から鋭い声が響く。

近衛兵副隊長だった。

「これ以上、お進みになることはできません!」

副隊長が剣を抜く。

それを合図にするように、近衛兵たちも次々と剣を構えた。

「殿下をお止めしろ!」

副隊長の号令とともに、剣と剣がぶつかる乾いた音が王宮へ響き渡る。

しかし、それは近衛兵との小競り合いに留まり、多くの兵は剣を構えたまま成り行きを見守り、中には道を開ける者もいた。

セシリオは背後で響く剣戟の音を振り返らなかった。

今、自分が向かうべき相手は一人しかいない。

――父を止める!

数名の護衛だけを伴い、王宮の奥へ歩みを進める。

その途中、各所で待機していた協力者の兵たちが次々と合流した。

彼らは無言のままセシリオを囲み、その身を守るように隊列を固めていく。


―――――――――――――


王宮の最奥にある会議室へたどり着くと、扉はすでに開かれていた。

室内ではヴェルムントを中心に重臣たちが並び、その周囲には王直属の近衛兵たちが控えている。

先ほど正門で小競り合いが始まったとの報告を受け、国王を守るため集められた兵たちだった。

セシリオは足を止めることなく会議室へ足を踏み入れる。

重臣たちの視線が一斉に集まった。

ヴェルムントは椅子へ腰掛けたまま、息子を見据えている。

「……兵まで率いて、どういうつもりだ」

セシリオは父の正面まで歩み寄ると、深々と一礼した。

「他国の姫へ火を放つなど、国王として許されることではありません。すぐに命令を撤回してください。……まだ間に合います」

「何を申す」

ヴェルムントは吐き捨てるように言う。

「あの娘がお前に不吉をもたらしたではないか」

「この国を治める国王が、そのような噂に惑わされてはなりません」

セシリオは真っ直ぐ父を見つめた。

「今の父上は、正常なご判断ができているとは思えません」

先ほどまでヴェルムントを諫めていた重臣たちは、思わず息を呑んだ。

だが、それを国王へ真正面から告げられる者は、この場にはセシリオしかいなかった。

「ですから、どうか王位をお譲りください」

その一言に、空気が凍りつく。

ヴェルムントはゆっくりと立ち上がる。

驚き、怒り、そして裏切られたという思いが、その表情に浮かんでいた。

「……この私に、王位を譲れと言うのか」

「はい」

セシリオは迷うことなく答えた。

「今の父上には療養が必要です」

「黙れ!」

ヴェルムントは机を激しく叩いた。

「セシリオを捕らえよ!」

その命令と同時に、近衛兵たちが一斉に動く。

セシリオの護衛たちも剣を抜き、その前へ躍り出た。

狭い会議室に鋭い剣戟の音が響き渡る。

重臣たちは慌てて壁際へ下がり、固唾を呑んで成り行きを見守っていた。

一瞬にして会議室は戦場と化した。

それでも、セシリオだけは剣を抜かなかった。

激しくぶつかり合う兵たちの間に立ちながら、ただ父だけを見つめる。

「父上、どうかお聞きください」

その声は、剣戟の中でもはっきりと届いた。

「私が望むのは、この国を守ることだけです」

ヴェルムントは怒りに満ちた目で睨み返す。

「私がこの国のことを考えていないと申すか」

「いいえ」

セシリオは首を横へ振った。

「父上は父上なりに、この国を守ろうとしてこられました。ですが、最近のご判断は、正しいものとは思えません」

「王位は、王太子である兄上にお譲りください」

その言葉に、ヴェルムントの表情がさらに険しくなる。

「……フレデリックまでも、私を追い落とすというのか」

「それは、違います」

セシリオはきっぱりと答えた。

「兄上は何もご存じありません」

その時だった。

会議室の入口に一人の人物が姿を現す。

「父上」

聞き慣れた柔らかな声が会議室へ響いた。

セシリオは思わず振り返る。

「兄上……!」

そこに立っていたのは、本来ここへ来るはずのなかったフレデリックだった。

青ざめた表情のままセシリオの隣まで歩み寄ると、静かに口を開く。

「お前にだけ罪を背負わせるわけにはいかない」

その一言に、セシリオは目を見開いた。

フレデリックはヴェルムントへ向き直る。

「父上、どうかお引きください」

周囲ではなお剣戟が続いている。

それでも、その落ち着いた声は会議室全体へ響き渡った。

「これ以上、兵同士が傷つけ合うことに意味はありません」

そして、その場にいる全員へ視線を向ける。

「皆、聞いてほしい」

「私は、この国を立て直し、争いのない国にしたいと思っている。そのためには、この場にいる皆の力が必要だ」

「どうか、これからもそれぞれの立場で、この国を支えてほしい」

フレデリックは深く頭を下げた。

「……頼む」

その瞬間だった。

会議室へ響いていた剣戟の音が、ぴたりと止む。

剣を交えていた兵たちも、剣を構えていた兵たちも、驚きから動きを止めた。

王太子が、自ら兵へ頭を下げる。

ゼリア王国では、誰一人として見たことのない光景だった。

やがて一人の近衛兵が、ゆっくりと剣を下ろした。

「何をしている! 陛下をお守りしろ!」

重臣の怒声が飛ぶ。

しかし、その兵は動かなかった。

また一人。

さらにまた一人と、兵たちは剣を下ろしていく。

「……もう、これ以上はおやめください、陛下」

別の重臣が力なく呟く。

なおも国王を守ろうとしていた重臣たちも、兵たちの様子を見渡し、やがて口を閉ざした。

これ以上、争いを望む者はいなかった。

会議室は静まり返った。

ヴェルムントだけが怒りに震えていた。

「貴様ら……」

「皆、私を裏切るというのか!」

その叫びだけが、静まり返った会議室へ虚しく響く。

セシリオはゆっくりと父の前へ歩み寄った。

「父上」

その声に怒りはなかった。

あるのは、父を案じる息子としての悲しみだけだった。

「どうか、ご療養ください」

そう告げると、近くにいた兵たちへ視線を向ける。

「父上を私室へお連れしろ」

兵たちは無言で頷き、なおも恨み言を口にするヴェルムントを支えるように会議室を後にした。

「塔へ向かった兵へ伝令を出せ。放火を中止させろ。急げ」

命を受けた伝令が駆け出していく。

――あの王弟なら、必ず王女を守る。

そう信じるしかなかった。